見出し画像

自分を取り戻す場、人とつながる場

こんにちは(^^)

フィンランドのドキュメンタリー映画『サウナのあるところ Steam of Life』(2010年)で、サウナの蒸気に包まれながら、離ればなれになった娘のこと、犯罪歴のある昔の自分のこと、かけがえのない“親友”のこと、先に逝ってしまった妻や子どものことなど、人生の悩み・苦しみ、大切な想いを、自然と語りはじめる(ときに号泣)おじさん達をたくさん拝見しました。日本のフィンランド大使館にもサウナが設けられていて、客人と同じ空間で裸で、いろいろ話すのだそうですね。重要な社交の場!


フィンランドのサウナと日本のお風呂の、核心とも言える共通点、それは「素っ裸で健全に楽しむ」ということです。ほかの多くの国のスパや温泉では、水着着用が一般的。けれど、水着だなんてぴったりした被服が身体に張り付いた状態では、その快楽も半減してしまうことを、フィンランド人も日本人も、みんな肌で知っています。熱い蒸気やお湯が、何にも締め付けられない素肌に直に触れ、その熱が血流に乗って身体の隅々にまで沁みわたっていき、やがて体内に蓄積していた疲労感さえ湯気と一緒に昇華していくかのような、得も言えぬ心地よさ。この快感については、ほんとうに美味しいご飯をいただく瞬間のように、言葉巧みに説明する必要すらありません。あぁいい湯だな。フュヴァット・ロウリュット(いい蒸気だな)。喉よりずっと奥から出てくるこのシンプルな決まり文句こそが、その恒久の快を充分に代弁してくれているのです。

現代に生きるわたしたちはもうあまり意識することもないかもしれなせんが、サウナもお風呂も古来、火と水という自然界の元素のエナジーに依拠した浄化行為であることから、必然的に神聖視されてきました。フィンランドの場合、つい戦前までは、出産や手術、屍の洗体もサウナ室内でおこなわれるのが一般的でした。また、サウナの中では性別や身分、宗教や出自などすべての肩書から解放されて万人が等しく快楽を享受するべきである、という究極の平等思想が継承され、これは今日でもしっかりと守られています。いっぽうの日本の入浴文化も、神道における沐浴や禊の慣習、あるいは仏教寺院への入浴施設の設置や施浴の実践に、その礎を見出せます。湯灌(ゆかん)も、まさにサウナ室での遺体の洗浄と対を成す慣習です。単なる生活空間の一部であるという以上に、土着信仰との密接な関係が保たれ、人びとの畏敬の念が宿る場であったからこそ、両入浴文化は今日もなお脈々と受け継がれているのでしょう。

フィンランド人のサウナ文化と日本人のお風呂文化の類似性に着目したのは、むろん筆者が最初ではありません。少なくとも1990年代以降に2つ、この両入浴文化の比較をテーマにした特別展が、小規模ながらもヘルシンキと東京を巡回していた記録があります。

とりわけ興味深いのが、1997年に開催された「風呂FURO & SAUNAサウナ展」という巡回展。(略)

同カタログ内では、建築家であり道具学研究家の山口昌伴(まさとも)さんが、フィンランド人のサウナ文化と日本人のお風呂文化に共通した、歴史的(宗教的)意義に端を発する恒久的価値として、次の四単語を挙げています。

やすらぎ (心と体が緊張から解放される)

きよめ (心と体が浄化される)

いやし (心と体が患いから回復する)

たのしみ (心と体が楽しむ)

まさにこの四つの価値こそが、宗教性・神聖さが薄れてきた現代においてもなお、両民族がわが身をもって知り、継承している、日々の暮らしにサウナやお風呂を必要とし続ける理由そのものではないでしょうか。そして、このまったく同じ価値に裏付けられた入浴文化を背景に持つ民族同士だからこそ、街づくりという現代的なフィールドにおいても、互いに学び合える事象があるのではないでしょうか。

こばやしあやな

『公衆サウナの国フィンランド 街と人をあたためる、古くて新しいサードプレイス』(学芸出版社、2019年)より


フィンランドでは近年、公衆サウナが増えているそうです。日本でも銭湯文化が見直されて&サウナブーム(「ととのう」とか「サ道」とか耳にします)で、趣向を凝らし非日常を味わえる内装の銭湯/伝統的な富士山のタイル絵を現代風にしている銭湯などが多数あるそうです。手拭いあるいはタオル一枚持って、いってみたいなぁ…! 以下に、フィンランド社会からのヒントを!

* * *

サウナの中に限った話ではなく、フィンランド社会の人間関係においては、「オマ・ラウハ(oma rauha)」という概念が重要視されます。直訳すれば「自分の平和」という意味で、大雑把に解釈すると、いわゆるパーソナル・スペースのことです。

「オマ・ラウハ」の核心にあるのは、自身の意思決定や、ひいては生き方の自由を、他者に規定・干渉されたくないという欲求です。そして、「オマ・ラウハを守るために、他者に対しても寛容になろう」という価値観に基づいて、絶妙に言動をコントロールするフィンランド人がとても多いように感じています。

(略)いくら他者の境遇や言動がいまの自分と相容れないから(あるいは妬ましいから)といって、相手のやることなすことに怒りや文句をつぶけ、おせっかいな忠告や干渉ばかりをしていたら、どうでしょう。巡りめぐって、いつか自分自身の境遇やふるまいも誰かに非難され、自由が脅かされるときが来るかもしれない。だったら、日頃から他者の言動や選択には極力干渉せず、相談を受けない限りは放っておくから、その代わり自分が自由に生きる権利もどうぞそっとしておいてください……というのが、彼らの言い分です。ええ、フィンランド人はいまも昔もやっぱり、根は必要以上に他者に関わられるのが苦手な民族なのです(笑)。

* * *

自分が責められないように自主規制をしながら他人を牽制するよりは、ほかの人を責めはしないからわたしの自由も認めてくださいね!というスタンスのほうが、健全でみんなハッピーなのかな。

If we can believe each other, the society and our mind will be more enriched ☆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?