見出し画像

変化こそ…

こんにちは(*'▽')

自分を見失う、「らしさ」がわからなくなる。焦りや他人への羨望から、そんな状態に陥ることもあるかもしれませんが、もしかしたら、そんな確固たる自分像ももともとあやふやなものかもしれません。


どれだけものを考えつめたつもりでも、人はその年齢なりのことしか考えられない。あとからふりかえってはじめて、「あのとき」に意味が発生する。だから人はたびたび過去をふりかえり、自分の生きてきた物語を読み直す必要がある。

22歳で、長年したしんだ学校という居場所から追いだされ、わたしには行くあてがなかった。(略)そのときどきの収入を得ながら、それでもわたしは名前のない、年齢も性別もない、なにものでもない存在になった。

いっぽうでわたしの優秀な女ともだちは、この年吹いた「男女雇用機会均等法」という風をとらえていっせいに飛び立っていった。総合職女子の募集が、これからはつねにあるのだ。男が歩む出世のコースに、自分も同じ資格でエントリーしてよいのだ。彼女らは、女の学生にあたらしく与えられた夢をたのしんでいた。形式上の受け皿が用意されたということは、自分個人が受けいれてもらえるということと同じだと、彼女らは思ったようだった。

それぞれの業界で日本を代表する大企業に所属し、会社員としてひとつずつ上の肩書を手にいれていく道が自分にもひらかれたことを心の支えにした彼女らの自意識は、はじめはきらきらとかがやいていたと思う。しかし数年もたたないうちに、彼女らはすっかり変わってしまった。

こころの変化は、外から見ただけではわからない。しかし態度の変化はすぐに目につく。よくできる学生であった頃の彼女らは、みな勉強家であり、努力をおしまず、活動的であった。はきはきと意見を述べ、てきぱきと行動にうつす姿がたのもしかった。しかし彼女らのそうした快活さはじきに消えてしまい、かわりに目につくようになったのは、まるで別人のようなふるまいだった。

できるかぎり速度をおとしてささやくように話す。視線は上目つかいでまばたきを多く。甘ったるい声と舌足らずな発音。あらゆる語尾をはっきり言い切ることなく、相手の発言を否定・訂正したいときはほほえみながらごくわずかに小首をかしげるにとどめ、自分の個人的な価値判断は表情にけっして出さない。それが彼女らがあたらしく手にいれた身体表現だった。

ひとりひとり離れた職場に行った女たちが同時にそう変化したのをみると、これは意図的にそうしたというよりはほぼ無意識に身につけたふるまいなのだろう。そして無意識であるために、かえってそれは彼女らの身体にふかく染みついたのである。

メンバーのほとんどが女だという職場や、もともと男女の区別のない職場に行った人には、こうした変化はあらわれなかった。たとえば同い年のナースたちに、まばたきの多い上目づかいでゆっくりゆっくり話す人はまずいない。いわゆる男社会の組織に参加した「出世志向の女」だけが、こうした擬態を身につけたのだ。

「わたしは男を凌駕しようとか、見下そうとか、そんなことはつゆほども思っていません」ということを、彼女らは朝から晩までかたときも休まずに態度で表明しつづけた。

まわりの男たちにまさる実力をつい無邪気に披露したために「あの女は生意気だ」と陰口をたたかれたちまち孤立する、そういう実例を彼女らは身近にいくらでも見たのである。

彼女らのひとりは、あるとき酒に酔って「いったん生意気な女と判定されたらもう会議で提案をさせてもらえない。『けなげで献身的で、男の言うことをけっして否定しない女』をいつもいつも演じていなければならない。本来の自分の人格なんてもう忘れてしまった」と愚痴をこぼした。

わたしよりも少し年上の女から、少し年下の女までだ。

(略)しかしいずれにせよ、これはかつてほんとうに起こったことであり、わたしの世代の女のもつ傷なのだ。男の職場に乗りこんでいき出世をあらそった体験のない、したがって声や発音を変えることもなかったわたしはこの傷はつかなかったのだが、それでもわたしはおなじ時代を生きた女としてこの傷を共有している。

強い外力がくわわったことによって、心身が変形する。

それはたいてい、つらく不愉快な体験として記憶されるものだと思う。人間は本質的に変化をきらう。強いられた変化はなおさらである。

病気や怪我で身体の一部をうしなったときの喪失感から、まげられない信念をどうしても放棄せざるを得ないときの葛藤まで。人の一生は、こんな変形の痛みの連続だともいえる。

しかし、変わることが不愉快だというのは、「外力がくわわらなければ変化しない、もとの自分」というものを想定した考えかたであろう。不動の自分、無傷の自分なんて、そんなものがあるのだろうか。かりにあるとして、それは価値あるものといえるのか。同級生たちがあたらしく獲得した奇妙な甘い声を聴きながら、わたしはいつしかそう考えはじめていた。

わたしは彼女らに、自分も彼女らの仲間であったころの、あの快活でのびのびとした姿にもどってほしいと思ってしまった。あのころの姿こそが、彼女らの本来の姿だと思ったからだ。しかしそれは、その頃流行していた「ほんとうの自分というものがあり、それこそは無上の価値なのでなにがあっても守りぬくべきである。変わらぬ自分こそが真実の自分だ」というメッセージ(それはポップ・カルチャーのあらゆるシーンに氾濫していた)を肯定することではないか。

何度考えなおしても、そんなメッセージに同意することはできなかった。人は変わるのが自然であり、またほんとうでもあるはずだ。私は彼女らの変化を「外力がくわわってできた傷」ととらえるのではなくて、「一生かけて変転していく彼女らの姿の、ひとつの段階」と見るべきなのではないか。いまわたしが不愉快に感じる彼女らの身体表現も、このさきまた変わることもあるかもしれない。たとえ死ぬまで変わらなかったとしても、それはたまたま変化の機会がなかったというだけで、また違うタイプの外力が強く作用すればきっと変わる。

人は変わっていくもので、不変の自分というのはときに有害なフィクションである。

井坂洋子の詩においては、「わたし」の像がいつも揺らいでいる。くっきりとした人のかたちの輪郭線にかこまれた揺るがぬ自分像など、探してもどこにも見当たらないほどである。(略)

人はみな、自分自身のすがたを知っていると思いこんでいる。鏡をのぞきこまない日はないし、写真にうつった群衆のなかからでも自分自身を容易に発見する。人間にとって自分の像は、こころにふかく刻みこまれた、不動のものであるように思える。

しかし、自分の表情、しぐさ、姿勢やふるまいなど、ほんとうはどれをとっても自分自身には見えないものだ。わたしは、カフカの書いた奇妙な主人公のように、人から見れば一匹の巨大な虫なのかもしれないのだ。

  甲虫(こうちゅう)  井坂洋子

眠気を誘う偵察機の爆音が近づいてくる。われわれはみな、白っぽい大きな図体をして葉の裏にしがみつく。

いくどやってきたとしても同じこと、雑草(あらくさ)の葉の裏にぶらさがって、茎に頬ずりしている間は、しあわせなことに目も耳も退化して痛むところのない体を与えられたことを天に感謝すらしているのだ。

爆音が去り、足の裏に風がゆきすぎるのを感じると、不安になってあたりを見回すが、みなそれはもう持ち前の穏やかさで顔色ひとつ変えず、明日の天気の占いなどしはじめている。つの突きあわせて大のおとなが何を考えているのかと言いたいくらい安逸と怠惰に身をまかせ、光の射す角度や隣りの茎との距離を大雑把にみつくろい、空想にふけるのにもっとも適当な場をはじきだして、ガサガサと移動する。

するともう眠くなってくるのだ。半睡のまま、光と影とのあわいに腰をひくつかせて、それぞれがこう考えている。「最近はあれこれ想像するだけで半日楽しめるといった人種が増えつつあるらしい。それというのも危険な運命をまぬがれて、半病人が苦い薬を喜んで飲むような具合に、人なみに苦楽を経(へ)、とりあえず人生の大半を生きたと思っているからだ。人が旅からとって返しているのに、自分はその間、ずっと眠っていた。まだ、半分、四分の一、八分の一も生きてやしない。」

そしてある日誰かが、苛々とつぎの旅の仕度をはじめる。

日がかげり、茎の影とがわかちがたく同色に染められた時分になって、「さあ、はじめよう」と言うのである。なぜ白っぽい大きな図体のままで葉の裏にしがみつき、やりすごす自分ではいられないのか。のりおくれたくない者はみな、いや、のりおくれることが好きな連中まで渋りながら身をひきしめて、獰猛な猛々しい口つきになっていく。

1991年 詩集『地に堕ちれば済む』

あのころのわたしたちを包囲していた「不変の自分、揺るぎない自分」というフィクションを、井坂洋子の詩はいつもかろやかにくつがえしていった。

この詩だって、人間を甲虫にたとえた寓話仕立ての詩などではない。そういうふうに読むと、この詩はきゅうにスケールが小さくなり、凡庸な表現物になりさがる。この詩のなかの「われわれ」はほんとうに甲虫なのであって、この詩は「人はまったき人間でありながら同時に虫であることもある」ということを示しているのだ。

鏡をのぞきこんで、そこにうつったものが人間のかたちであると見るのは、感覚の感度がそれほどよいわけでもない視線であり、かたよった先入観にあらかじめ染められた意識である。われわれは、自分で思っているほど、純粋に視覚のちからでものを見ているわけではない。

井坂洋子の描いた「甲虫」は、われわれのとりうるすがたのひとつだ。こういうふうに見えてもおかしくはないのだ。ただ、われわれは自分が人間であることにあまりにも自信をもちすぎているので、鏡にうつる自分がとても虫のようには思えないというだけなのである。しかし、すぐれた表現物は、われわれが虫である可能性を稲妻のようにひらめかせ、それを忘れていた苦みとともにわれわれに思い出させる。

渡邊十絲子(わたなべ としこ)

『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書、2013年)「第5章 生を読みかえる 井坂洋子のことば」より


……正直、井坂洋子さんのこの詩がわかるかと言われたら、わかっていないのかもしれません。でも、こういう場面遭遇しているかも、わたし、という気はします。説明できないモヤッとしたものに映像をもらったような感じもします。現代詩を自分で味わえるようになるにはあるていど作品量を読む経験が必要かもしれませんが、渡邊さんのお話を通して入り口に立てそうです。

「不動の自分、無傷の自分なんて、そんなものがあるのだろうか」「不変の自分というのはときに有害なフィクションである」…なんだかスッと腑に落ちます。自分のこれまでを思い返しても、いろいろと変遷があるのが自然なような気がします。

【ほかの誰とも違う自分というものがあって、それは世界で唯一の存在であり、個性として尊重されなければならない。そのかわりに、人は自分自身を把握し、コントロール下におき、自分のこころに責任をもつという考えかた。それはいまふつうの人が自然に意識する「自分」のありかただろう。でもそれは自明のことではなく、人間の本性でもない。それは社会の秩序をいまのような形式でかたちづくるうえでの、仮の約束事にすぎない。同書p.180】

学生のころ「○○(私のあだ名)らしい」と何をするにつけ言われたことがありましたが、何が私らしいのか本人としてはよくわかっていませんでした。らしくないことをしたいときは、その人のいないところでするべきなんだろうか? そんなの、なんか窮屈だなぁ、と思いましたが、当時は何しても「○○らしさ」からはみ出すことはなかったようです。

「人間であることにあまりにも自信をもちすぎている」…意識が肥大化しているのかな。汗をよくかくようになり、暑さでとろけてしまいそうなとき、身体から一旦出た汗はもう私ではないんだろうな、でも内部と外部の境目なんてあいまいだな、自分は自然の一部だな。脳細胞以外は半年くらいで入れ替わるみたいなので、けっこう身体も確固たる自分というわけではないのかも!?

The only thing that is eternal is change ☆

(変化こそ唯一の永遠である。――岡倉天心)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?