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これっくらいの、おべんとばこに…♪

こんにちは(*'▽')

飛行機に乗ったとき、手にとった機内誌「翼の王国」で見かけたことのあるお弁当&その主の肖像のコーナー。本になっているの最近知りました! 現在の仕事をすることになった経緯や家族の話、思い出話、今後の展望など、取材された人のエッセンスがぎゅっと凝縮された文章に心惹かれました!


赤いウィンナー、これが一番いいね。昔っから、弁当にはこれ。あと、メシの上にのってる大根の味噌漬けね。高校ん時は、おにぎりをよく作ってもらったけど、うちのはでかかったです。茶碗にメシ入れたらもう一つ茶碗を合わせて、カシャカシャ振るんですよ。具は家で漬けたしょっぱい梅干し。海苔をそのまま1枚巻くおにぎりでした。

今も、毎朝ばあちゃん(母)がおかずを作って並べておいてくれるから、自分で詰めて持ってきます。前はカミさんが作ってくれたけど、2年前山古志に戻って、親と同居になってからこのスタイル。カミさんも働いてて、娘の世話もあるしね。野菜は、裏の畑でばあちゃんが作ってる。今ならピーマンに似た唐辛子「かぐらなんばん」やナスが採れて、弁当にも味噌炒めが入ってます。

10分で弁当食べて、あとは車ん中で寝ます。7月末の大雨で、山古志のあちこちが崩れちゃって、今はその修復作業です。崩れた土砂を撤去して、水路を造ってU字溝に流す。基本的に、毎日山古志のどこかの現場に行って仕事をしてますね。

夕方家に帰れば、田んぼの草刈りに牛のエサくれね。できたら、散歩も。犬みてえに紐つけて、牛を歩かせるんです。そこらの草を食べさして1時間半くらい。前はよく、他の牛が散歩してるのに会いました。道端で「角突き」さしたこともあるけど、離れなくなると後が大変だから、今はやんないね。普段はおとなしいけど、山古志のはみんな闘牛ですから、闘争本能があるんでしょう。

子どもの頃から、ずっと家に牛がいました。夕方のエサくれや散歩は子どもらの仕事だったんだけど、中学に入ると部活動が始まって忙しくなるじゃないですか。俺は5人兄弟の一番下で、上から順々に牛の世話が回ってきて、最後俺んところにきたらもう、次がいない。結局そのまま、俺が牛飼いになったんです。

まあ、牛は道楽で飼ってるようなもんです。ペットと同じ。山古志では、みんなそう。角突きが、楽しみなんです。

7年前、新潟県中越地震が起きて村民全員が避難した時には、牛が心配でした。何度目かにヘリコプターで帰ってきた時、牛を繋いでた綱を切って離そうって親父とふたりで決めました。あの時のことは、ちょっとね。気持ちが強すぎて、言葉にできない。両親は長岡市内の仮設住宅、俺はアパート暮らしをしながら、山古志に帰りたいって気持ちはずっとありました。こんなに復興するとは、あん時は思わなかった。娘が生まれる時、山古志から一文字とって名前をつけようってかみさんと話し合って、「志穂」って名付けたんです。今みたいに、稲穂が綺麗だったから。

明日、闘牛場で角突きがあります。うちの充号も出る予定です。山古志の闘牛は、勝敗を決めずに引き分けるのが原則。このままいくと片方が逃げ出すぞっていうタイミングを見て、勢子(せこ)が牛に飛びつくんです。鼻をとって、引き離します。親父を見てたから、高校ん時から俺も勢子をやってます。

5月から11月の闘牛シーズンはつきっきりだし、稲刈りの後、地域のボウリング大会の準備もある。自分の時間は、ほとんどないっすね。今の楽しみは、2歳になった志穂と遊ぶ時間です。

青木充さん (土木作業員・新潟県長岡市山古志)

家族巡業・その後

9歳になった娘が、ちょっとした反抗期を迎えた。「お父さんとお母さんが仕事してるところ、デジカメでそっち側から撮ってね」とカメラを手渡したのに、ベンチの上にあぐらをかいたまま、本から目を離さない。デジカメは、木のテーブルに置いたままで、時々ちらりと私を見る。「ほら、お願い」と、シャッターを切る真似までしているのに、「関係ないもん」というオーラを放って、知らんぷりだ。

新潟県の旧山古志村に来ていた。取材をお願いした青木充さんは、青木和葉さんの旦那さんだ。和葉さんはかつて、十日町市の宿泊・体験施設「光の館」に勤務していて、私たちが “お弁当ナンパ” した女性だ。撮影させていただいてから、もう7年になる。一時期連絡がとれなかったが、最近になって山古志に暮らしていることを知った。聞けば、旦那さんはお弁当ということで、よし、行ってみようと、再度取材をお願いしたのだった。

お弁当の取材を始めて10年あまり経つが、相変わらず子連れの家族巡業スタイルを続けている。娘が小学生になってからというもの、学校の長期休みを中心に移動することが多くなった。

さて、青木さんのポートレート写真をどこで撮ろう。サトルが出した指示は、トラックの荷台に立ってもらう、というものだった。「4×5」カメラを引っ張り上げ、私もトラックによじ登る。娘は抵抗のまっ最中なので、当てにはしない。

半年前、岩手県の八幡平でバスの運転士・工藤敏美さんを撮った時は、吹雪の中の厳しい現場で、娘も助手として活躍してくれた。カメラの横で私が傘をさし、娘がルーペを父親に手渡す連携作戦だった。取材の旅では、娘にしっかりと見て感じて欲しいと思う。ただ、彼女にも自我が芽生え始め、そろそろ難しい年頃になってきたことは確かで、家族巡業もそろそろ終盤にきているのだなあと思う。

ふと、取材を始めたばかりの頃を思い出した。泣かないで、ただ静かにしているだけで万々歳だった日のことが蘇る。娘の世話を親に頼まなかったのは、4歳まで彼女がひどいアトピー性皮膚炎だったからだ。預かってもらうなんて、とんでもない。夜2時間おきに目を覚ましては痒がるので、一晩中擦る私の掌は、血でまっ茶色になる。そんなことは、母親の私にしかできないという自負があった。

当時、取材を引き受けて下さった方々は、娘の肌を見て驚いたと思う。しかも、「お母さんがお話を聞いている時は、喋りかけちゃ駄目」と言ってあったから、寝不足で不機嫌な娘は、いつも口をぎゅっと結んで私の足にしがみついていた。

小さい頃、娘はお絵かきに夢中だった。そのうち、リュックにいっぱいのぬいぐるみを連れて行き、一人でおままごとをするようになる。それが、ドラえもんや青い鳥文庫の本になった頃、ひとりで何時間でも過ごせるようになっていた。その娘が、今度は口を尖らせて反抗期だというのだから、成長したものだ。

青木さんのインタビューは、彼の仕事の都合で翌日に持ち越された。「闘牛」の始まる前に、という約束だったが、草刈りや会場設営などで忙しい。ようやく時間をいただいて腰をおろすが、こんどは仲間が前を横切り携帯電話が鳴り、青木さんの腰は半分浮いたままだった。そのうち、首に巻いていた手ぬぐいをすっぽりと頭から被り、頬も口元も覆い隠してしまった。よっぽど、照れくさかったようだ。

闘牛場には、和葉さんも来てくれて、ちょこちょこ走り回る2歳になった志穂ちゃんの後を、追いかけていた。和葉さんの取材時、うちの娘はちょうどあの年頃だった。

闘牛の後、人気のなくなった場所で私はもう少しだけ青木さんの話を聞きたかった。「青木さんがいいって言ってくれたら、もうちょっと話を聞きたいんだけど」。隣にいるサトルに声をかけたつもりだったが、「お母さん、いいよ。聞いてきなよ」弾けるような娘の声が返ってきた。「待ってるから、大丈夫だよ」。

阿部直美

『おべんとうの時間(2)』(写真・阿部了、文・阿部直美、木楽舎、2012年)より


大人になってから自分でお弁当を用意するとき、信州物産展で買った木製のお弁当箱を使うようになりました。ただの焼きピーマンとウィンナー&ゆかりご飯でも、めっちゃ豪華に見えて不思議です…( *´艸`) しかも、物産展が年中催される催事場専門レジ員のパートをしてた頃、北海道から北陸、京都、九州まで名産品と工芸品で目の保養しながら、脳内旅行をしていたなぁ♪と、懐かしむこともできます。京都の舞妓さんゆるキャラや、赤べこの赤べえの着ぐるみ着たのは楽しかった!とか。自分の顔が見えないことをいいことにいろいろポーズして、ちびっ子たちに遊んでもらいました(^^)

取材をしている阿部さんは、よほどお弁当に愛着があるのかと思いきや、「弁当というものは、残酷だ。中学一年生で、私はそう思った。自分が背負っている家族を、小さな箱と向き合う度にいつも突きつけられる。隠したくても、見る人が見ればわかってしまうかもしれない。どうかわかりませんように、気づかれませんように。それが、中学生の私の『おべんとうの時間』だった。」と別の著書『おべんとうの時間がきらいだった』(岩波書店、2020年)につづってあります。家族なんてくそくらえ、湿っぽいお弁当なんか開けたくない……幼少時代から家族の呪縛に悩みぬいてきた記憶がある……。表紙の内側に書いてあります。

共感したり、浄化されたり、このエッセイ読めてよかったです。

In the world, there are various Japanese box-lunch "OBENTOH" ☆

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