灯火の言葉:『わたしは、ダニエル・ブレイク』から
こんにちは(*‘ω‘ *)
山あり谷ありの人生のなかで、厳しい局面で自分の心を支えてもらった言葉をひとつ、ふたつ、時を経てからもずっと心に抱いている人もいるかもしれません。それは名言のように真理をいいあてるようなものに限らないようです。【注意。この映画をこれから観ようとしている方は、物語の内容をここでかなりさらってしまうことになりますので、先に観たほうがよいかも…!】
ここまで、私が接点を持った方々の言葉を紹介してきたが、もうひとつ、誰でも「灯火(ともしび)の言葉」を持ちうるのだということ、そしてシンプルな言葉も「灯火の言葉」になりうるのだということを、ひとりの少女の言葉によって示したい。ケン・ローチ監督の映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)に登場する、デイジーという少女の言葉だ。
デイジーは、シングルマザーのケイティの娘。ケイティ、デイジー、そして弟のディランの三人で、ロンドンを離れ、イギリス北東部のニューカッスルに移り住む。ロンドンではアパートを追い出され、ホームレスの宿泊所で二年間、一部屋に三人で暮らしていた。弟のディランが精神的に限界になり、役所から紹介されたのが、ニューカッスルの家だった。
そのニューカッスルの職業安定所で、ケイティはダニエルに会う。大工として働いてきたダニエルは、心臓病を患って医者から仕事を止められるが、労働年金省から民間委託された機関による機械的な判定によって就労可能と判定され、支援手当てが得られない。そこで職業安定所に出向いたのだが、求職者手当の受給や手当不支給の不服申し立てにはオンラインの手続きが必要と言われ、パソコンに慣れないダニエルは戸惑ってしまう。
その職業安定所で職員に強く抗議していたのが、ふたりの子どもとやってきたケイティだった。指定の時間に遅刻したことから制度利用上の違反を問われたケイティ。抗議しているのに聞く耳を持たない職員の対応を目にして、ダニエルは、慣れない街に来たばかりなんだからと、人間的な対応を職員に求めた。
結局、ケイティと子どもたちも、ダニエルも、抗議は聞き入れられずに職業安定所を追い出されるのだが、そうやってケイティに出会ったダニエルは、ケイティと子どもたちの支えになろうと尽力し、交流を深めていく。
けれども、ダニエルは柔軟な対応を拒む役所の対応に翻弄されることの繰り返しで結局手当を受け取れず、ケイティも仕事を探し、生活をなりたたせようと努力しながらも、次第に追い詰められていく。
見せたくない姿をダニエルに見られたケイティと、役所の非人間的な対応に自尊心を傷つけられ続けることを拒んだダニエルとのあいだの交流が途絶えたあとで、ケイティの娘のデイジーが、ダニエルの家に出向く。
何度電話しても連絡が取れなかったダニエル。ノックをしても返事がない。新聞受けから家のなかを覗くと、家具もなくがらんとした部屋。そのなかで意気消沈した様子のダニエルの影が揺れる。
「ママが元気がないの。話をしてあげて」とデイジーが求めても、ダニエルは「デイジー、頼む。具合が悪いんだ」「帰ってくれ、お願いだ」とドアを開けようとしない。
それに対しデイジーは、新聞受けからなかを覗きつつ、こう問いかける。
一つ聞いていい? 前 助けてくれた?
ダニエルは「たぶんね」と答える。それに対してデイジーは
じゃ 助けさせて
と声をかけるのだ。その言葉が、ダニエルに扉を開かせる。
体調も悪化し、経済的にも困窮し、ケイティとも気まずい関係となったダニエルは、もうケイティと子どもたちを支えることはできないと思っている。だから、クスクスを持ってきた、キャンディも持ってきたというデイジーに対して、扉を開こうとしない。
そのダニエルに扉を開かせたのが、デイジーの「灯火の言葉」だ。
「前 助けてくれた?」「じゃ 助けさせて」。
シンプルな言葉だ。けれども、それは、ダニエルが自分たちのためにしてくれたことへの、肯定的なフィードバックの言葉だ。心臓が悪いことを私たちは知らなかったとも、デイジーはその前に語りかけている。デイジーのこの言葉は、ダニエルにはこう届いただろう。
「あなたは、困難の中にあっても、私たちをたすけてくれた」
デイジーは言葉少なく、聡明な印象の少女だ。彼女は、行政の冷たい対応に翻弄されるダニエルの姿は知らない。その代わり、ダニエルが自分たち家族のためにしてくれたことは、じっと見てきた。
職業安定所で母親のケイティが遅刻を咎められて抗議しているときには、ダニエルもいっしょに抗議し、人間的な対応を職員に求めてくれた。いっしょにアパートにやってきて、配管を直してくれた。ロンドンを追われた顛末を語るケイティの言葉を、共感をもって聞いてくれた。家の中でもボールを投げ続ける弟に語りかけ、ドアを直し、電気代が払えないため寒い部屋でもしのげるようにと、窓に緩衝材を貼ってくれた。そして、自分のために、木を削って魚のモビールを作り、窓際に掛けてくれた。
生き延びることに精いっぱいな母親の姿を見ながら、おとなしくしていることでなんとか状況に適応しようとしていたデイジーは、ダニエルが作ってくれた魚のモビールがきらきらと光りながら揺れる様子に、初めて笑顔を見せ、目を輝かせる。
けれども、その後も母親のケイティの困窮は続く。夜中まで浴室のタイルを磨くケイティ。剥がれ落ちて壊れてしまったタイルに気落ちしながらも、娘を気遣うケイティ。
別の日にはケイティはダニエルに案内されて、フードバンクの列に並ぶ。フードバンクの棚をまわっているうちに、思わず手にした缶詰の蓋を開けてむさぼり食べようとするケイティ。驚いた支援スタッフに声を掛けられ、ケイティは涙を流して腰掛ける。デイジーは「どうしたの?」とケイティのもとに駆け寄る。
「ごめんなさい」「お腹がペコペコで」「ミジメだわ」と涙を流し続けるケイティの前に、ダニエルがひざまずき、手をさすって、こう声をかける。
いいんだ 大丈夫だよ そんなことないよ 気にするな こんなこと大したことじゃないよ いいかい 君は悪くない 二人の子と遠い地へ追いやられて立派にがんばってる そうだろ? 大丈夫だ ここの人は味方だ 何も心配ない
手を取り、目を見つめ、肩に手をかけてケイティにそう語りかけるダニエルと、涙を流し続ける母親のケイティ。デイジーはふたりの姿を、ダニエルの背後からじっと見つめている。
そうやってデイジーは、ダニエルが自分たちにしてくれたことをじっと見てきた。母親を支え励ますという、自分にはできないことをダニエルがしてくれていることを、ずっと見ていた。ダニエルは、子どもたちのために簡易ストーブを用意し、大学に戻って学びなおそうとするケイティのためには、本棚を作り始めていた。
そのような日々の積み重ねがあってこその、「前 助けてくれた?」「じゃ 助けさせて」なのだ。だから、シンプルな言葉でも、その言葉には、デイジーが見てきたダニエルの姿が詰まっている。ダニエルも、そのことを知っている。だからその言葉には、もう自分にはできることはないと心を閉ざしていたダニエルに、扉を開かせる力があったのだ。それは、困難の中にあっても隣人を助けることを大切にするダニエルの生きかたを、率直に肯定する言葉であったからだ。
そしてまた、デイジーのこの声かけは、困難のなかにあっても隣人を助けることが大切だというダニエルの生きかたを、デイジーが受け継いだことを示している。それは、ダニエルがケイティにおこなった声かけから、そしてダニエルが自分たちにしてくれたことから、デイジーが身をもって学んだことだった。
このデイジーの言葉から、私たちは学ぶことができる。
大事なのは、言葉の修辞ではないことを。「灯火の言葉」は、言葉遣いに長けた人だけが駆使できるものではないことを。丁寧に相手に向き合うこと、丁寧に相手を認めること、そして相手を認めていることを素直に言葉にすることが、相手に「灯火の言葉」として届くのだ、ということを。
上西充子
『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)の「第5章 灯火の言葉」より
エンパワーメント(empowerment)という、その人が持っている潜在的な力を発揮できるようにする支援の在り方を指す言葉があるそうです。あてはまる適切な日本語がないので、上西さんは「灯火の言葉」(イメージするのは、心のなかに静かに燃える灯(ひ)、体をあたため、気力を起こさせ、しっかり立とうとする自分を支える灯)と表現しています。
「相手を肯定的に認めることは、多くの人はできるのだ。けれど、肯定的に認めていることを、てらいなく、力強く、言葉にして相手に実際に届けられる人は、そう多くない」…わたしは、言葉にして相手にきちんと届けられているだろうか…? 問い直してみたいことです。
【この本を読まれた方はお気づきかも知れませんが、ほぼ一章分も転載・引用しております。映画「わたしはダニエル・ブレイク」の読み解きを共有する目的ですが、明らかに載せ過ぎでしたらご一報ください。】
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