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NiziUと第七世代がつくる「居心地のいい空間」

ファッションビル運営大手のルミネによるクリスマスキャンペーン「MERRY GOOD JOB! ほめよう。わたしたちを。」は、SNS上で非常に大きな反響を呼んだ。波乱に満ちた一年を乗り切った自分たちを、せめておたがい褒め合おうじゃないか。「わたしがわたしでいるだけで、あなたがあなたでいるだけで、とってもとってもGOOD JOB!」なのだと。これらの言葉が刺さった人は多かったらしく、ヤフーニュースにも「広告見て泣くの初めて」「すっごく沁みた」といった共感の声が取り上げられている。じっさい、僕の身の回りでも同様のリアクションは見受けられた。自分で自分を肯定すること。そして、がんばっている誰かを褒めてあげること。どれも正しい。できれば、いつだって心のうちに留めておきたい心がけだ。

でも、正直に言って僕はこの広告をみたとき「気持ち悪いな」と思った。わたしは強い、努力家だ、生きてるだけ価値がある。まるでそうやって自分で自分を鼓舞しないと、真っすぐ立っていられないかのようだ。僕はこの広告を見て感動した人びとの気持ちを否定する気はない。ただ、こういう言葉が求められ、もてはやされる世の中が、なんとも不健全だし、病んでいると感じるのだ。みんなあまりに疲れすぎている。普段いかにストレスを抱え、心をすり減らしているか。最近SNS上では「生きてるだけで儲けもの」みたいな言説がバズりがちだが、裏を返せば、わざわざ声に出して暗示をかけない限り、そうは実感できない現実があるということである。空気をただよう酸素のように「当たり前」の事実だったら、それをマンガに描き起こしたり、共感のコメント付きで拡散させたりする必要はない。10年後どころか来年の生活すらどうなるか見通せない不安定な世界で、いちど足を踏み外したら復活のチャンスはないデスゲームのような人生を生き抜く。虚しくて苦しくてたまらない。それでも、とりあえずきょうを「普通」にこなすために、SHISHAMOのうたを聴きながら満員電車に揺れられる。一見あたたかく愛に満ちた人気アーティストの歌詞や、称賛をあびる企業広告のコピーが、かえって殺伐とした世の中の空気をえぐり出す。

『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』に収録されている批評家の杉田俊介氏とライターの西森路代氏の対談「芸能は社会と呼応するか 2020年の地殻変動を読み解く」に、とても興味深い議論があった。杉田氏は本書の前半で松本人志が生み出した「笑い」の功罪を分析しているのだが、最近の「お笑い第七世代」の表現を、お笑いの流れにおける「脱・松本化」に位置づけた上で、以下のように読み解いている。

「たぶん今どきの社会の底辺性を自覚して、それを優しく包み込んで、それを笑いに昇華して、決して差別や暴力のほうへは行かない。微妙なバランスの中で優しく非暴力的な空間を作り出す。そういう共通性を感じたんですね。」

杉田俊介(2020年)『人志とたけし: 芸能にとって「笑い」とはなにか』 晶文社

「底辺性」というキーワードについては、重要な概念であるとしながらも定義が示されずいまいち釈然としない。ここで例に挙げられているのが四千頭身や宮下草薙、蛙亭など、松本人志に象徴されるマスキュリニティとは対極にあるキャラクターの芸人たちなので、もしかしたら杉田氏は本当にスクールカーストや社会階層のピラミッドにおける「底辺」のことを言っているのかもしれない(このあと「ジョーカー」の話も出てくる)。だが、僕はここで言う「底辺性」は、「不安定性」に近い言葉であると捉えている。より具体的に言えば、先のルミネの広告の話題で挙げたネオリベラリズム的な競争・格差社会における不確実性、いつ食いっぱぐれるかもわからない、正常なレールからはじき出されるかもしれない不安といった意味での「底辺性の自覚」なのではないかと思うのだ。5000分の10組まで選ばれる実力があってもバイトで生計を立てなければならない芸能界の厳しい競争原理は、決して小さな「ムラ」にとどまる話ではなく、僕たちの生きる社会そのものの縮図でもある。

多くの人が語るように「お笑い第七世代」がこれまでと違うとされているのは、その「横並び感」である。霜降り明星という旗振り役的なコンビはいるものの、その他のコンビ・トリオとの序列が明確に示されることはあまりない。コンビ・トリオ仲の良さは当たり前だし、コンビ・トリオどうしの横のつながりも比較的強いらしい(ことがよくメディアで特集される)。そしてどうやら演者も、彼らを売り出す裏方の人たちも、そのことに自覚的のようだ。「お笑い第七世代」vs「旧世代」といったプロレス的な座組はあるものの、同じ世代のあいだの対立をあおる企画は殆どない。むしろ「お笑い第七世代」として箱売りをすることが当たり前で、このムーブメントにのってみんなで手をつないで前に出ようという熱気すらある。

また、上記の「芸能は社会と呼応するか 2020年の地殻変動を読み解く」の対談中でもふれられているように、「お笑い第七世代」はゴールデンタイムで冠番組をもつことや、MCの席に立つことを必ずしも最終目標としていない。YouTubeやNoteといったテレビや劇場以外の場で活躍する者もいれば、いずれは海外進出したいと公言するEXIT・兼近やフワちゃんのような人もいる。「M-1グランプリ」のようなリアリティショー的イベントの人気が加熱する一方、「お笑い第七世代」や同時期に台頭してきた周縁のタレント(フワちゃん、池田美優(みちょぱ)、山ノ内すずなど)は、全員で限られたパイを奪い合う「競争」とは若干の距離を置き、自分なりに設定したゴールに向かって走っているのだ。本人たちがどう考えているかはともかく、僕にはそのように見えるし、彼らのつくりだす空気感に共感を覚え、安らぎを感じる人は少なくないだろう。

であるとするならば、2019年M-1グランプリ決勝の「誰も傷つけない笑い」がなかば呪いのように伝染し、光浦靖子が文藝春秋のエッセイで「コロナ以降、テレビに映る人が変わったようです…(中略)…となると、今までその椅子に座ってた人らはどうなるんだろう……のその人らの一人が私です」と語ったように、ステイホーム期間を経てテレビの演者が「お笑い第七世代」で埋め尽くされた現象と、ルミネの「MERRY GOOD JOB! ほめよう。わたしたちを。」がもてはやされたことは、根っこの部分でつながっているのではないか。

過度な生き残りレースに疲れ切った僕たちは、「お笑い第七世代」のつくる「居心地のいい空間」をある種のユートピアとして捉えているのだと思う。上の世代が構築したシステムに組み込まれず、「当たり前」とされていたゴールに縛られることもない。各々が自分で自分の道を極め、突き進んでいく。多種多様な自己実現の可能性を、僕らは「お笑い第七世代」というムーブメントに夢見ているのではないか。そんなことを考えながら「有吉の壁」を見ているのは僕ぐらいかもしれないが…。

ところでこの「居心地のいい空間」を共有しているのは、「お笑い第七世代」だけではない。2020年に大流行したガールズ・グループ「NizU」である。K-POPのマナーを踏襲したハイクオリティなパフォーマンスを売りにしている彼女たちだが、少々特殊なのは、オーディションの様子に密着したリアリティショー(とあえて呼ぶ)「Nizi Project」のリリースを経て、本格的なデビューを果たした点だ。僕たち視聴者は一万人以上が応募した地域オーディションで選抜された「ふつうの女の子」たちが、プロデューサーのJ.Y.Parkによる愛にあふれた厳しい指導を受けながら、やがて洗練された「アイドル」になっていく様を目撃する。懸命に努力する彼女たちのすがたを見る中で、おのずと親愛の情が湧き、いつしか仲のいい友だち(あるいは娘や親戚の子)を応援するような気持ちで、テレビにかじりつくことになる。

そして何より大事なのは、オーディションに参加した練習生がみんな「仲間」であるということだ。すべてのキューブを揃えないとデビューすることができない、二回連続テストで最下位になれば途中で脱落することすらあり得る…という厳しい「競争」のなかで彼女たちが見せるのは「連帯」であり「団体戦」であった。パフォーマンスのセンスや伸びしろと同じかそれ以上の比重で「人柄」や「練習態度」「チームワーク」が評価基準となっていたことも示唆的だ。けっして誰かを蹴落としたり、自分だけ勝ち抜こうという態度を見せてはならない。全員が一丸にならないとミッションをクリアできない仕掛けになっている。最終的には才能よりも努力の量がモノを言うのだが、J.Y.Parkの言葉を借りればそれは「全員が特別」ということでもある。すなわち、「わたしがわたしでいるだけで、あなたがあなたでいるだけで、とってもとってもGOOD JOB!」であり、誰だって突き詰めれば一端のスターになる可能性があるのだ。みんな違ってみんな良い。手を取り合い、連帯しあって、ともに良い点を伸ばしながら、この息苦しい競争社会を生き抜いていこう。「10231分の9」という過酷なレースの現実は、かくして「居心地のいい空間」というフィクションのなかに埋もれ、忘れ去られていく。

「NiziU」や「お笑い第七世代」と比べるとムーブメントとしては弱いかもしれないが、僕がよくこのnoteで取り上げている「日向坂46」もまた、これらの動きに同期した世界観を提示している。欅坂46のアンダーグループ(言ってしまえば二軍)から出発した彼女たちは、行きあたりばったりな運営のマズさもあって、最初の1,2年はあまり表舞台に立つことができなかった。グループ内で競争するよりも前に、グループの存続自体がつねに宙吊りの状態だったのだ。だからだろうか、彼女たちはやがて「全員野球」とも言うべきスタイルでアイドル活動に挑むようになっていく。全員選抜なのでAKB48グループのような激しいポジション争いはないし、スキャンダルで戦線離脱するメンバーが出てきても「ちゃんとダンスの練習するんだよ」と少々きつめのジョークで送り出す。ドキュメンタリー映画「3年目のデビュー」で彼女たちを取材した監督の竹中優介氏は、B.L.T.9月号のインタビューで日向坂46をこう評した。

「僕は、彼女達を見ていて、日向坂46は全員が幸せになれる可能性があるグループなんじゃないか、全員で幸せになろうしているグループなんじゃないかって(中略)初めて思ったんですよね。」

ここでも重要なのはやはり全員が幸せになれる「居心地のいい空間」なのだ。「日向坂46」は前身グループも含めると2015年から活動しているので、ムーブメントとしては「NiziU」や「お笑い第七世代」より古いが、うまいこと時代の流れにハマったという印象を受ける。

僕は最初にルミネのクリスマス広告「MERRY GOOD JOB! ほめよう。わたしたちを。」を「気持ち悪い」と切り捨てたが、一方で「NiziU」や「お笑い第七世代」「日向坂46」は大好きだし、彼らがつくる「居心地のいい空間」にも共感している。というか、社会的ムーブメントよりもまず自分がこの3つに共通点を見出し、熱中する理由を見つけたからこそ、このnoteを書いたのである。自分でも矛盾を感じるが、格差や分断が叫ばれるこの世界で、せめてものユートピアを求めた結果がこれまでに挙げたコンテンツの流行のような気がしている。本当はそう上手くはいかないと気づいていても、疲弊したし人びとの心は「居心地のいい空間」を求めるのだ。社会構造が根本的に作り変えられない限り、現状はなにも変わらないままなのだが、みんながうっすらと希望を失い、諦めているからこそ、内向きのユートピアがもてはやされるのかもしれないと思ったりもする。 「青空よりも俺は陽菜がいい!天気なんか狂ったままでいいんだ!」という「天気の子」における帆高の言葉が、コロナ禍を迎えたいま、改めて重く響いてくる。

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