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五十にして足るを知る~落ちこぼれの流儀~

こう言っては、何もならないのかもしれないが。

所謂、落ちこぼれ社員って言うのは、好きで「落ちこぼれ」になった訳ではないのである。
僕も落ちこぼれ社員の一人なのでいいますが、「背景には社内政治」が大半です。

この社内政治こそがいつも人を悩まされるのだ。
これは、一種の派閥闘争。誰が誰をどのように操るかとのステージである。
これに巻き込まれれば「蛇の生殺し状態」ということになるのです。けれども、社内で生き残るためにはこれに勝ち抜かなければいけないこともある。
そこが問題である。しかし、この派閥闘争なるものは自分ではどうしようもできないものであって、二世組(親の七光り)の勝ち抜けが多々ある。
一種、「ガチャ」に近い。

いいフィクサーに当たれば御の字。それでも気が抜けず一度でも反抗心を見せればいとも簡単に閑職へ追いやられて日の目を見ることはなくなる。
そこで、「落ちこぼれ」というものが出来上がるのである。しかし、落ちこぼれとはいってもそこそこに「能ある鷹は爪隠す」というように自分の実力を隠しながら社内生活を送るのも一興である。

若いころは、「出る杭は打たれる」ということを分からず、分別もなく出たとこ勝負で何もかも上意下達として言われるがまま実施してきた。
けれども、これがいけなかった。やればれるだけ都合よく業務を五月雨式に押し付けられるだけなのである。実力以上の業務を押し付けられて結局は、成果を出せばご都合主義に周囲が持ち去り、やった本人には何も残されず否応なしに左遷の憂き目にあうのである。

かつては、左遷されたとは考えられずに自分の能力を認められたと勘違い。今になって思えば、結局は忌々しい人間の排除でしかなかったのである。
こうした、落ちこぼれにも流儀があることを次回から話そうか?

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