しょうがないこと

 私には同い年のいとこがいます。同じ月生まれなので、私も37歳、彼も37歳です。同じ県の、私の家族は北の方、彼の家族は南の方に住んでいました。彼は我々が14歳のときに部活で外にでている際に落雷事故にあい、そのときから寝たきりです。その日の夜に叔母から母に連絡がきて、彼が生死をさまよっていると聞かされたあとの数日間のことで覚えているのは、その頃中学校では合唱コンクールのために毎日毎日クラスで合唱練習が繰り返されていて、そこで歌う気になれなかったということでした。授業には出られたし、忘れている瞬間も少しはあったのですが、歌うときだけは、なんで○◯くんが助かるかさえわからないときに、歌なんて歌わなきゃいけないのか、そこがマッチしないと思ったのを覚えています。
 その後、落雷のショックで呼吸が止まっていた時間から考えると「奇跡的」に容態は回復しましたが、意識はあるけれども意思疎通がとれるのかわからない、脳死に近いなどと親から説明をうけました。いとこ家族は祖母と同居していたので、正月に祖母宅に私の家族が帰省した際に事故後初めて会って、寝かされたまま「あー」とだけ言い、脈絡のないタイミングで笑い声をたてる彼を、生還したと受け入れきれない気持ちがありました。もう、従兄弟ながら兄妹のように育ち遊んだ彼のパーソナリティー、心はここにないのかと思いました。
 それからおよそ6年後、わたしたちが20歳の頃に、また帰省で祖母宅に帰った際、叔母が彼は喋れるようになったというのです。正確には、叔母が50音をよみあげると、希望する音のときに彼が「あー」と言うので、単語をつくることができる、ということでした。試しに夕飯に何が食べたいのか聞こう、とやってみると、いとこは「も」と「す」で「あー」と声を立てました。叔母はモスバーガーね、買ってこよう。と言います。モスなんてどうやって食べるのかときくと、ミキサーで粉砕して、水で伸ばして管で喉から入れると味がするのだ、きのうは紫蘇パスタがいいと言うから作ってやった、と言います。「モスバーガー」に「紫蘇パスタ」。何が食べたいと主張できるということに驚きました、彼の心は、この6年間もずっとあったのです。それを、何度も帰省のたびにお見舞いに行き会っていながらも私はないものだと思い込んでいましたし、そのときも、私はというと、とはいえ思考がどれほど回復しているのかはわからないのでは?といぶかしんでいました。そうしたら、姉がそれを聞いてとても喜び、自分も話したいといって、その頃に姉自身が軽音楽部で作ったオリジナルの曲3曲を、いとこの耳にヘッドホンをつけて聴いてもらいました。姉が「どの曲が好き?」といとこに問いかけた後、姉が「1、2、3」というと、いとこは3で「あー」と言いました。私も姉も一番気に入っているバラードの曲でした。私はそこでやっと、彼の心が何も損なわれていなかったと実感しました。
 彼が普段入院している介護施設では、介護士の方が代わる代わる本を読んでくれている、もちろんなかなかつきっきりにはなれないから、基本的にはテレビやラジオを流してもらい聴いて過ごしているけれど、本を読んでもらうのが好き、ということもききました。それをきいて、無性に自分も何か読んであげたいと思いました。なんで読んであげたいのか、いまだに理由が自分でわかりません。住んでる場所が遠く、数年に1度、数時間しか会えず、一緒にいられる時間もしてあげられることもないので、何かをして彼に関わりたい、姉が歌う曲のなかでどれが好きかを彼が選んだように、私も彼と何か共有できることがあるんじゃないかという気がしますが、でも直接彼にも、叔母にも言いだせないまま今に至ります。録音した音声をCDに焼いて送ったらどうか、と思いながら練習したりもしました。自分がおもしろいと思って、彼に知ってほしい本はどれかと考えました。吉本ばななの「白河夜船」、筒井康隆の「旅のラゴス」。どちらも一番といっていいほど好きな話で、たとえ彼と私の好みが合わなくとも、聞いて損だとまでは思わないかもしれない。でも、前者は恋愛の話で、後者は旅の話です。彼が今後絶対に体験できない物語を、私が読んでいいのかと思い、私は結局できませんでした。送ったら喜んでくれたかもしれません。でも、したいと思えなくなりました。朗読した音声を送るなんて、同い年のいとことして、自然な距離感じゃないと理由づけました。
 いとこが書いたという詩を叔母が私の家族に送ってくれたこともありました。勿論叔母が50音を読み上げ拾い、二人で推敲したものです。全部の言葉は覚えていませんが、記憶にのこっている一文が、「しょうがないと思っている」です。あれから23年間、ずっとベッドにいる彼が言葉にした「しょうがないと思っている」の意味を考えます。

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