『数字のセンスを磨く』内容(ちょっとだけ)紹介(「比較」の章)

前回は『数字を磨くセンス』第一章、「数えることのセンス」について紹介しました(章のタイトルは「数量化のセンス」)。今回は第二章、「比較のセンス」についてちょっとだけ紹介します。

数量化のところでも触れましたが、何でもいったデータ化されてしまえば、私たちはその数字の背後にある異質性(実際にはばらばらかもしれないこと)を忘れてしまいがちです。

このことは比較をする際にも同じで、たとえばオリンピックのたびに私たちは「国別メダル数ランキング」に一喜一憂しますが、「メダル一個」の価値があらゆる競技を通じて同じだ、なんてことはありませんし、はたまたそれが国民の優秀さをあらわす信頼できる指標であることなんてありえません。それでも、メダル数という数値になった途端に、その多寡(比較)に人々はどうしても注目してしまいます。

同様に、「企業別平均年収」という、何を比べているのかよくわからない数字もしばしばネット上に登場します。企業の年齢・性別構成、離職率、昇格割合、昇給ペースといった背景の異質性が隠されてしまって、一体何の参考にして良い数字なのかわかりません(たとえば若い人が多い企業ならば、同年齢層の所得が他企業より高くても、平均すれば年収は低くなりえます)。

ただ、この章で主張したいことは、「十分に条件をそろえた上でないと、有効な比較ができませんよ」ということだけではありません。実はこの比較という作業には、重要なジレンマ、あるいはパラドックスがあります。

「適切に比べようとすると、逆に比べられなくなる」というジレンマ

『数字のセンスを磨く』第二章

このジレンマ、あるいはパラドックスについて理解しておくことは、特に社会的なデータを使って作業をする上で本質的に重要であることを強調しておきたいです。論点(注意点)は二つあります。

ひとつは、比べようとしてもデータがない、あるいは「きちんと比べようとすればするほどデータが入手できなくなる」というジレンマです。

たとえば結婚、特に未婚化について考えてみましょう。日本の未婚化(現在につながる流れ)は1970年代から始まっていますが、どうして結婚しないのか(結婚の障壁はなにか)ということについて、50年間の適切な比較ができるようなデータはほぼ存在しません。もちろん断片的なデータはありますが、一貫した比較の枠組みから設計された調査は、1980年代ころからようやく始まります。

また、さきほどの年収の比較の話でも、企業別に属性(性別、年齢、学歴、就業年数、役職...)を特定した上での比較をしようと思えば、自ずと入手できるデータは限られてきます。

本書ではこのジレンマを「三世代同居」を例にして詳しく説明しています。きちんと比較することは、思われているよりもずっと難しいのです。このことを知らなければ、「エビデンス」を気軽に要求するような態度に結びつきます。比較に限らず、適切なエビデンスを得ることは難しいし、また時間も手間もお金もかかることなのです。

もうひとつは、比較に関するもっと根本的な問題です。

言葉あるいはカテゴリーは、それが置かれた環境や他のカテゴリーとのつながりにおいて、はじめて意味を獲得します(哲学に詳しい方は、クワインの全体論(holism)を想起してください)。

たとえば「大卒」の意味は、日本では1960年代と2010年代では全く異なります。いうまでもなく、1960年代の方が大卒には希少価値がありました。同じように、ヨーロッパでの大卒と日本での大卒の意味もかなり異なります。教育と職業とのつながり方が異なるからです。ヨーロッパの方が、日本よりもずっと大学での教育内容が職業につながっている度合いが強いのです。

このようにカテゴリーの意味内容が異なるのは、そもそもカテゴリーが置かれた環境に固有の異質性が存在するからです。

時代の比較でも社会の比較でも、環境Aと環境Bで「同じ条件」にあるグループを限定して抽出するとき、その限定条件を絞り込めば絞り込むほど条件はそろうのに、そのグループは全体のなかでの位置付けが異質なものになってしまいます。それは結局、環境Aと環境Bが異質だからです。

『数字のセンスを磨く』第二章

かように、そもそも異なる対象(社会でも人でも)から「そろった」情報を取り出そうとすると、そうしようとすればするだけ、意味内容が異なったものになる可能性があります。つまり、そろえようとすればするほどそろわなくなる、というパラドックスが生じるのです。

次回は「因果」の章について紹介します。




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