「バンデット」が面白いので南北朝人物録書いてみた(1)

今モーニングで連載中の「バンデット」がなかなか面白い。「偽伝太平記」を謳っており、南北朝騒乱を舞台にした「太平記」の物語なのだけど、足利尊氏や楠木正成ではなく下人の「石」を主人公としており、身分のある人物ではない泥にまみれた一介の「悪党」の視点で物語が展開されてゆく。だからこそタイトルは「バンデット」なのだろう。また適度に独自の解釈や展開が混じるため、歴史好きの目から見ても飽きない。ちょっと触発されたので登場する南北朝の人物録を書いてみたいと思う。サブテキストとして読んでもらえれば。

後醍醐天皇の生まれた時代

太平記は後醍醐天皇の物語として書かれた、という説がある。よく言われるように太平記はかなり南朝寄りの視点で書かれているし、南朝の文化人が関わって成立したという説にはそれなりの説得力がある。だとすればやはり太平記は「後醍醐天皇の物語」なのかも知れない。であれば、最初に取り上げるべきはやはりこの人だろう。

まだ元寇の記憶が覚めやらぬ1288年11月、第91代天皇、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として尊治親王、後の後醍醐天皇は生を受けた。母は参議五辻忠継の娘、忠子。五辻家は藤原北家花山院流の庶流に当たり、公家としての格はそう高くない。このため忠子は本家筋にあたる花山院師継の養女として入内するという形式を踏んで宮中に入っている。五辻忠継は後宇多院の院政を支える実務官僚である「院近親」の一人であったらしく、そうした縁で娘を嫁がせるに至ったようだ。

なお、忠子の姉妹にあたる娘が本家筋にあたる花山院家に嫁いでおり、生まれた子が元弘の変の時に後醍醐の身代わりとして比叡山に入ったことで知られる花山院師賢だ。母方の従兄弟にあたるわけなので雰囲気が似ていたのは頷ける。

忠子は後宇多天皇の寵愛を受け、長女の奨子内親王、尊治親王の他、後に寺に入って門主となる弟二人を産む。だがその後、後宇多天皇の父に当たる亀山院のもとに身を寄せる。これにはどうやら後宇多天皇が持明院統の後深草院の娘であった姈子内親王を見初め、半ば強引に皇后として冊立した事件(増鏡に記述がある)が絡んでいるのではないかと思われる。元々強い後ろ盾を持たない忠子は拠り所を無くし、出奔せざるを得なくなったのだろうか。このことにより、尊治親王、後の後醍醐もまた祖父にあたる亀山院のもとで養育されることとなる。

後の時代に後醍醐帝が幼少期を過ごした亀山院の仙洞御所、亀山殿の跡地を取り込む形で足利尊氏の命により立てられた寺が「天龍寺」だ。吉野で都への帰還を望みながら死んだ後醍醐の霊をかつて幼少の時を過ごした場所に立てられた寺で祀り、怨霊として祟るのを防ぐ意図が感じられる。

皇統分裂の時代

さて、これまで「大覚寺統」「持明院統」と書いてきたように、この時代は皇統が二つに分裂しており、互いに対抗し合いながらほぼ交互に帝を立てていた。皇統の分裂は後醍醐帝の曾祖父、後嵯峨院の時代に端を発する。当初久仁親王を後深草天皇として即位させ、後ろ盾「院」として政務を執っていた後嵯峨院は、やがて久仁親王の弟、恒仁親王を寵愛し、後深草天皇を退位させて亀山天皇として即位させる。この偏愛が結局皇統の分裂を招いた。後深草天皇の系列は今の上京区にあった持明院を本拠地としたため「持明院統」を名乗り、亀山天皇は嵯峨野の大覚寺を本拠地に「大覚寺統」を名乗る。それぞれ後の「北朝」「南朝」の前身である。

もちろんこの時代鎌倉には鎌倉幕府があり、全国の武士たちはほぼ幕府に仕えていたわけだが、それはそれとして京の朝廷や寺社も健在であり、近畿を中心として統治が行われていた。二重支配の時代と言っても良い。それぞれの土地には朝廷によって任じられた領主と幕府によって遣わされた地頭がおり、徐々に地頭が領主を圧迫していた。それが鎌倉末期である。古典太平記の冒頭にある「所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽」という表現は、このことをよく表している。

話を戻す。こうした情勢の中、後宇多天皇の第二皇子として生まれたのが尊治親王、後の後醍醐天皇だった。腹違いの兄に邦治親王、後の後二条天皇がおり、順当に行けば尊治親王に帝位は回ってこなかっただろう。だが、後二条天皇が24歳にして夭折し、その子である邦良親王が幼少で病弱(鶴膝の病=小児マヒだったと言われる)だったため、尊治親王に順番が回ってくることとなった。だが、尊治親王は東宮(皇太子)になるにあたり、父の後宇多院からひとつ大きな条件を付けられている。それこそが「一代の主」という言葉によって表されるものだ。

「一代の主」

では「一代の主」とは何を意味するのか。字面を一見すると君主を称える言葉のようにも読めるが、そうではない。「一代の主」とは「一代限りの主」、つまり当人の即位は許すが、子や孫は天皇にはなれない、というきつい条件である。院政のこの時代、これは尊治親王が院となって子を即位させ、後ろ盾として政務を執る(「治天の君」になる)ことができないことを意味する。

即位当初はこの厳しい条件を受け入れていた後醍醐帝は、だがやがてこれに不満を抱き、これを覆すべく運動を繰り広げてゆく。父親である後宇多院がその年齢からか積極的に政治に関与する意思を失い、後醍醐帝が天皇の立場のまま「治天の君」の座についたことがこれに拍車をかけた。「天皇親政」である。だが言うまでもなくその立場は全く盤石とは言えない。

後醍醐帝はまず皇子の一人である尊良親王を自らの後継者として東宮(皇太子)に立てようとしたが、身内の大覚寺統内の邦良親王を推す勢力および皇位交代を求める持明院統の人々によって反対を受け、調停者たる鎌倉幕府によって最終的に否定される。それはそう簡単には覆しようもないほどの強固な壁だった。

そして戦乱の時代へ

立ち塞がる壁が強固だとすれば、道は二つしかない。諦めるか、あるいは全てを覆すか。そして後醍醐帝は後者を選んだわけである。

全ての枠組みを覆し、自らの皇統による皇位継承を確かなものとするべく、密やかに後醍醐帝は倒幕の意思を持つ。そしてそのような帝の周りにやはり現状に不満を抱くさまざまな人々が集まり始めるのである。それは例えば遊蕩にかまけて父の六条有忠から義絶されていた千種忠顕であり、あるいは優れた才能を持ちながら家柄の低さから通常であれば下流の実務官僚として生涯を終えるしかない境遇にあった日野俊基であった。彼らの思惑は主たる後醍醐帝を中心に速度を産み、加速してゆく。

そうやって、戦乱の時代が始まった。

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