ご縁を作ったのは誰でしょう?
わたしはいつも、お守り代わりに、祖父が遺したフィルムカメラを持ち歩いている。
十歳の時、飼っていた猫が死んでしまって落ち込んでいたわたしに、祖父がくれたのだ。
高校二年生になった今は、風景写真を撮ることを趣味にしていて、日々の癒しになっている。
七月のある日曜日。にゃーたが眠る深大寺の動物霊園に来た。
毎日三十度超えで参ってしまうけれど、動物霊園の周りは木々に覆われていて少し涼しく、撮影にちょうどいい。
参道から外れた狭い脇道をくねくねと進むのが、お気に入りだ。
大きな慰霊塔の前で、手を合わせる。
話しかけるように、小さな声でつぶやいた。
「にゃーた、莉子だよ。元気? お友達と遊んでる?」
この霊園は、母が子供の頃に飼っていたインコも入っているくらい、歴史があるらしい。
毎日泣いていたわたしに、祖父は『ここには動物がたくさんいるから、優しいにゃーたはすぐ友達ができるよ』と言ってくれた。
ここで手を合わせると、いつもそれを思い出す。
お参りを済ませ、散策をしていると、曲がり角の向こうから猫の鳴き声が聞こえた。
多分、子猫。
にゃーたの赤ちゃんの頃が目に浮かび、わたしは吸い寄せられるように近づいた。
そっと覗くと、同い年くらいの男の子が、高いところに上った子猫を抱き上げている。
「こんなところにいたら危ないよ」
慈しむように目を細めて、自分の懐へ抱え込む。
その優しい横顔があまりにも綺麗で、わたしは思わず、シャッターを切った。
――パシャッ
音に驚いて、子猫が腕の中からするりと抜け出す。
男の子は、こちらを振り向いた。
しまった。許可もなく、見ず知らずの人を撮るなんて。
慌てて頭を下げる。
「すいません勝手に撮って。フィルムカメラなので今消すのは無理なんですけど、現像したらすぐ捨てます。ごめんなさい」
「全然かまわないですよ。でも、何で撮ったんですか?」
おそるおそる顔を上げたら、びっくりして息が止まりそうになった。
よく見たら、三年の佐野先輩だ。
去年の弁論大会で学校代表に選ばれていたので、ちょっとした有名人だし、憧れている人も多い。
わたしもかっこいいなと思っていた。
そんな人に、横顔が綺麗だったからだなんて、絶対に言えない。
言い訳を探して、口から出任せに言った。
「さっきの子が、昔飼ってた猫に似てたんです」
本当は全然似ていない。毛の色すら違う。
でも先輩は、真剣な顔で言った。
「それなら絶対捨てちゃダメです。僕は別にいいので、大事にとっておいてください」
「あ、ありがとうございます。……えっと、佐野先輩ですよね? わたし、深高の二年で、内田莉子っていいます」
後輩だと告げると、先輩はうれしそうにした後、わたしのカメラを興味深げに見た。
「写真、いつもここで撮ってるの?」
「はい。深大寺はどこを撮っても綺麗ですし、よく来ます。今日は猫のお墓参りと撮影を兼ねて来たんですけど、子猫の鳴き声が聞こえて、なんだか呼ばれたみたいな感じがして」
「本当? 僕もなぜか、鳴き声ですぐにここだって分かったんだ。何かのご縁かもね」
ご縁? 不思議なことを言う人だ。
ぽかんとしていると、先輩は少し微笑んで言った。
「僕、親切部という活動をしてて。今日はゴミ拾いなんだけど、もし写真の題材を探してるなら一緒に回らない? 目線を下げると景色が違って見えるから、撮影にいいかなって」
子猫救助も、部活の一環だろうか。
良い写真が撮れる気がして、ついていくことにした。
お寺沿いに坂を下りながらゴミを探す。
先輩の言う通り、見慣れたはずの景色が新鮮だ。
「ゴミ、全然落ちてないですね」
「うん。いつもはすぐ袋がいっぱいになるんだけど。お寺やお店の人が掃除してるのかな」
「来る人も、お寺でポイ捨てはしないのかも知れませんね」
普段は気にも留めない側溝を見る。
隙間に、小さな野草が生えているのを見つけた。
しゃがみ込み、ブレないようにしっかりと構え、シャッターを切った。
「カメラを構える姿って、かっこいいね。素敵だと思う」
思わず「えっ!」と声を上げてしまった。
恥ずかしくて、ごまかすようにファインダーを覗き込む。
絶対に顔が赤い。
わたしは話を変えるべく、関係ない質問をした。
「あの、先輩はどうして親切部をやっているんですか?」
「人に親切にすると、自分に返ってくるからだよ」
「神様が見てるってことですか?」
「ううん、もう少し現実的。ゴミ拾いで幸せが巡ってくるんじゃなくて、何か人に親切にしてもらった時に、『あの時いいことしたからかも』と思えるのが好きなんだ。小さな発見も、幸せに感じられるようになる。幸せのハードルが下がると、毎日が楽しいよ」
確かに、ゴミを拾いながら深大寺の人々を想像したら、ほっこりした。
もし明日何か楽しいことが起きて、その時にこの気持ちを思い出したら、幸せが二倍かもしれない。
「僕はね、人との出会いは偶然じゃなくて、自分の行動で作るご縁だと思ってる」
先輩の優しい表情が、弁論のスピーチを読み上げる姿と重なった。
テーマは『心のふれあい』。
作文のお手本みたいだった他の人と違って、先輩の話にはみんな引き込まれていた。
あれはきっと、実感の違いだ。
壇上で訴える先輩は、本当にかっこよかった。
でも、右手にビニール袋をぶら提げて笑う先輩は、もっとかっこいい。
お寺の正面の門を見上げて立ち止まった。
短い階段を上がれば、慣れ親しんだ本堂だ。
素朴な茅葺の門は、訪れる人々をじっと見守っていて、夏の青空と鮮やかな緑によく映える。
端に寄ってしゃがみ、地面スレスレから空を仰ぐように構え、シャッターを切った。
「夏のひとコマって感じ」
気づけば先輩も、隣にしゃがんでいた。
本堂から小さな男の子が走ってくるのが見える。
まさに夏のひとコマ。
微笑ましく目を細めた、その時――階段の途中で男の子が転んだ。
「危ない!」
先輩がとっさに駆け上がって抱きとめたけれど、ふたりは衝撃のままに転げ落ちた。
赤ちゃんをおぶった女性が、悲鳴のように子供の名前を呼びながら走ってくる。
男の子は、体を丸める先輩の腕の中でわーっと泣き声を上げた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、男の子に怪我はなかった。
でも先輩は、ひざから血を流している。
先輩はお母さんに男の子を引き渡し、笑顔で手を振り見送った。
でもわたしは、全然笑顔になんてなれない。
黙って先輩の足元にしゃがみ、ひざにハンカチを当てた。
いいことをした先輩が、どうして怪我をするんだろう。
わたしは泣きそうになりながら言った。
「人に親切にしたって、悪いことが起きるじゃないですか。意味ないですよ」
ふくらはぎに流れた血を拭って見上げると、先輩はちょっと困ったように笑った。
「あの子が怪我をしなかったから、親切部の任務完了。それじゃダメかな?」
言われてハッとした。親切活動は損得じゃない。
わたしは言ってしまったことを謝った。
「酷いこと言ってごめんなさい。いいことしても意味ないとか」
「ううん、気にしてないよ。心配してくれたんだって、ちゃんと分かってるし」
まっすぐな先輩の目を見て、重大なことを思い出した。
わたしは先輩に嘘をついたままだ。
言うなら今しかないかも知れない。
悩んだ末、包み隠さず白状することにした。
「先輩、ごめんなさい! 実は、先輩のことを撮っちゃった理由……うちの猫に似てたっていうの。あれ、嘘なんです。本当は色も違うし、全然似てなくて。すみません」
「え? じゃあ、他に何か理由があったの?」
「せ、先輩の横顔が……、猫を見てる目が優しくて……綺麗で……」
恥ずかしすぎて顔が見られない。
けれど、勇気を振り絞って続きを口にする。
「あの時先輩は『何かのご縁』って言ってましたけど、わたし、よく分かってなくて。でも今はちょっと分かります。先輩とあの男の子は、何かご縁があったってことですよね?」
「うん、そうだったらいいなと思ってる。形がどうあれ、出会いは出会いだから」
幸せはきっと、思いがけない時に巡ってくるのだろう。
今日の親切も、いつかどこかで。
「あの。先輩は親切部を始めてから、何か返ってきたことってあるんですか?」
先輩の目が、大きく見開かれる。
そしてふいっと顔を横に向け、つぶやくように答えた。
「……子猫を助けたら、莉子ちゃんに出会った」
先輩の言った『ご縁』の意味を、ようやく理解して――恥ずかしさのあまり目をつぶったら、得意満面にゃーたが見えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?