純粋な雨宿り

 何の前触れもなく曇りだした。
 と思ったら、すぐに大粒の雨がぼつぼつと落ちてきて、あっという間に大雨になった。
 慌てて、目についたカフェの入口に駆け込む。
 はあっと安堵のため息を漏らし振り返ると、後ろからのんびりついてきた藤堂は、のんきな声で笑った。
「これはすぐには止まないね」
 雨で台無しになった栗色の髪をバサバサと払うと、相方の表情をうかがうように、綺麗な顔をちょっと傾ける。
 安井は、ビジネスバッグを抱きしめたまま、眉間にしわを寄せた。
 最悪だ。
 どうして目の前の男は、そんなにのほほんとしていられるのか。
 腕時計をチラリと見ると、時刻は間もなく二時半。
 帰社予定までは、まだ余裕がある。
「止むまで、中で打ち合わせでもするか?」
「ええ? こんなときまで仕事?」
「手持ち無沙汰だろ」
 聞かれた藤堂は、ひょこっと店内を覗いたあと、右手をぱたぱたと振って笑った。
「こんな機会、滅多にないじゃない。そんなのは抜きに、純粋に雨宿りしようよ」
「は?」
 こんな風に、ぽろぽろっと奇想天外なことを言う――これが、藤堂という不思議な男だ。
「雨宿りに純粋も何もないだろ」
「あるよ」
 長い腕をぬっと伸ばし、ざんざん降りの雨に、手のひらをさらす。
「純度の高そうな」
 愉快そうにすうっと目を細める藤堂を見て、安井ははあっと脱力し、流れで自動ドアのパネルを押した。
 
 外観からしておしゃれそうな感じはしていたが、中は、驚くべきラグジュアリーな空間だった。
 モダンな内装、什器、照明。席同士が広く開けられた、贅沢な造りの客席。
 奥が一段高くなっており、どでんとグランドピアノが鎮座している。
 確かにこれは、打ち合わせをする場所ではなかった。
 無駄のない動きでやってきたウェイターに、安井はコーヒーを、藤堂はグレープフルーツジュースを頼んだ。
「お前、ジュースなんか飲むんだな。意外」
 安井が鞄の中身が無事かを確認しながら尋ねると、藤堂はあっけらかんと笑った。
「好きなんだよね、グレープフルーツジュース。大人になってからだけど」
「まあ、子供でグレープフルーツが好きな奴なんて、滅多にいないよな。苦いし」
 子供の頃の記憶を思い起こすと、お中元の缶ジュースセットのなかで、いつもグレープフルーツだけが余っていた気がする。
 藤堂は、メニューを端に避けながら言った。
「何年か前にさ、下北沢にある超老舗のカフェに行ったわけ。老夫婦がふたりで切り盛りしてる。んで、メニューに『フレッシュジュース』って書いてあったから、おばあちゃんに聞いたの。これ何のジュースですか、って。そしたら、グレープジュースですよって」
 そこで一旦切った藤堂は、口元にこぶしを当て、眉根を寄せて、こらえるように笑った。
 安井は何も口を挟まない。
 持ち直したらしい藤堂は、また語り出した。
「フレッシュなんていうんだから、絞りたてでさぞおいしいぶどうジュースなんだろうなんて思うでしょ? そわそわしながら待ってて、来たら、淡いイエローよ」
 折れた腰で働く老婆に文句を言うわけにもいかないので黙って飲んだら、衝撃的なおいしさで……以来、グレープフルーツジュースが一番の好物になったのだという。
「人間の好き嫌いなんてさ、そんなもんだよね」
「まあ、急に好みが変わるとか、何かに目覚めるなんてのは、よくある話だな」
 藤堂は目を伏せたまま、うんうんとうなずく。
「人間に、不変のものなんてひとつもないよ。好みも、考えも、体も。常にじわじわ変わってる」
 そう言って白い手の甲の皮膚をつまむ藤堂を見て、安井は、この男の掴みどころのなさは流動体っぽい……と思った。
 液体と固体の中間の、むにゅむにゅと姿を変えるアレ。

 飲み物が届き、静かに口をつける。
 見回してみると、客は皆、店のレベルに合わせた振る舞いをしていた。
 全員の背伸びの上で成り立つ、人工的に優雅な空間。
 安井は、少し皮肉を込めてささやいた。
「雰囲気良いな。ピアニストがいるみたいだし」
 店内にはごくごく小さな音量でクラシックが流れているが、ときおり、奥のグランドピアノで、生演奏が始まる。
「いや? あれ多分、ピアニストじゃないよ」
「え?」
 言われて初めて、安井は、ピアノの方を注視した。
 たしかに、専属のピアニストにしては、服がカジュアルすぎる。
「ストリートピアノみたいなものじゃない? ほら、横に動画撮ってる人がいる」
 言われてみれば、すぐそばに背の高い三脚が置いてあって、スマホが固定されている。
 それと、もうひとり。
 地味な青年が、手に持ったスマホで演奏者の周りをぐるぐるとうろつきながら撮っていた。
 プロの演奏と遜色なさそうな、おしゃれなジャズアレンジのアニソン。
 きっとあしたには、『オシャレすぎるカフェでエヴァ弾いてみた』の動画が、この店の概要と共にYouTubeの片隅にアップロードされるだろう。
「そういう集客の仕方もあるんだな」
 安井が感心してつぶやくと、藤堂はへらへら笑って言った。
「すぐに仕事の話に結びつけるから、安井はすごいよな」
「別にすごくはないだろ。素直な感想だ」
「普通、ふらっと雨宿りで入ったカフェでおしゃべりするなら、そのピアノの手前にいる美女の話をするんじゃないの?」
 言われて視線をさまよわせると、藤堂の言うとおり、ピアノの少し右手に、綺麗な女性が座っていた。
 二十代後半くらい。艶のあるロングヘアを耳にかけ、ティーカップに口をつけている。
「ああいうのが好みなのか?」
「ぜーんぜん」
 言い出した張本人が、肩をすくめる。
「顔の造作なんて、記号でしかないしね」
「記号?」
「そう。美人の顔、悪人の顔、堅物の顔。雰囲気にくっつける記号みたいなもんでしょ」
 安井は無意識に、『無害そう』と言われ続けている自身の頬をなでる。
 藤堂は、ほんの少し安井の方へ顔を近づけ、尋ねた。
「でもそんなの、本当にあると思う? 何々の顔、なんて。人間は、瞬間で変わり続けてるのにさ」
「ないよ。勝手に言い出したのはお前だろ」
 雑な答えに、藤堂は端正な顔をふわっとほころばせた。
 優れた記号の持ち主だ。女性を放っておかせない、と、顔に書いてある。
 それに、安井自身もすっかりペースに巻き込まれて、『純粋な雨宿り』をしてしまっている。
 これも、藤堂の記号のせいか。
 藤堂の記号は、何通りもの役割を果たすのか。
 思案の相手は、いすに背を預け、くつろいだ表情で言った。
「安井はさ、優しいよね。あんま笑わないけど」
「そりゃどうも」
 会話を切り、コーヒーをすする。
 藤堂は、優雅な仕草で、品の良いガラスコップに触れる。
 その独特の間合いだけで、グレープフルーツジュースはこの世の至高の飲み物になり、会話が途切れたのでさえ、それがいますべき振る舞いの唯一の正解のようになってしまう。

 ぽんっと心地いい和音を残して、ピアノの演奏が終わった。
 拍手はない。
 ぼんやりと三脚を片付ける様子を眺めていると、藤堂が、のほほんとした声で言った。
「俺も何か弾いてこようかな」
「え? お前、ピアノ弾けるのか?」
「何かは弾けるでしょ」
 すっと立ち上がると、姿勢良くピアノに向かって歩き出した。
 美麗な男が現れ、明らかに、店内の視線がすうっとそちらへ吸い寄せられる。
 藤堂はいすに座ることもなく、人差し指で鍵盤を押した――弾いたというよりは、押したという表現が正しいと思う。
 ド、と短く鳴った。
 さらに何人かが、ピアノの方へ振り向く。
 藤堂は、人差し指一本で、ゆっくりと鍵盤を押していった。
 ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。
 紛れもなく、きらきら星だった。
「え……」
 安井は、拍子抜けしつつも、目が離せないでいた。
 子供が弾くのと変わらない、リズムもへったくれもない、拙い音。
 周りもそう。世界一どうでもいいかも知れない藤堂のきらきら星を、食い入るように見ている。
 人を引き込む力。
 しとしとと降る雨さえ、味方をしているような。
 弾き終えると、藤堂は何かを納得したようにうなずいてから、こちらへ戻ってきた。
 そして店内は、何事もなかったかのように戻る。
 出来について何も言わないでいると、藤堂は満足げに、「弾けた」と言って笑った。
 もしこれをやったのが別の人間だったら、失笑を浴びるか、場に不適切だとひんしゅくを買うかの二択だったと思う。
 だのにこの男は、人差し指一本で、虚栄心の蓄積で生まれたこの空間を支配してしまった。
 藤堂は、氷が溶けたコップをストローでかき回しながら、のんきに笑う。
「あーあ。ジュース、薄くなっちゃった」
 こういう圧倒的に華のある男には、羨望すら湧かないのだと、安井は知っている。

 雨が止んだ。
 安井が先に立ち上がり、伝票を取ると、藤堂が小首をかしげて呼び止めた。
「ねえ」
「ん?」
 ふいっと見下ろすと、藤堂は目を細めて笑った。
「付き合ってくれてありがとうね」
 安井は、脱力気味にはあっとため息をつく。
「……こういう振り回す感じが、取引先をたぶらかすんだな」
「あらら、雨が止んだ途端仕事の話するの?」
「そうだよ。純粋に就業しろ」
 一刻も早く社に戻って、こいつがふわっと取った言質を、契約書にして送りつけなければならない。
 安井が会計に向かいながら頭の中で段取りをしていると、藤堂は、相方の表情をうかがうように、綺麗な顔をちょっと傾けた。
「俺、安井のそういうとこ好き」
「そりゃどうも」
 勘定を済ませ、自動ドアのパネルをぽんと押す。
 一歩踏み出し見上げると、大雨が嘘だったかのような、見事な晴天だった。
 仕事を終えて帰る頃には、さぞや綺麗なきらきら星……
「うえっ」
 思わず変な声が出た。
 突然えずく安井を見て、藤堂は、形の良い眉をひょいと上げる。
「あれ? やっぱり仕事したくなくなった?」
「……いや、やる気に満ちあふれて困ってるくらいだ」
 へらへらと笑う藤堂をぐいっと押しのけ、前に出る。
「タクるぞ」
 安井は盛大に眉間にしわを寄せ、頭に浮かびかけたおぞましいポエムを振り払うように、さっさと歩き出した。

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