発信と公共性③ オブラート
どもども。みなさまおっぺい( 厂˙ω˙ )厂
声優兼オネェ系Vライバーのじゅんぺいです。
今日も記事を読んでいただきありがとうございます。
テレビやラジオなどの、公共性の王様のようなメディアだと
「自分の伝えたいことにどれだけオブラートを包めるか」が
めちゃくちゃ大事になってくるんですよね。
それを番組によって使い分けるというかね。
僕がちょこちょこやらせてもらっているラジオ番組に
切れ味鋭いコメントとか、はちゃめちゃに尖った笑いとか
必要ないわけです。
逆に生々しい情景をそのまま伝えたいドキュメンタリーだったり
ニュースのコメンテーターってなると
オブラートの包み方がまた変わってくるわけです。
そういう公共性のところで働いていた人って
YouTubeや配信に行ってもやっぱりそこを意識できているから
見ていてもすごい安心感がある。
ただ、テレビが今、公共性にがんじがらめにされちゃって
コンプライアンスがすごく厳しくなっちゃったので
丸くなりすぎちゃってつまらなくなっているという事実もあります。
ネットはオブラートを包まない方が…
ニコニコ動画全盛期の頃から感じていたのですが
やっぱり初期のYouTubeやニコニコ動画って
「自由な表現」から始まっているんですよね。
前に「アマチュアと天才とプロ」の関係性の記事を書きましたが
アマチュアの自由でクオリティの高い表現がいい意味で
視聴者の人気を得るようになっていった。
んで、そこから徐々に
「過激な企画や過激な表現」みたいなものが増え始めるんですよね。
これがまた厄介で、こういうものっていろんな数字が取れちゃって
そこがまた勘違いを生んじゃうんですよね。
結果的に何を言ってもいい。何をしてもいいみたいな世界になっていって
公共性への意識がどんどん失われていく。
何を言ってもいい。何をしてもいい世界なんて
存在しないんだからね。