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勝手に"書き出し小説"の続き。

「冬の金玉は揺れない」
ユキはそう小さく呟くと、口元だけで笑った。サージカルマスクをしているのでユキが笑ったことに気づいた人はたぶんいない。

クリスマスのちょっと前、小さな公園のベンチ。その言葉をナオキの口から聞いたときは一瞬何を言ったのか理解できなくて、手に持っていたコンビニコーヒーを見つめたまま固まってしまった。「寒いから縮こまってるんだよ。見る?」とナオキが続けるので大笑いしてしまった。ナオキは普段はボーっとしていて「めんどくさい」が口癖の男だったが、たまにボソリと切れ味の良い冗談をいった。ユキはそれがとても好きだった。「見せて見せて。ほれほれ」と笑いながらナオキのジャージのズボンを掴んで揺すったのを覚えている。

時刻は夕方の5時を回ったところで、ユキがバイトをするコンビニの店内は賑わっていた。非常事態宣言も出ているので外食もままならないのだろう。コロナによる感染者が増えてから明らかに忙しくなった。感染対策のため「いらっしゃいませ!」の挨拶は大きな声を出さなくていいという本社の指示も出ているので、大きな声を出すのが得意ではないユキにとって好都合だった。入り口に設置してあるアルコール消毒スプレーが減っていないかこまめに確認する。ほとんどの客は店内に入る前にスプレー消毒をしたが、中年の男性はしないことがたびたびあった。スプレーをしない女性をユキはみたことがなかった。

一ヶ月前にナオキと別れたのもコロナがきっかけだった。「人と会ってはダメだし、濃厚接触もダメなんだろ?そうしたら俺たちはどうするんだよ」と真顔で言ったのだ。恋人の関係でそれを当てはめるのか?と反論したが「もしもそれがきっかけでどちらかが感染して、もしも命を落とすことになったらどうする?」と親が振りかざす正論みたいなことを言った。ナオキは妙なところだけルールに従うタイプだった。コロナの間は手も繋がず公園を散歩したっていいし、会うのを我慢して電話などでしのぐこともできるんじゃないか?と説得してみたが、結局は別れることになった。本当はコロナなど関係なかったのかもしれない。いずれにしても、彼は別れたかったのだ。別れたがっている恋人を繋ぎ止める方法などない、たぶん。

「すいません、ズボンの紐ってどこにありますか?」
ユキがレトルト食品の棚を整理しているとき、後ろから男の声がした。ズボンの紐?はぁ?と内心イラつきつつ振り向くと、そこにはグレーのウレタンマスクをして上下ジャージ姿のナオキがいた。口元は見えないが目元はニヤニヤと笑っている。「わ…あ、久しぶり」ナオキのことを考えていたら本人がいたので、間の抜けた声が出た。「ユキ、まだここで働いてんのな。まじさ、ズボンの紐ない?切れたんだよ、今」と、ズボンを手で押さえている。昔ユキが掴んで揺すったズボンだ。そんな紐などない、と答えるとナオキは「そうか」と言ってドリンクコーナーに向かった。レジが混んできたのでヘルプで入って、何人か客をこなした後にナオキが炭酸水を持ってレジにやってきた。「Suicaで」と画面がバキバキのスマホを差し出す。隅のほうは変な緑色になっている。別れる前と同じ画面だ。スマホ決済の処理をして炭酸水をすっとナオキのほうに押しやる。レジ袋はいらない。ナオキは元々ちょっとの買い物ならレジ袋をもらわない男だった。

一応客なのでユキが「ありがとうございます」と小さな声でいうと、ナオキは「じゃ、また」と明日も来るような雰囲気で入り口に向かった。別にユキに会いにきたわけではなく単純にズボンの紐を探していたのだ。そのいつもと変わらぬ調子に気づいて少しだけ嬉しくなる気がする。きっとまた何かを探しにくるだろう。その時、ナオキは突然くるりと振り返りユキを指差して言った。

「冬でも室内なら揺れる」

ユキは今度はすぐに理解できた。でも笑えなかった。はいはい、と片手を上げることしかできなかった。ナオキは片手に炭酸水を持ち、片手でズボンを押さえながら店を出ていった。ユキはそれをしばらく見ていたが次の客がきたので、接客に戻った。


※この物語は天久聖一さんがデイリーポータルZで連載している「書き出し小説大賞」の第207回の八重樫さんの作品「冬の金玉は揺れない。」にインスパイアされて勝手に続きを書いたものです。

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