ゴッホの青い手紙 30-2
だがよくよく見ると人に見えるものが現れる。左から四人目の肘のあたりに一人、左から六人目と赤い服の人物の間に一人、そして右から一人目と二人目の間に頭頂部だけ見える人物らしいものがある。
多分これで受け取りを拒否したのではないか?十二人になってしまうからね。
絵の良し悪しよりもこんなところにカトリックはこだわるんだよ。当たり前だがね。なぜルネサンスの画家はこの様な誤解を招くことをしたんだろうね。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」もそうだ。ペトロの右手。ある意味僕らは自由になった。依頼主が教会や王侯貴族じゃないからね。
ブルジョワの小金を持った客だろう。そんなものの注文なんて、ただサロンで高評価の画家の絵を投資目的に買う程度だろう。何もわかってはいない。それは良い。
だが過去の画家たちはあの手この手で自分の作品に自分の考え、見方を入れ込みたかったんだね。そのような見方も出来なければ真の芸術なんて理解はできないだろう。あまりその様な仕掛けの謎解きばかりに走ってはならないが、ものの見方の幅、深さを増すためには重要じゃないかな。
アングルみたいにそんな絵を描きたくて、描きたくてたまらなかった絵描きもいても良いしね。ブルトンもその口だ。要は表現者と見る側の勝負なんだよ。今のパリは革新的な表現者があまりにも勝りすぎていて混乱しているだけなんだ。焼却頼む。
追伸
この絵のマリアの脚に注目してくれ。向かって左だ。ワザと曖昧に描かれている。親指の方向が曖昧に描かれていることによって見る側の錯覚でマリアの身体が捻じれて見える。ダイナミックさが表現される仕掛けだ。
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