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改訂版 貴方は本当にレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか? その15
楯の前面には得体のしれない化け物の様な太った老人が見えます。その様に見えるのは私だけでしょうか?それは悪魔なのでしょうか?あるいはキリスト教を隠れ蓑に富を貪る教皇なのでしょうか?全く反対の感じ方として「神」そのものという見方もできるでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチ本人しか本心は分かりません。
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キリストの足元には血を流した若者が居ます。しかし注意深く観察すると若者を襲っている兵士に槍が刺さっています。若者は死んではいません。キリストの復活をイメージしてしまうのは私だけでしょうか?
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私は「アンギアーリの戦い」と言うタイトルには全く意味がないものの様に思えてきました。なぜかと言えば「アンギアーリの戦い」という作品が「最後の晩餐」に余りにも当て嵌り過ぎるためです。
さて、私はこの現れた画像に対して独自の考察をすべきか迷っています。私はレオナルド・ダ・ヴィンチの指示に従っただけなのです。私は、この現れた画像にレオナルドの考え方の意思表示があると思うのです。私は考察しなかったわけではありません。「裏切り者のユダ」を何故、闘士は助けようとしているのか?闘士の行動はレオナルド・ダ・ヴィンチの考えと言い換えることも出来るかもしれません。彼は「イスカリオテのユダ」を「裏切り者」とは考えていないのかもしれません。私はそれを「最後の晩餐」を見ていただけではそれは分かりませんでした。しかし、あまりこの件を公表すれば短絡的にグノーシス主義者とレッテルを貼る人も現れるでしょう。自由主義神学(liberal theology)の立場の学者は大喜びするかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチがグノーシス主義や自由主義神学(liberal theology)の先駆けとレッテルを貼りたければそれは自由ですが、そうならば私の発見を認める事にもなるのだということも忘れないでください。
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