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ゴッホの青い手紙 44

 テオよ、元気か。表現とは何だろう。今更ながらそう思うことがある。芸術作品とは何なのだろうかと考えてしまうこともしばしばある。私が見て感動したものをキャンバスに描いているわけだ。アウトプットされたものが作品なわけだ。インプットは何なのだろう。私が私の眼で見た風景?人物?静物?感動があるから描くのだろうか?それも確かにある。ただ私の脳内でプロセスがあって表現となるのではあるが、一方通行ではない。私は描きながら画面を見ている。それもインプットのひとつである。ぐるぐる回っているともいえる。プロセスの段階でその時代背景が作品に影響を及ぼすことも当然ある。感動したから描くという言い方も説明としては簡単だ。しかしそれを定着させたいだけならば写真も正確さにおいては意味がある。感動したものを感動として表現するにはそのまま描いただけでは足りないのかもしれない。何が足りないのか分からないが描きながら探っていると言った方が近いかもしれない。

 未来の絵画はこの画面だけに表現をぶつけるものも出てくるかもしれない。純粋に画面上の美を表現する画家も出現するかもしれない。表現されたものが良いものなのか駄目なものなのか誰が決められるのだろうか?自分か?他者か?サロンの審査員か?過去の画家は依頼があってこそ描き始められた。一文にもならぬ絵画は描こうにも描けなかったわけだ。描いたとしてもそれはただのメモだ。スケッチだ。私も今まで作品を描いてきた。作品数は多い。自分の作品には自信がある。満足をしている分けではない。美の真理を求めているのだろうか?美の真理など机に座って考えていても分からないだろう。美の真理を数学的な比率で解決しようとした画家もいただろう。線に求めた画家もいただろう。色彩に求めた画家もいただろう。遠近法に打開策を求めた画家もいただろう。だが残っている画家は、やはり過去の作品に影響されながらも革新的な表現を試みたものが残っている。革新性も重要な要素であることに異論はないだろう。革新性が個に求められる時代なのかもしれない。テオよ。独り言の様な手紙になってしまった。許してほしい。握手。焼却頼む。


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