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ゴッホの青い手紙 24-2

 そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチは聖アンナと聖母子を宗教的な意識をもって描いたなどと夢にも思えないね。
 ただ女性二人と幼児一人の人間を描いただけだとまずは思うことだ。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたから凄いとか題名に騙されてはならない。


 ドローイングの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は幼児が一人追加だ。だから女性二人に幼児二名の四人の絵。さて『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』だが・・・(題名が長くて嫌になる。)この絵はいかにも未完成に見える。しかし、これで完成なのだ。この絵のポイントは足だ。足を曖昧に描いている。正確に言うと足の親指の位置だ。親指がどちら側に来るかで誰の脚なのか規制がかかる。
 この絵ではそこが曖昧なのでこの女性二人のポーズがいかようにも変えられる仕掛けさ。君はどう見るだろうか?どんな姿勢だと思っているのだろう。そもそも人々はどう思っているのだろうか?大概の人はマリアが聖アンナに体の側面をくっつけているように見ているのだろうか?

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だがよく見てくれ、いろんなパターンで見ることができるんだよ。
 マリアが股を広げて聖アンナの上に座っている。少し卑猥な感じに見える座り方。

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 もっと別の見方をすれば、聖アンナが大股開きしているところにマリアが足をすぼめているような姿にも観ることが可能だ。
 ここまでで三パターンだ。

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 最初ここまでしかわからなかった。
 しかし、もう一パターンある。マリアの開いた足に聖アンナの右足が載るパターンだ。全部で四パターンが可能だ。

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 この四パターンを発見するまでには何が必要だろうか?
 まずマリアだということを忘れる。聖アンナだということを忘れる。
 幼児がキリストということを忘れる。
 聖アンナ、マリアが女性であるということすらも忘れる。
 幼児が男の子だということも忘れる。

 すべてを捨て去って初めてこのパターンが読み取れる。一つ忘れていた。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたことも忘れるんだ。そうしなければ思い込みが邪魔をして見抜けなくなる。レオナルド・ダ・ヴィンチはやはり偉大だ。次元が違う。何が大切か私たちに問いかけているんだよ。思い込み、知識、先入観が眼を曇らせるってことかもしれない。この絵を自由に見えるようになれたら一人前みたいなね。

  もしかすると誰もこの絵のポーズ四パターンでみな違って観ているのに、それについて誰もおかしく思わないから、全く違った絵として解釈していながら現在に至っている可能性もあるね。


 そうだ。一つ忘れていた。聖アンナは男性だと思う。僕は聖アンナがキリストだと思っているよ。聖アンナは男だ。それだけは間違いない。油彩の『聖アンナと聖母子』は次回の手紙にする。

眠くなったので寝る。焼却願う

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