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夏越の祓で思うこと。

今日で今年も半分終わり。

ということで「夏越の祓」の陶板を梁に掛けた。茅の輪の代わりにこの柱を回って半年の穢れを祓うことにする。

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今年上半期の穢れということでまず思いつくのは、やはりなんといっても新型コロナウイルス。疫病退散、ということでアマビエなる神様がにわかに流行っていたりもする。僕だけでなく、茅の輪をくぐる人たちの脳裏には浮かぶのは、今年はおそらくコロナウイルスのことが多いのではないだろうか。

でもちょっと待てよ、と反省する。この新型コロナウイルスの世界的パンデミックが、そもそもコウモリを宿主としてその世界にとどまっていたウイルスが人間の貪欲な生産活動の拡大とともに豚に入り、そして人間界にも広がってきたのだとすれば、それは人間の自然への過度な介入、侵犯が引き起こした結果であって、いわばひっそりと寝ていたところを起こされたかのウイルス自体に罪はないし、それを穢れとして忌むのは僕(を含む人間)の身勝手だ。世界中がstayhomeで経済活動が停滞したせいで、海や川、湖は澄み、大気もきれいになったという。してみると、地球にとって最大の穢れは人間だ。

この感覚はいつも僕が古寺古社をまわるなかで感じる感覚と通じるものがあって、山奥の寂れた、ほとんど人が訪れることもないような、時には朽ちつつあるような寺や神社にこそ、神さびた気配を感じる。「金百㒼円 〇〇市〇〇」などと彫られた石柱がずらっと並んでいたり、「パワースポットはこちらです」なんて世俗風味豊かな商業看板が立ててあったり、他に負けまいと巨大化していく鳥居を見ると、微笑ましくもあるけれど、本来清らかな寺域社域を穢しているのは他ならぬ人間だ、とも思う。寺や神社があるからそこが聖域なのではない。聖域に人間が(勝手に)人工物を建てているのだ。それは幾分か世俗、穢れを持ち込むことでもある。本当に祓うべき穢れとは、欲とか執着とか、自分を含め人間の中に渦巻いているなにか、なのだろう。

人間が自然を侵犯している、という感覚は、普段、我が身を振り返っても感じることで、今、工房がある場所は、14年前まで何もない里山だった。里山、といっても手入れする人もなく竹林と化し荒れたままだったところを切り開いて、今の工房を建てた。井戸を掘り、電線を通し、ガスボンベを運んでもらって、今の生活が成り立っている。つまり、それまで自然の領域だったところに踏み込んでいったわけで、これも人間による自然への小さな侵犯だ。

そのしっぺ返し、というより自然からの当然の主張として、毎年、春夏は一面に草が生い茂るし、台風による倒木もあれば大雨による土砂崩れにも見舞われる。草は刈ってもすぐ伸びてくるのでシーズン中は何度も刈る必要があって、のべにすると相当な時間を草刈りに費やしている。ということはその分だけ延々と植物の命を奪っていることになる。かといって草刈りをせずにいると早々に足を踏み入れるのも困難なブッシュになるし、湿気がこもって建物にもよくない。さらに工房の裏が山になっているので、こまめに草刈りして地表の様子がすぐわかるようにして水道(みずみち)も手入れしておかないと、大雨の時に上手に排水ができず土砂崩れの原因になる(大雨の怖さは去年の台風で嫌と言うほど味わった)。そんなふうにいろいろ理由はあるのだが、結局のところそれらはみな入り込んできたこちら(人間)の勝手な都合であって、自然の側には何の関係もない。侵犯者は自分だ。そう思って、心の中で(申し訳ない)と手を合わせつつ草刈りするのだけど、またすぐ伸びてくるのをみるとやっぱりうんざりしてしまうので、まだまだ修行が足りない。

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