見出し画像

20年ぶりの江藤淳との再会        漱石と子規 俳句と私

  師が眠る青山の土曼珠沙華      

 曼珠沙華の鮮やかさが彼岸の日に目に染み入る。暑さ寒さも彼岸までというがこの日は秋日和で爽やかな日だった。ときおり強い日差しが夏の余韻を残しつつも、自然豊かな青山墓地を通る風の心地よさは秋の気配を感じさせる。昼と夜の時間が同じ彼岸の日には霊界に通じる道があるという。故人を偲ぶに青山霊園まで赴いた。実に20年ぶりの師との魂の邂逅。

 江藤先生との出会いは大学の「創作過程論」での授業であった。ある日キャンパスの坂道で江藤先生をお見かけした。漱石研究の権威である江藤先生に向かって近寄り、わたしは芥川を題材にしてレポートを提出したいと個人的に申し出たのだった。「漱石の新聞小説を主題にした授業だから漱石に取り組むように」とその時は静かに言われたのだが、三田祭が終わったのちの授業で、研究対象を漱石ではないものに代えようとしたふとどき者がいると、皆の前で引き合いに出されて厳しく怒られたのだった。

 先生の研究会生志望だった私は深く傷つき、友人から慰めの手紙までもらうほど端からみても落ち込んでいた。芥川龍之介についてのレポートを出そうと思ったのは、芥川の親戚である葛巻家の方にお会いし、担当医師であった齋藤茂吉との関連などをインタビューさせてもらう機会があり、それをまとめようと当時思っていたのだった。神奈川テレビの芥川を特集する番組に私も出演する話までいったのだが、結果的に私の出番はなくなってしまった。どういう経緯だったのか今は細かいことは思い出せない。

 後ほど先生の研究室に意を決して謝罪に行き、研究会入会をお願いしにいったのだが、先生は穏やかに、「三田祭気分が抜けない学生諸君の気分を一新するために怒ったのであって、その為君の話を引き合いに出しただけですよ。」とおしゃった。そして研究会希望の件を聞くとにこやかにうなづかれた。たいそう安堵したことを今も覚えている。江藤先生は偉大で畏れ多い先生だった。話しかける時は非常に緊張したものだ。だからこそ先生との会話やその時の場面が鮮烈に記憶に残っている。


 研究会で私はまず文体についての研究(と言及できるレベルではないと思うが)をした。漱石の文体に正岡子規の写生がどのように影響しているのかを考えた。先生は個人所蔵の資料を貸してくださった。私を含むSFC二期生の研究生の論考は先生のご好意で冊子の形で残っており実家の本棚にある。

 漱石は俳句も多く残している。学生の頃は、小説のことで頭がいっぱいで俳句のことまで勉強できなかったが、20年後になってご縁があり俳句会に入会することになった。そして師はテレビでもご活躍の片山由美子先生。初心者にも関わらず先生に教えていただけるご縁に感謝している。彼岸の句をもう一つ作った。

 


赤蜻蛉肩にとまりて父かもと    


下の句は片山先生に直していただいた。亡くなった父は、明るくお調子者のところがあって、母はよく父のことを極楽とんぼと笑っていた。ある秋の日、とんぼが私の周りをくるりくるりと周り、私の肩付近に止まった。このとんぼこそが父なのだと思った。父が私に会いにきた。そしてとんぼが遠く見えなくなるまで 私はじっと眺めていた。

赤蜻蛉肩にとまりて父還る    

と最初は作っていたのだが、俳句としては父還るよりぼかす方がよいそう。始めたばかりなのでまだ俳句の決まりごともよくわからないがこれから学んでいこうと思う。都会の生活で自然の移ろいを感じにくくなっている昨今、気持ちは自然とともにありたいし、外に出て写生するように足元の野花などもよく見たり、生活の中でも自然やいろんなものの命を感じられたら良いと思う。


画像2

 

 昨年、神奈川近代文学館で催された江藤淳展に行ってきた。雨のしとしと降る日で、晴れた日なら港の見える丘公園から港や空が綺麗に見える。この日は隣接するバラ園に満開のバラが雨で花びらを濡らし、水の重みで散っているのも多かった。当時、先生に文学館について尋ねると、作家の持ち物や原稿など所蔵していることにあまり意味を見出せないというようなことをおっしゃっていたのを思い出す。館内で先生の文机や原稿を見ながら、先生の字体を懐かしく思った。原稿はほとんど直しがなく完成に近いものだったとどこかで聞いたことがある。確かに美しい原稿だった。そして大教室、最後の授業で微笑む先生の大きな写真。あの頃を思った。随分時間が経ったけれど今こそまた文学に向きあいたいと思った。

 先生が亡くなる前に先生にお会いしたときのことを思い出した。私は経済的な事情で大学院に進めず出版系に就職したものの文学への思いが捨てきれず、学費をためて大学院を受験し江藤先生の元で学ぶことにしていた。それで先生にご挨拶に伺ったときのことだ。先生と受験のことなど会話を交わしたものの、奥様を亡くされた後、どこか虚空を見つめるような雰囲気で心配になった。きっと深い悲しみが続き疲弊されていたのだと思う。数ヶ月後、私が仕事でカナダに滞在していた時、先生の訃報をNHKで知ることとなり、最後にお会いした時の様子を思い出し辛かった。その後私は三田の英文科へすすんだ。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?