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「リンゴ追分」が刺さる理由【解釈】
リンゴ追分で号泣している理由を。少女の不幸の話です。もはや二次創作。解釈であり咀嚼であり癖である。
とりあえず苦手なら閉じてほしいから、ざっくり言うね、私のリンゴ追分の解釈の大枠は「夜!!母の死!!少女の死!!と、やさしい風」です。死んでしまった母への挽歌と別れに耐えきれなくてそう遠くなく死ぬ少女への鎮魂歌と、それを語るあくまで他人の距離の語り手、的な。
以下、歌詞を配置しながら言いたいこと言います。
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月夜に月夜に そっと えええ
「リンゴの花びらが散る。風に連れていかれるほどの儚い命が散る。今日は月がよく見える夜だ。」というのが私の中でのリンゴ追分の幕開け。
ある意味人知れず、そっと、そっと遠い土地で死んでいった母。母が死んでしまった事実を噛み砕いて飲み込むことができずにいる少女。
月夜は、母が死んだ日のようで、母の死を思った日のようで、また、少女が死んだ日のようでもある。
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つらい別れを ないたとさ
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「少女は泣いた、泣いて泣いて泣いた。」泣いていた少女はそこにたしかにいた。いたけれど、その少女と同じ時代を生きていたとは限らない。「とさ」の部分に、リンゴ園が廃業〜跡地になるくらいの時間経過を感じることもできるし、直近で起こった辛い出来事を風化させたくてこの言葉遣いをして突き放しているようにも感じることもできる。
リンゴ園の跡地で草と土を踏みしめ語り継がれた少女の話を思う夜、と、リンゴ園で彼女を連れていったリンゴの花びらの舞う様子をこの前とは違って1人でぼんやり見る夜、どっちが好きーーーーー?!ふつうに、前者派だったけど、後者見せられて無理of無理になったんですよね。解釈の幅っ!たのしっ。、
そして、少女の年齢。わーん!と人目を気にせず泣くような手を繋いでいないとどこかに行ってしまうくらい、か、声を殺して泣くようになったそろそろ恥ずかしくて手を繋いでくれなくなったくらい、か。
6月の組み合わせで言うと、まだまだ子どもの少女が辛い別れに耐えかねて亡くなったと言う話が語り継がれているリンゴ園の跡地にいる夜、か、気持ち大人になった少女が花びらに連れていかれたことを悔しく思う夜。どっちがより刺さったと言うわけではなくてどちらも刺さった、すごくすごくね。でも、わーんって子どもみたいに泣けるのは前者。
差分。子どもの方が感情が表に出やすくてコントロールできていない分、こちらの関わりではどうしようもなく制御できなかっただろうけど、大人になりかけの方は少女が感情を隠すから、その機微を察せなかった分悔しさが増すというか。物理的に抱き止めて寄り添ってやっておけばよかったか、心理的に抱き止めて寄り添ってやっておけばよかったか、的な。
(そもそも、「よかった」という言葉を使うことによって少女の死が「よくない」という意味を含むのは嫌だけど)
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風に散ったよな あああ
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「とさ」と「リンゴ」がすぐぴったりくっついて展開を急かしているところ、わりと好き。
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つらい別れを ないたとさ
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風に散ったよな あああ
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そして歌詞は繰り返しへ。
繰り返していくことで、母が死んだ→花が散るのを見て母が死んだことを思う→少女は受け入れられない→花が散るように少女は死ぬ→(時間経過→)その少女を思う男(舞踊の時点)を感じています。舞踊の時点はここだけどしっかり懐古してくれるからその時の空気を吸えるの本当に好き。いつもいつも夜の生暖かい(そしてたまにすこし潮風を含んだ)空気の流れを感じて無理。
でさあ!まあここまで歌詞をこねくり回したわけだけど。ここからですよ、私が獅子丸の舞踊でリンゴ追分を見るのが好きな理由!少女が何だっ、母が何だっっっ。そんなことより大切な点があるっっっ。
とにかく刺さってやばいところ言います。それは、彼の立ち位置。
彼の舞踊の視点ってどこなんだろうと思った時に、少女でもなく母でもない「他人」という心地よい距離の誰かなんだよね。すごく寄り添ってくれるのに「あくまで他人」という立ち振る舞い、安心できて好き。泣きたい時や抱きしめてほしい時、関係性のある人間には素直になれなかったりしません?そういう小っ恥ずかしさや意地っ張りな部分を無視して素直になれる存在。(わたしにとっては最近もっぱら「客席に座っていること」がそう。)
風のようであり空のようであり肉親のようでありながらも、綺麗に他人である。そこに冷たさがあるわけではなく、近寄りすぎない優しさってあるよねって思っている。他人にだからこそ、開けっぴろげの感情を受け止めてもらっていてもただ抱きしめられている心地よさだけが残る感覚。
だからわたしはリンゴ追分を見ている時「そんなひどい別れってないよ…」と少女になって泣き、「ああ、お前に後を追ってきてほしかったわけじゃないんだ、そんなに辛い思いをさせてごめんね」と母になって泣き、海風を体全面で浴びたり、リンゴの花が咲いて散って行くのをぼーーっと見ていたりする、ことしかできないんだよね。
そんな接し方をできるリンゴ追分の彼、きっと今までそうしてほしい場面を1人で切り抜けてきたんだろう、踏ん張ってきたんだろうなという少々の影を感じるところもあり、だいすき。
最後にハイパー余談の、ちなみに!映画「リンゴ園の少女」見てきました。てへへ、全然刺さらなかった。私の想像していた少女より、だいぶきらびやかな可愛さを持った意志の強い女の子で…何より生きているんだもの…。
死んだ母と成仏できない少女へ、愛をこめて!
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