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「少年の君」をみて天を仰ぐ…

「少年の君」を観たかったのだが、ようやくアマゾンプライムにて鑑賞。もう単刀直入に行こう。これはダメだ。
どう考えても、ストーリー、キャストなどからみて注目作のはずだが、近年これはひどいと感じるレベルで当局の検閲の影を感じる、どころか、ありありと検閲が存在していると推測せざるを得ない。

政府の広報問題

近年の中国映画のエンドロールなどに、妙なメッセージが現れるのは、ご存じだろう。NETFLIXで鑑賞できる「僕らの先にある道」などの名作にもこうしたメッセージがある。要は当局の連中は、映画に現れる社会問題は放置されているわけではなく、何らかの対応策があり、当局はそれを鑑賞している皆様に「教えてあげよう、日々こうした教えを守って静かに暮らしてくれれば社会はうまくいくのですよ」、というわけだ。確かに、教訓めいた結論に落ち着く映画もあるから、それをまとめてエンドロールで紹介してくれるのは親切かもしれない。しかし、その社会問題の原因の一端が当局にあるとしたらどうか、、、。決して当局は「我々が問題の根幹にある」などと認めることはしない。常に当局の説明は、≪問題のありかは我々にあるのではなく≫皆さんの方にあるのだから、心して生活しなさいね、という方向になるわけだ。
まあ百歩譲って、当局がエンディングに小さな字幕でもいれて、「いじめはよくありませんよ」などと無意識に働きかけるくらいならいいとしようか、どうせ中国が共産党の独裁政治であることは周知のことであり、そうした体制が映画をどう扱うかも周知のところだからだ。しかし、「少年の君」のエンドのあとの広報宣伝はそんなもんではない。はっきり言ってこの部分を取り上げない同映画の評は嘘っぱちといっていい。台所をやりながら映画を観たんです、エンドの部分には気づきませんでした、くらいの言い訳をしないと通じない。

誰の視点を描く映画なのか

私がこの映画をこき下ろさざるを得ないのは、もっと深刻な問題だ。当局は言う「最後に政府の広報をつけさせてもらえば、内容の少々の問題点には目をつぶろう」と。監督や制作側は言う「最後に政府の広報が付いているくらいで済むのであれば、映画本編の製作意図は守られるだろう」と。
でも私は鑑賞後に思ったのだ。「この映画は内容自体に当局が干渉したのではないか。」と。
過酷な受験競争と格差社会を背景として主人公チェンに対するいじめがあり、チェンと出会ったチンピラの少年シャオペイとが心を通わせる部分が前半だとすると、後半はいじめっ子の変死をめぐるミステリーが展開する。
問題は後半だ。チェンとシャオペイは、企図した筋書きどおりに行動できるのか、観ている側はハラハラする。ところがここで登場するのが、好青年刑事であり、彼の働きにより、本事件はあるべき姿に決着する。しかし「あるべき姿」とは何か、、それは主人公たちにとってはチェンの大学進学と地元からの脱出であり、いじめっ子たちにとっては罪を逃れ大学受験をすることであり、警察にとっては事件の事実に基づく法的な裁きを与えることである。そして主人公たちの極私的な聖域より、法的な正義を当然のごとく優先したのが、この映画の結末である。ジュブナイルストーリーあるいは青春映画にとって、若者の作り出す秩序が最終的に社会や公の秩序とぶつかるという場面はよくあるものであり、多くは若者側が敗北するという筋は普通である。そこには、その敗北を通じて、社会や秩序の意味や過酷さが若者側の視点から描き出されるという意味がある。チェンとシャオペイの作り出す密やかな秩序=自警主義は法治国家(笑)においてはどこかで摘まれてしまうべき芽なのだ。ところが、後半のミステリーにおいて、映画の視点は好青年刑事の方、つまり公権力の方に移動してしまう。私は思う、前半と後半の印象がこんなに異なり、遠山の金さんのような終わり方をしたくて、この映画を作ったのか、と。
そもそも過酷な受験競争と格差社会を背景としたいじめがこの映画の提出する問題なのだとしたら、映画において、その問題を担っている人物やグループは誰であり、(映画内で即時に解決することは難しいとしても)この問題にどのような出口やその端緒があるのか、示されなくてはならない。
しかし、この映画には良い教員方々と、良い警察と、(多少のモンスターペアレンツと)がいるだけで、初めから最後まで、悪いのはいじめっ子グループである、としか示されない。では、、この問題はどう解決されるか、と後半に進むところ、映画は慌てて、するりと論点を変えるのだ、主人公たちの罪は裁かれるべきか、と。観客の皆さん、どう着地点はあるべきか悩む好青年刑事に感情移入してください、という具合に。私はここで主人公2人の視点を切り捨てたこの映画から、ぷつんと気持ちが離れてしまった。
本来本作品はオンライン小説だったらしい。どのような展開をする筋なのかは不勉強で分からない。映画制作側も、その筋を無視するわけにはいかなかったのだろうが、この映画は後半、露骨に当局の介入を受け入れたのだと私は考えている。

ラストシーンは実在するか

ラストシーンでは教員となったチェンがいじめを受けているらしき生徒に寄り添って下校する。そしてその後ろには、更生したと思しき小ぎれいなシャオペイが歩いている・・・。しかし、これは本当に制作側が望むラストシーンなのか、それとも当局側が望むラストシーンなのか。後半の展開を観た私としてはこのラストを信じることはできなかった。それぞれに刑期を終えた二人は相変わらず、社会の底辺で相変わらずあがいているのであり、その姿に満足できない当局が白日夢のようなラストシーンを用意した、のではないか。
改革開放の時代から中国映画の魅力を感じて、いい作品は観ておきたいと思ってきたが、もうダメだな、と天を仰いだ。

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