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あの日を忘れない。3,11。ファッションは世の中のすべての人に嫌われた?

あの日私は、テレビ収録当日で、収録現場に車で向かっていた途中だった。道路がうねる様に上下に見えて、後部席に座っていた私の体が何度も宙に浮く。それでも収録にはいかないとと、車を走らせ、目的ビルに到着。止まったエレベーター横の階段を駆け上がりながら、このビルは倒壊するのではないか?というくらい揺れていたあの恐怖の記憶、、。私はとっさに、当時頻繁にやっていたツイッターでつぶやいた。「電車で帰れない人へ、弊社ファッションレスキュー原宿のサロンで、お困りの方を受け入れします。」収録は中止となり、自分は夫が運転する車で渋滞にもほぼ巻き込まれず家路につけた。しかし多くの人達が都会の寒空の中、さまよう姿がニュースに。何かできないものか?と自社サロンを開放することを決めた。

まだまだ寒い3月だった(夫シンセカイ撮影)

こんなときにファッションか。レスキューするなら被災地に行けよ。

テレビに映る無残な光景を目の当たりにし、生きているだけで奇跡なのだと涙する、、その一方で、ファッションレスキュー事業は、あっという間に窮地に追い込まれた。「こんなときにファッションか。レスキューするなら被災地に行けよ」無残にも世の中は、弊社にみならずファッション業界に対して厳しい眼を向けた。そして私もネットで書き殴られる日々。実際にこの時期、多くのファッション関係者が業界を去り、会社は何軒もつぶれ、ファッションの街 表参道のブランドシャッターはいつまでも開かなかった。骨董通りのお洒落なお店がコンビニに、100円ショップに変わっていった様は地獄を見るよう、、百貨店の電気は薄暗く、当然ファッションレスキューにも、新規の客は3ヶ月間一人もこなかった。

このことは、何度も過去の経験として、様々なところで伝えてきたが、noteにもきちんと記録しておくべきこととして、今改めて、記しておこうと思う。

震災後の原宿・表参道界隈の様子。画像はファッションスナップさんから。他にも多々画像あり。記憶としてリンクしておきたい。

https://www.fashionsnap.com/article/tokyo-street-after-earthquake/

ファッションはもはや 罪 悪 な存在になった。

被災地のために何かしたい、という思いがあってもまず自分の会社が危うかった。明日潰れても仕方がない情況だったことは間違いない。人々の心は完全にファッションから遠のいた。被災地では食事すらままならない情況だ、東京でも節電が訴えられ、弊社サロンもできるだけ電気を消す。世の中の情況とファッションは間逆の状態にあり、心情的には「悪」「罪」のような印象となった。

誰も、ファッションレスキューを必要としない。

しかし、誰もドアを叩かなくなった会社を支えてくれたのは、今までの顧客たちと、実は被災地の皆さんだった。顧客たちは「そうはいっても、服は必要。ファッションレスキューにいったなどの投稿はできないけど、応援している」と弊社の危機を察し、行動で示してくれた。そして一番心を動かされたのは被災者の皆さんの声だった。結局 あることないこと、匿名で書きなぐったのは、被災していない暇な人間・まったく関係のない人たちだったのだ。被災地に対して失礼だとか、わかったような、いいひとの振りをしてそういうことを言った人間たちこそ、今となればわかる。本当に失礼な奴らだったのだということが。


私たちは震災で心が死んだ。でも服装まで惨めになりたくない。

「政近さん、こんなときだからこそ、頑張ってほしい。私たちは本当はお洒落がしたい。綺麗な服を着て未来を歩みだしたい。だけどいえる空気ではないの。だからやめないでほしい。私たちの今は悲惨です。惨めです。でも服装まで、みじめになりたくない!」と。

多くの人が傷つき、生きる気概まで一時はなくしてしまった。しかしまた よしやろう!となったとき、人々は口紅を引き、新しい服を着て運命を超えていきたかったのだ。男女共に、その思いを伝えてくれる人々があふれ出した。

ファッションレスキューを蘇らせたのは 震災のせいにしない、ほんとうの服装のパワーを自分自身が信じてきたことを思い出させてくれた彼らの存在だった。これは 不治の病[難病)と宣告され、治る見込みはないといわれた疾患を発症したときの過去の自分とリンクした。(この話はまた別投稿いたします)ややこしい病が緩快していった過程には、ファッションレスキューという社名をつけたこと、この職業を立ち上げた理由の根源に遡る。

レスキューの社章は天使なのだが、私は人々をファッションから救いたい元気にしたい、パワーを与えたい、と まじめに思ってきたし、いまも本気だ。自分が救われたように、、

わたしはずっと この思いを被災地への恩返しとして 行動したいとおもっていた。それなりの支援はしてきた「つもり」の自己満足ではない、自分にしかできないことを。

震災5年後、ある日そのことに動き出す日がやってきた。

福島でファッションショーをやりたいというオファーだ。このオファーをくれたのは私がフェイスブックをはじめるきっかけを創ってくれた福島在住の熊坂仁美氏で、彼女はファッションレスキューが運営するスタイリストスクールPSJでも学び、その在籍中に浮かび上がった案件だった。このときのクラスメート全員と、PSJの教え子有志たちが集結し、「ファッショナブルふくしま」と題されたショーが実現したのだった。福島の多くの企業が賛同、市長がランウエイでモデルとなって登場するなど、日本中の話題をさらった。

その様子は次回の投稿にて、詳細に記録しておきたいとおもう。

とにかく3,11を迎えるたびに今一度、なぜこの職業を立ち上げたのか、なぜファッションレスキューが立っていられるのかについて、毎年本気で初心に戻り、関わった多くの人に感謝の意を示したいと思っています。

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◆以下 FBの2016年3,11に投稿した文章を転載しておきます。忘れないために。少しづつ記憶が曖昧になっていくことを避けるために。


しんどかった、震災。

お客様が途絶えた会社はわかりやすく潰れかかった。あれから5年。

私を本気で前に向かせてくれたのは
東北で暮らす 震災にあった顧客様達の思いだった。

『 政近さん 今こそ立ち上がって。私たちは本当は服や髪型を
すっきりさせて 小奇麗にしたいの、それを言う事さえ悪いことの
ような空気になっている。被災地では やっと着れるような
着古した服じゃなくて、新しい服の寄付をみんな待っているし
若い子達なんか 特にみんなそうなんです。心が死んで、服装まで
惨めになりたくない。』

あの日私は テレビ収録が始まるという直前
ジェットコースターのように上下する車の中にいた。
ツイッターで 帰宅できない人たちを原宿の
サロンに受け入れようと 直後からツイートし、動いていた。
無力な自分にできること、思いつくことはそれくらいだった。

あの瞬間から 世の中はファッションのコトなんかと 
心をふさいだようだった
生きていられるだけで有りがたい、電気も消そう、命さえあれば
なんだってできる、と皆がおもった

しかし 現実は厳しいものである。
お客様が途絶えた会社はわかりやすく潰れかかった。

3か月間 誰ひとり新規のお客様は来ない。
キャンセル続出。

誰もが 装うコトになんか、抵抗があった。
百貨店から電気が消えた。販売員さん以外、誰もいない薄暗い店内。
表参道のシャッターは閉まりっ放し ファッションの街が
死んだ。
お洒落という世界に拒否感が走った

知り合いのアパレル会社や路面店を持つ服屋は
どんどん潰れて行った
服屋しか見たことなかった店舗にコンビニが入る

ファッションレスキューも閑古鳥が鳴いた
今までのお客様方が支えてくれたが
みな 心がファッションにむかなかった。
生きるために はじめてレスキューサービスの価格
ディスカウントまで試みた。苦悩の選択だった。

ブログでは こんな時にファッションかと ののしられた
即廃業しろとまで言われた

そんなとき あたしを救ったのは
東北で暮らす 震災にあった顧客様達だった

『政近さん 今こそ立ち上がって。心が死んで、服装まで
惨めになりたくない。今だから、
気分を変えて一歩を踏み出したいのよ』

必死で伝えて下さった 北の顧客たち。私は着古した服じゃなく
新しい美しい服や靴を現地へ送った。

この方は、その後 乳癌で亡くなった。
亡くなる前、あいにきてくださった。
『人はね 震災にあっても、病気になっても綺麗にしていたいのよ』

彼らのお蔭で いまがある。

その一言が ふさぎ込んでいる場合ではないと
未来を見据える覚悟をしたのだ。

当時いた原宿から 出来たばかりの新しい駅 北参道へ
震災の痛手に小さくなるのではなく 打って出た。

隠れ家のように格好つけて選んだ物件を捨て
明治通りに出て行った。

「どんな時も 服装は生きていく力にもなる。
装う事は生きること」なのだから。そのことをより、実感した5年間だった。

そのころ私は、よく白いシャツを着ていた。心を清潔に保ちたかったからだと思う。




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