見出し画像

初午

 2月は猫の月。じゃあ馬の月ってあるのかな?と数日前にインターネットで検索してみたら、馬の月はわからないけれど、初午の日というものがあった。しかも今年は2月10日、もうすぐ。おいなりさんを食べる習慣がある、とある。おいなりさんにかこつけて、お寿司を食べに行こうということになった。
 立ち食いカウンターのガラスの向こうに、寿司ネタがずらりと並んでいる。私の席の前には「鯨のさえずり」と書かれたカードと、魚のようなお肉のようなぽってりしたネタが、うたた寝しながらテレビを見るともなく見ているようにこちらを見ている。さえずりという名前から喉のあたりの肉かと思ったら、鯨の舌だという。
「牛でいうタンですね。哺乳類なので、独特の味がします。塩漬けにして寝かせて、時間をかけて仕込みます。好みはありますが、珍しいですし」
 目鼻立ちのきりりとした寿司職人さんにお尋ねして、握りではなく、つまみで出してもらうことにした。なるほど、独特の味。嫌いではない。おろした生姜をたっぷりのせて、よーく噛む。口ごと鯨の舌になる。ソウル酒(四季の松島)で流し込む。ちまちまと時間をかけてつまむうち、鯨と少し親しくなった気になる。
 もう何年も前に仕事で秋田へ行った帰り、新幹線には乗らずに遠回りしてどこかの駅で降りて、駅前の食堂で一人で晩酌したことがあった。他に客は一人。祖父が冬に農作業をするときにしていたような格好で、瓶ビールをあけている年配の男性。注文するとき以外は言葉を発することなく、それでもお互いの存在をなんとなく感じてはいる、そのくらいの空気の密度がちょうどよかった。テレビだけが誰かに何かを話し続けている。適度な雑音の心地よさが、一人のときにはありがたい。鯨汁と瓶ビールを頼み、ちびりちびりと飲んで、また電車に乗って帰った。車窓は真っ暗。私のお腹の中にいる鯨のお腹の中を走るよう。
 夜遅く家に着き、そのまま布団に入って数日寝込んでしまった。このころから「御命頂戴感」の強い食べ物を食べると、調子がくるうようになった。心臓から上が奇妙に温かい。目の奥がちりちりと熱く暗く重い。頂戴した御命を消化できず、私の体では使い切れない種類の力を持て余していたのかもしれない。数日して御命は去り、奇妙な感触も薄まった。鯨汁に浮かんでいた細切れの肉にも、大きな大きな鯨を生かしていた熱量、私のように代謝のよくない人間では対処のしきれない熱量が凝縮されていたのだろうか。
 そして今日、また「御命頂戴感」にあてられてしまったようで、命の水(ポカリスエット)やプリンなど、お手軽養生食で中和しながらどうにかこうにか机に向かって仕事をしている。風邪をひいて熱を出すときとは異なる、目と鼻の間にぼわんとした熱の塊がとどまっている。胸のあたりにも。両方の目尻の上と耳の後ろには、小さな湯たんぽがはさまっているような温かい重みを感じる。今夜は草を食んでお湯に浸かって中和と放散に努めよう、と家人と話す。
 海からそう遠くもない街に暮らしていても、生まれも育ちも山の人間、山の子どもには、鯨の一部を自分の体にとどめておくことは、なかなか難しいようだ。それでもきっとまた何年後かには、興味が勝ってうっかり食べて、ぼうっとした頭で同じことを考えたりするのだろう。
 馬を祝福するはずが鯨に宿られ、おかしな2月。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?