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『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』

2021年6月17日(木)

渋谷・Bunakmura ル・シネマで、『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』。

アレサ・フランクリン、29歳。意外にもというかなんというか、堂々とそこにいて余裕で場を仕切る…というような感じではなく、特に1日目なんてめちゃめちゃ緊張してるのがビンビン伝わってくるし、MCとかもしないし、笑顔も見せない。歌うことで精いっぱいといった感じだ。で、1曲歌い終わるとなんとも言えない表情(言葉にするなら「ふぅー、なんとか歌えたー。さあ次の曲いかなくちゃ。ふぅー」みたいな感じか)で精神統一して、どうにか気持ちを整えて次の曲にいく。ディーバという言葉はこのひとのためにある……といったふうにアレサを捉えていた自分としては、この教会でのそうした余裕のなさや、晴れ晴れとしない表情(どこか怯えてすらいるような)がむしろ新鮮だったし、驚きでもあった。

いや、それはあくまでも歌ってない時間……入場して座るまでとか、1曲歌い終わって次の曲を始めるまでの数秒のことであって、歌い始めればそれはもう圧倒的なのだが。

つまりどういうことかというと、余裕が見えてこないほどに1曲1曲に魂注入しているってことなんですね。だから1曲歌い終わると、笑顔見せてサービスする余力なんてものはなく、どっちかというと放心したような表情がカメラに捉えられたりもする。この時点のアレサは、そういう意味で、エンターテイナーというよりもやっぱりあくまでもシンガーだったのだなぁと思った。

それで僕は、こうして歌っているとき彼女はどんなことを考えていたのだろう、とか考えてしまった。わからないけど、「あぁ、歌って楽しいなー」みたいなことではないだろう。そういう表情ではない。じゃあなんだろうと考えると、ここまで生きてきた上でいろんな葛藤があって、神様と心で向き合って、神様にその思いを伝えんとしているってことなんじゃないか。つまり信仰。その気持ちがそのまま歌になっている、みたいな。

だから、歌を聴いてて「すごいなぁ、圧倒されるなぁ」というのはあったけど、彼女への共感が感動に繋がる、というのではなかった。そこで聴いてるひとたちの、思わず立ち上がったり、トランス状態に陥ったり、卒倒しそうになったりしている様子を見ていると、それくらいの熱唱であり、そのくらいの昂揚感・恍惚感を含んだ歌であることがよくわかるのだが、それは自分にとって、彼女の人生への共感とはわけが違う。ただこう、うわぁすっごいなと感心するというか驚かされるというかびびるというか、そういう感じだった。

映画としては、カメラが揺れて、捉えなきゃいけない大事なところを捉えきれてなかったりもして、現代の音楽ドキュメンタリーに比べると甚だしく技術不足で、シドニー・ポラックなにやってんの? とか思ったりもするんだが、しかしその洗練されてなさがむしろ生々しくて、結果的にそれがよかったりもする。ただ、コーネル・デュプリーさんやチャック・レイニーさんやバーナード・パーディーさんら凄腕ミュージシャンたちももう少し映してくださいよ、とはやっぱり思ったけれども。

アレサ・フランクリンのフルのショーを結局僕は一度も観ることができなかった。でも一度だけ、それが何年だったか忘れたが、L.A.にグラミー賞の取材をしに行って、そこで数分のみ会場でナマで観ることができた(何を歌ったか覚えてないんだが、確か数曲のメドレーだった気がする)。それもまたなかなかに貴重な経験だったんだなと、映画を観て改めて思ったりも(でもやっぱフルのショーを一度は体感してみたかった)。

あ、ミック・ジャガーは「見る側」であっても、やっぱりチョーかっこいいね。曲に合わせて軽く揺れるだけでも華がある。「見る側」なのに。

追記。

昨日(17日)映画を観て、夜、上の感想をFBに書いた。すると、音楽評論家の大先輩、吉岡正晴さんからコメントがついた。吉岡さんは2019年にこのライブ映像をご覧になられていて、やはりアレサの緊張している様に驚かれたという。ブログにこう書かれていた。

「このときアレサは29歳。実に若い。そして何より驚いたのが、アレサがとても緊張しているように見えたことだ。アレサの最近のライヴ映像では、常に堂々としていて「クイーン・オブ・ソウル」をそのまま絵にかいたような存在感を見せるが、まだ29歳の彼女は多くのヒット曲はありつつも、今のようなふてぶてしいほどの存在感はなく、懸命に歌っている姿が印象に残る。2日目には、父親のCLフランクリン、ゴスペル界の大御所クララ・ワードなども参列し、さらに彼女をナーヴァスにさせたかもしれない。」

吉岡さんの上のnoteの記事「ライヴ映画『アメイジング・グレイス』はなぜ彼女にとってキャリア最大のターニング・ポイントになったか」を読み、そこで紹介されている「ナショナル・ジェオグラフィック」の『ジーニアス:アリーサ』を僕はまだ見てないが、それでもどうしてアレサがあれほど緊張していたのか、その理由がだいたいわかった気がした。吉岡さんのその記事によれば、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーとのそれ以前の衝突と氏による提案、アレサの父親に対する複雑な思い~確執、シドニー・ポラックが撮影することになった経緯や撮影隊とのゴタゴタから、アレサはあのようにナーバスになったようだ。なるほどなるほど、かなり納得。

そしてそういう彼女のあれこれの複雑な思いとかやりにくさ、撮影隊の段取りの悪さもまた、映像に記録されてしまっている。その視点から見ると、また違う意味で興味深い(面白い)ドキュメンタリーになってもいる。

自分なりにこの映画の面白さを改めて端的にまとめるなら、「あのアレサがこんなにも緊張してる」という驚きと、「なのに歌いだすとこんなにも圧倒的」「それ、さまざまな葛藤を神に伝えて祈って全て歌に託したからこそのもの」という爆発力。と、そうなる。

29歳の彼女は気分よくあの2日間を迎えたわけではなく、さまざまな葛藤がかなりあった。いつもとの「場」の違いと「(撮影されているという)条件」が重なり、勝手がまるで違っていた。しかも2日目は確執もあった父親も観に来てた。撮影クルーはといえば自分のパフォーマンスに理解のあるひとたちではなく、バタバタ動いていた。しかしそういう悪条件とこれまで抱えてきた複雑な思いを、アレサは神に捧げたり問いかけたりする歌をうたうことでエネルギーに変えていったのだ。それができたことがすごいのだし、それこそがこのドキュメンタリーの肝だと思う。

僕はアレサの緊張の理由を知らずにこの映画を観たわけだが、知って観ていたらまた違うポイントでグッときてただろう。知って観るのと知らずに観るのとではだいぶ印象が変わる作品、だというふうにもいま思う。

スポーツ選手とかでもそうだが、必ずしも全てが整備された最良の環境から100%のパフォーマンスが生まれるわけではない。むしろパフォーマーにとっての悪しき環境、悪しき精神状態から、かえってとてつもない力が発揮されることもある。そのような記録のひとつとして、この映画は面白かったし、いま観る価値のあるものだと思った。

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