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追悼/ 小坂忠 interview: 「夢を持つことって素晴らしいことだなと思うんです。やっぱり夢をもってないと。それはずっと思ってますね」(2016年10月)

小坂忠さんが4月29日にご自宅で亡くなられた。享年73歳。

真の意味でのソウルシンガーであり、牧師さん。そんな小坂さんに初めてお会いしてインタビューすることができたのは、2016年10月28日のこと。初のカヴァー・アルバム『Chu Kosaka Covers』をリリースし、デビュー50周年を記念しての公演『小坂忠 Debut 50th Anniversary ~Let the GOOD TIME's ROLL~』を終えた翌月だった。節目の年のインタビューだったこともあり、その長い音楽キャリアを振り返って約2時間いろいろ話してくださった。

掲載したのは「musicshelf」という音楽情報ウェブサイト。2018年に閉鎖したため今はもうアクセスできないのだが、昨日久しぶりに元の原稿を読み返してみて、貴重かつ重要な話をたくさんされているなと改めて感じたので、ここに再掲載させていただくことにした。小坂さんの音楽と人柄をずっと好きでい続けたひとだけでなく、若いひとにも読んでもらえたらいいなと思う。

小坂さんはお優しく、あたたかな笑顔が印象的だった。このとき初めてお会いしたのに手品をしてみせてくれたりもした(1回目はうまく決まらず、照れくさそうに笑って再挑戦してた)。それから数年後、佐藤タイジさんとの対談でお会いしたときには、終わって一緒に記念写真を撮らせていただいた際に、後ろから手を回して僕のお尻のあたりをコチョコチョとくすぐった。そういうお茶目なところもステキだった。

好きな歌はたくさんあるけど、ライブで聴くたびに胸に迫ってきたのはやっぱり「機関車」かな。

音楽もお人柄も大好きでした。

ご冥福をお祈りいたします。

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<musicshelf> 2016年11月掲載

小坂忠、デビュー50周年 ロングインタビュー

去年(2015年)の『風街レジェンド2015』と『ALFA MUSIC LIVE』でも多数の出演者の中において、その深みある歌声でとりわけ際立った存在感を残した小坂忠。ザ・フローラルのヴォーカリストとしてデビューしてから今年で50周年を迎え、9月には鈴木茂、吉田美奈子、矢野顕子、細野晴臣、中納良恵、金子マリ、曽我部恵一、尾崎亜美、Asiah、松たか子、佐野元春ら大勢のゲストを迎えて、記念公演を行なったところだ。また「自分の50年を支えてくれた名曲を選んで歌った」カヴァー・アルバム『CHU KOSAKA COVERS』も同日にリリース。しなやかにして強靭な歌声そのもので表現を続ける氏の「これまで」と「いま」を聞いた。

インタビュー・文/内本順一

「ひとつの時代を一緒に過ごしてきた仲間たちだからね。いいですよ、そういう仲間がいるというのは」

――先頃のデビュー50周年記念公演(『小坂忠 Debut 50th Anniversary ~Let the GOOD TIME's ROLL~』@渋谷区文化総合センター大和田さくらホール)、素晴らしかったですね。ゲストも豪華で、とても贅沢な時間を味わいました。
 
「あんなのはもうできないですね。疲れきって、帰ったらバタンキューでした(笑)。だってあの日はほぼワンステージ丸々リハを通しでやって、それから本番まで40分しかなくて。だから、ぶっ続けで2ステージやったような感じ」
 
――20数曲歌われましたから、合わせて40曲以上歌ったことになるわけですね。
 
「うん。でも、やってよかった。幸福感でいっぱいでした。みんなに支えられてできた感じですね」
 
――素晴らしいなと思ったのは、小坂さんがこれまで歩いてきた道がそこに見えたのと同時に、現在の小坂さんの表現がどういうものかがダイレクトに伝わってきたところで。
 
「やっぱり過去ばっかりじゃなくて、フューチャーが大事だからね」
 
――コンサートは2部構成になってましたが、1部には『ほうろう』の小坂さんと切り離せないゲストの方々が出演され、そのアルバムの名曲を続けて演奏されました。鈴木茂さん、吉田美奈子さん、細野晴臣さん……。
 
「あれはだから、『ファースト&ラスト・コンサート』(*1975年4月から7月にかけて行われた全国ツアー。『ほうろう』のレコーディングメンバーである細野晴臣、鈴木茂、林立夫、浜口茂外也、吉田美奈子に、佐藤博、ジョン山崎が加わった豪華メンバーで、ソウルレビュー風のショーを展開した。初めて全国のコンサートプロモーターが連携してツアーを組む試みがなされた、当時としては画期的なものだった)の再現みたいな感じでね」
 
――『ファースト&ラスト・コンサート』のことはけっこう覚えてますか?
 
「覚えてますねぇ。ちょうど僕の『ほうろう』と(鈴木)茂の『BAND WAGON』が同時期に出たので、一緒にツアーしたんですよ。40カ所くらいやったかな。なかでも印象に残ってるのは北海道の歌登(うたのぼり)という小さな町でやったコンサート。そこの青年会の会長みたいな人から「北海道に来るんだったら歌登にも来てくれないか」って電話があったの。それで行ったんだけど、まず歌登って地名がいいじゃない?  歌が登るっていう」
 
――ヒットチャートを登っていきそうな感じがしますもんね(笑)
 
「でしょ(笑)。だからアルバムのプロモーションには最高だよねってことで。でも当時、町民が3000人くらいで、まだ人間よりも牛とか馬のほうが多かったようなところでね。コンサートをやったのは、町民センターっていう、冠婚葬祭全部をやるようなところ。初めてでしたよ、スリッパ履いてステージに上ったのは。土足厳禁だから。でも絞りたての牛乳を出してくれてね(笑)」
 
――はははは。このコンサートツアー自体、いろんな意味で画期的なものだったそうですね。
 
「だってまだその頃は誰も全国ツアーなんてできなかったんですよ。地方にもイベンターがいるけど、ネットワークがまだできてなかった。このツアーによって初めてそのネットワークができたんですから」
 
――だけど小坂さんは、このツアーが苦痛だったとか。
 
「そりゃあ40本もやるとね。消耗も激しいし、人間関係的にもだんだんとこう……。だってまだ東北新幹線もなかった時代ですからね。夜行でどっかまで行って乗り換えて。しかもバンドだけで20人近くいるわけですから」
 
――和気あいあいなんて雰囲気ではなかった。
 
「うん。あの頃はフュージョンとかが出てきて、そのツアー中、ミュージシャンたちはみんなそういうのを聴いてたわけですよ。みんなどんどんそっちに傾倒していく。僕はといえば、ようやく『ほうろう』で自分の歌というものを見つけられたって感じだったから。そういうところでちょっと孤独を感じちゃってね」
 
――なるほど。でもそこから41年経って、また林立夫さん、鈴木茂さん、細野さん、美奈子さんら同じメンバーとステージに立つというのは、なかなかすごいことですよね。
 
「やっぱり、ひとつの時代を一緒に過ごしてきた仲間たちだからね。久しぶりでも、会うと時間の流れを超えたところですぐに話せるから。いいですよ、そういう仲間がいるというのは」
 
――矢野顕子さんとは久しぶりだったんじゃないですか?
 
「相当久しぶりでした。アッコちゃんとは当時もツアーを一緒にしたわけではなく、レコーディングしかやってなかったから」
 
――『ほうろう』の「つるべ糸」が矢野顕子さんの作詞作曲によるもので(*当時は鈴木晶子)、この前のコンサートではその矢野さんと一緒に歌われるという、かなりレアな場面がありました。
 
「あれは貴重ですよ。緊張しましたけどね」
 
――矢野さんの歌い方には独特のグルーヴがありますからね。
 
「そうなんですよ」
 
――それから、なんといっても細野さん。小坂さんと細野さんの関係は本当に特別なものなんだなと、観ていて改めて感じました。
 
「僕の音楽活動の節目節目に必ず細野くんがいるんですよ。本当に大事な存在」
 
――細野さんのほうがひとつ上なんですよね。
 
「そう、僕が1948年の7月8日生まれで、細野くんが1947年の7月9日。1年違うんです。だから僕の誕生日が来ると、その1日だけはタメになる。その24時間だけ「細野」って呼んでます(笑)」

「『ありがとう』を出したとき、アコースティック・ギターがメインになっているサウンドだからということでフォーク扱いされたんですけど、それが僕としては全然納得いかなかった」


――初めて細野さんと会ったのは……。
 
「ザ・フローラル(1966年に結成されたバンドで、ヴォーカルの小坂忠はこれでプロとしての第一歩を踏み出した。68年には武道館で行われたザ・モンキーズの前座とバックを務めた)を解散して、メンバー探しをしていたなかで会いました」
 
――パーティーで会ったそうですね。そのとき松本隆さんも一緒だったとか。みなさん長髪だったんですかね。
 
「僕は長髪だったけど、細野くんと松本くんはまだ長髪じゃなかった。細野くんはアイビーでしたから。マンボズボン穿いてた(笑)。松本くんは松本くんでまた独特でしたね」
 
――西麻布のバーでは、小坂さんが5万円の入った給料袋をかざして細野さんをメンバーに誘ったそうじゃないですか。
 
「ちょうど細野くんが大学4年で卒業を控えているときで。友達みんな就職が決まってたのに、彼は就職活動をしてなかったから、先が何も決まってなかったんです。そのときに僕が給料袋をかざして誘って。あの時代の5万円といったらなかなかのものですよ」
 
――細野さんはとびついたわけですか?
 
「そうですよ。エサがよかった(笑)。で、松本くんも一緒にやることになって。松本くんのお母さんは、細野くんに「変な道に誘わないで」って言ったらしいよ」
 
――はははは。で、そうして始まったのがエイプリル・フールでしたが、短命に終わりました(*小坂を含むザ・フローラルの3人に、細野、松本を加えて、1969年3月に結成。しかし同年10月のアルバム・リリースとほぼ同時に解散)。
 
「当時の仕事ってハードだったんですよ。ディスコのハコで45分のステージを1日に4~5回やったりするんです。しかも毎日ね。そうすると、どうしても煮詰まっちゃうんですよ。ディスコですから、お客さんからは「こんな曲じゃ踊れねーよ」とか言われるし。当時、新宿にパニックというディスコがあって、そこで演奏してから細野くんと一緒に松本くんの家に行って、朝までレコード聴きながら話をして。そんなことをしてましたね」
 
――その頃よく聴いてたのは……。
 
「バッファロー・スプリングフィールドとかモビー・グレープとか。それで新しいバンドの構想を話したりとかしてて」
 
――そこから、はっぴいえんどが誕生したわけですが、小坂さんは参加しませんでした。
 
「一緒にやる流れはあったんですよ。だけど僕が『ヘアー』というミュージカルのオーディションがあるって聞いて受けに行っちゃったんです。でもそのとき細野くん、バックやってたんだよ(笑)」
 
――本来は、なんで受けに行くんだ?って怒らなきゃいけない立場なのに(笑)
 
「そう。あの時代ってすごく面白くて、演劇の世界も映像の世界も実験的で新しいものがどんどん生まれていったんだ。ファッションや広告の世界もね。そういうエネルギーに僕はすごく魅力を感じていた。それで渋谷にあった東京キッドブラザースの常設小屋によく出入りするようになって、彼らが『ヘアー』のオーディションを受けると言うから、僕も一緒に行くことにしたんです」
 
――そっちのカルチャーのなかにどんどん引き込まれていった。
 
「まさに引き込まれていく感じでしたね。だけど、『ヘアー』がいろいろな問題(大麻所持による逮捕者が出た)で途中で終わっちゃって。先のことなんて考えてなかったから、どうしようかと思ってね。で、日比谷の野音とかで数カ月に1回くらい弾き語りをやったりしてたんだけど。そしたら(『ヘアー』のプロデューサーでもあった)川添(象郎)さんとかミッキー・カーチスさんとかが一緒に新しいレーベルを作るから、そこでやらないかって話をもらって」
 
――マッシュルーム・レーベルですね。
 
「うん。まだそのときは自分でそんなに曲を作ってなかったんだけど、いいきっかけになるかなと思ってやるようになって」
 
――そこで初めに出したのがソロとしての1stアルバム『ありがとう』(1971年)。和製ジェイム・テイラーというような評価をされたわけですが、そういうフォーク的なものが自分のスタイルだというふうには……。
 
「思ってなかったですね。『ありがとう』を出したとき、アコースティック・ギターがメインになっているサウンドだからということでフォーク扱いされたんですけど、それが僕としては全然納得いかなかった。オレがやってるのはフォークじゃないんだけど、って気持ちがあってね」
 
――もっとモダンなものをやっている意識だった。
 
「うん。だって、ジェイムス・テイラーだってフォークって感じではないじゃないですか。あの人もオリジナル・フライング・マシーンってバンドをやってて、それからソロを出したでしょ。彼もフォークシンガーという意識でやってたとは、僕は思えない。日本は特に、アコースティック・ギターを使えばみんなフォークと呼ばれる傾向が強かったけど、それが僕はすごく嫌だったんですよ。そしたら当時のニューミュージック・マガジンのフォークのランクで僕のアルバムが2位になってて。“日本のフォークねぇ……”って、そういう感じでした」
 
――そうした複雑な思いもあってアコースティックでもグルーヴのあるソウルをやれるんだという気持ちにもなり、それを爆発させたのが75年の『ほうろう』だったということですかね。
 
「そういうことです。だってバンドをやってたときは、ザ・フローラルにしてもエイプリル・フールにしても、普段の活動はコピーばっかりなわけですよ。ドアーズなんかをコピーして、自分がジム・モリスンになった気持ちで歌ってた。ところが『ありがとう』を出したらフォークとか言われたりして、自分で自分の歌のスタイルがわからなくなっちゃった。だから、そこから『ほうろう』までは自分の歌のスタイルを見つける旅をしてるような感覚があったんです。オレのスタイルってなんだろ?って」
 
――それが『ほうろう』で見つかった。
 
「ようやく、これかなと。それを引き出してくれたのも細野くんなんですよね」
 
――『ほうろう』は初めから明確なイメージがあって作っていったんですか? それとも、ある意味では偶然の産物的なところもあったんですか?
 
「あの時代だからできたんだろうと思います。だってティン・パン・アレーにしてもみんなまだ20代前半ですからね。当時の音楽制作は、日本だとほとんどスタジオミュージシャンを雇ってなされていた。そういうなかに彼らのような若いミュージシャンがどんどん入り込んでいったことで新しい風が吹いたわけですよ。僕たちがあの頃好きだったのが、マッスルショールズ。あそこのスタジオで作られていく音楽が好きで、ティンパンにしてもああいう音楽集団を目指していたと思うんです。で、僕は僕で自分の歌のスタイルを探しながらやっていて。その両方が『ほうろう』で合わさったというか」
 
――なるほど。作りながら、これは傑作になるという予感のようなものはあったんですか?
 
「いや、そんなこと考えてもみなかった。でもけっこう制作時間はかかってますね。この頃はよかったんですよ。1枚作るのに時間がかけられたからね。(鈴木)茂なんてギターの1フレーズ録るのに1日かけるんだから(笑)」
 
――こだわりが凄かった。
 
「みんなそうだったね。茂は特にこだわりが強かった。でもできあがったフレーズを聴くと、やっぱりすごく印象的でね。“これしかない”っていうものになってるんですよ」
 
――いまの小坂さんにとって、『ほうろう』というアルバムはどういった位置づけなんですかね。
 
「ひとつの区切りですね。その前とそれからの、ハッキリした区切り。自分にとって大事なのは、やっぱり何より歌なんですよ。その歌のスタイルを見つけることがひとつの目標だったから」
 
――でも『ほうろう』でそれを見つけて、それで満足したわけではなく、またしばらく葛藤する日々が続いたそうですが。
 
「うん。思うにティンパンの連中はサウンドクリエーターなんですよね。で、僕もあるときまでは同じように考えていた。だけどあるとき、わかったんだよね。サウンドクリエーターは自分の道じゃないなって。やっぱり僕はシンガーなんだと思ったわけ。だからもっと歌を大事にしてやっていこうとハッキリ思うようになって。それでクリスチャンになったんです。76年のことですね」

「昔は僕、こんなに喋れる人間じゃなかったんですよ。なんでかっていうと、言葉にする前に自分のなかで自問自答が始まっちゃうわけ。それが大きく変わったのは、クリスチャンになってからなんです」

――77年には『モーニング』という名盤を出されてますが、クリスチャンになってからは当然音楽活動もゴスペルのほうに集中していきます。「自分ってなんだろう、自分の歌ってなんだろう」と探し求める気持ちの、そのひとつの答えがゴスペルにあったわけですか?
 
「そうですね。気づけなかったことに気づけたというか。あのね、昔は僕、こんなに喋れる人間じゃなかったんですよ。なんでかっていうと、言葉にする前に自分のなかで自問自答が始まっちゃうわけ。言葉にして出す前に自分のなかで完結しちゃうから、外に言葉が出ていかない。けっこう苦労したんですよ。対面恐怖症というのか、ひととの会話がうまくいかなくなっちゃって。それが大きく変わったのは、クリスチャンになってからなんです。ひとにどう見られてもよくなった。そしたら素直に思ったことを言えるようになったの」
 
―― 一言で言うなら、素直になったと。
 
「そう、素直になったの。いま、すごい素直でしょ?」
 
――はい(笑)
 
「自分を縛るものがなくなったんだよね。あと、昔の僕はひとを楽しませようとか、そういうサービス精神がほとんどなかった。好きなひとだけ聴いてくれればいいというような感じだった。いまは全然違う。いまは、せっかく来てくれたんだから、楽しんでもらえるといいなぁって。そういう気持ちで歌ってますから。これは大きな変化ですよ」
 
――ゴスペルに集中しての活動は結局何年くらいされてたんですか?
 
「クリスチャンになってから25年間。その間はほとんどそれだけでしたから。それまでいた世界からは完全に離れて暮らしていて。だから久しぶりにスタジオに行ったときは、浦島太郎状態。だって全部デジタルになってるんだから」
 
――ライブハウスとかでまた歌われるようになったのは、何年頃でした?
 
「2000年くらいですね。ティンパンの再結成がその頃にあって(2000年に細野、鈴木、林で、Tin Panとして一時的な再結成がなされた)、細野くんのところに遊びに行ったんですよ。ちょうどそのとき彼らがレコーディングをしてて、「ちょっとコーラスやってかない?」と。それがきっかけだったんです」
 
――流れを変えるのは、ここでもやっぱり細野さんなんですね。
 
「そう。それでNHKの細野くんの番組で歌うことになったり、ティンパンのツアーのゲストシンガーとして一緒に回ったり。そうやって外で歌う機会が少しずつ増えてね」
 
――それは小坂さんにとって楽しいことだったわけですよね。
 
「やっぱり楽しかったんですよ。25年のブランクを超えて、もとと同じように音楽でコミュニケーションがとれるようになって」
 
――またレコードを作りたいというような気持ちにもなっていった。
 
「そう。だからすぐそのあとで、細野くんのプロデュースで作ることになって。それがエピックから出した『PEOPLE』(2001年)というアルバム。このレコーディングが楽しかったんですよ。僕はすごくこのレコードを気に入っててね。そのときに新宿の厚生年金会館でコンサートもやって。そういう感じでライブ活動を再スタートすることになったんです。それからしばらくして、今度は『Conncted』(2009年)というアルバムを佐橋(佳幸)くんのプロデュースで作って出して。これがまた楽しくてね」
 
――そのあたりから僕も(下北沢の)風知空知で小坂さんのライブを観たり、『勝手にウッドストック』で観たりしてて。去年はといえば、『風街レジェンド2015』(松本隆の作詞活動45周年を記念したライブイベント)と『ALFA MUSIC LIVE』(アルファミュージックの軌跡を辿るライブイベント)の両方に出演されてましたよね。あれだけ大勢の出演者がいたなかで、どちらも小坂さんの歌の存在感が圧倒的に際立ってました。
 
「ありがとうございます」
 
――僕なんかが言うのもおこがましいですけど、松本隆さんしかり、(アルファミュージック創始者の)村井邦彦さんしかり、ひとまわりしてもう一回ここからだというような思いがあり、ああいうイベントをやられたんだと思うんですよ。で、先頃の小坂さんの50周年記念公演もきっとそういう思いがあってやられたんだろうな、と。
 
「そうですね。50周年という区切りがなかったら実現できなかったと思うしね。いま、まだ歌えてるから実現できたっていうのもあるし」
 
――「歌えてる」どころか、小坂さんはいまの歌が最高なんじゃないかと、去年のふたつのイベントでも、この前のライブでも、そう思いましたよ。
 
「それは僕もそう思うんですよ。いまの自分の歌が一番好きですね」
 
――そういえば50周年記念ライブでは、小坂さんがこう話されていたのがとても印象的でした。「夢を持つことって素晴らしいことだなと思うんです。歌い続けて、いろんな夢を見てきましたが、夢のひとつが今日実現しました」と。
 
「やっぱり夢をもってないと。それはずっと思ってますね。ビジョンを持って生きてないと、どこに向かっていったらいいのかわからないじゃないですか。夢とかビジョンを持っていると、自然にそっちのほうに向かっていけると僕は思うんです」

「僕が音楽を始めた18の頃は、60代のひとと一緒に音楽ができるなんて想像できなかった。でもいまはできるんですよ。なぜなら音楽は共通言語だから」


 ――さて、ここから新作『CHU KOSAKA COVERS』についての話を伺いますね。今回、プロデュースをされたのは小原礼さんです。
 
「昔から知ってるけど、こんなに一緒にやるようになったのはここ数年でね。実は『ありがとう』ってアルバムを(1971年に)出して、ライブ活動をするためのバンドとして作ったのがフォージョーハーフで、最終的なメンバーは林、後藤次利、マンタ(松任谷正隆)、駒沢(裕城)だったんだけど、それまでに何人かのミュージシャンをオーディションしてたの。最初は(高橋)ユキヒロと小原がいたんだけど、ふたりをクビにして。だから未だに言われますよ。「僕は忠さんにクビにされたからなぁ」って。でも小原は「クビにされてよかった」って言ってた。「あの頃は音楽に対する考え方が甘かった」って」
 
――小坂さんは厳しかったわけですか?
 
「厳しかったの(笑)。僕はだから、真面目なんですよ、基本的には」
 
――今回は主に60年代のR&Bの名曲を中心にとりあげたカヴァー・アルバムですが、なぜこのタイミングでカヴァー集をやろうと?
 
「50周年ということで何かを残したい気持ちにはなっていて。それともうひとつ、いまの僕を支えてくれてるバンドがこのレコーディングメンバーなんですよ(*ベースが小原礼、ギターが鈴木茂と佐橋佳幸、キーボードがDr.kyOn、ドラムが屋敷豪太、サックスが小林香織)。だから、このバンドの音を残したいと思って。だけどオリジナルを作るとなるとたいへんじゃないですか。何がたいへんって、みんなのスケジュールを合わせるのがたいへん。みんな忙しいからね。で、カヴァーをやろうと思ったのは、50周年を迎えたいまの僕の歌が、どういうもので成り立っているかを示したかったから。これまで食べてきたものが消化されて、いまの自分の血や肉になってるわけじゃないですか。じゃあ、どういうものを食べてきたのか。それを紹介するアルバムにしようと」
 
――選曲はご自身で?
 
「小原と話しながら選んでいきました」
 
――でも、影響受けた曲、好きな曲は恐らく山のようにあるでしょうから、何を取り上げるか迷われたのでは?
 
「そうなんですけど、基本的にはやっぱり好きな曲を歌おうってことでね。サム・クック、オーティス・レディング、レイ・チャールズ。みんな好きだし。あと、ビートルズはやっぱり僕らの世代はみんな通ってるしね。今回選んだのは、ほとんどが昔よくFENで聴いてた曲。“Amazing Grace”だけは僕がクリスチャンになってから出会った曲だけどね」
 
――アレンジは原曲に近いものと、けっこう変えてるものと、両方ありますね。
 
「そうですね。一番意識したのは、バンドサウンドってこと。このメンバーたちとの音を残したいという気持ちから始まってるからね。このバンドで始めて2~3年なんですけど、やってて本当に気持ちがいい」
 
――バンマスは……。
 
「kyOn。一番若いんだけど(笑)。いやぁ、kyOnはいいよぉ」
 
――みなさんそう言います。で、さっきおっしゃられたようにみなさんお忙しいから、レコーディングは時間をかけずに行なったんですか?
 
「2泊3日で集中して。早かったですよ。基本的に一発録りですからね。みんなが顔を合わせてできるスタジオだったからよかった。別々に演奏すると熱いノリが出ないでしょ。これはだから、すごく気持ちよくできたの」
 
――そういうものにしたかったってことですよね。
 
「そうそうそう。だからライブ感があるでしょ?  それが一番だと思って」
 
――オーティス、サム・クック、レイ・チャールズ……。やっぱりリズム&ブルーズからの影響が何より大きいわけですね。
 
「好きですね、やっぱり。でも僕らの世代はFENでは聴いてても、ナマで聴く機会はないわけですよ。で、赤坂にMUGENってディスコができて、そこで初めて黒人のミュージシャンをナマで観て、そのグルーヴ感を味わって。凄かったね、あれは。でも、黒人音楽だけじゃなくて、中学の頃はハンク(・ウィリアムス)とかも歌ってましたよ」
 
――中学でですか?
 
「うん。家の近くに大学生のお兄さんがいて、そのひとたちがカントリー・バンドをやっててね。僕はそこに出入りしてたの。そしたら「歌ってみるか?」と言われてね。2曲くらいレパートリーをもらったの」
 
――それが人前で歌うことの始まりだったりするんですか?
 
「そう。公に歌うのはね」


――ビートルズの「From Me To You」は、オーティスの歌うビートルズに近い感覚のアレンジですよね。
 
「そういうアレンジにしようってことで。アイディアは小原だね」
 
――アレンジといえば、「Amazing Grace」のアレンジには驚きましたよ。シカゴブルーズみたいなイントロを聴きながら、思わず曲名を見直しましたから。違う曲じゃないかと思って。
 
「あのイントロのガガ~ガガって部分は茂が弾き始めたの。ブルーズにしちゃおうって。で、よし、これでいこう!と」
 
――それから僕の一番のお気に入りは「Unfogettable」。大人の味わいがあって、うっとりします。
 
「ナット・キング・コールがもともと好きだったんですよ。最初に好きになったのはレイ・チャールズだったんだけど、それと同じくらいの時期にナット・キング・コールの「モナ・リサ」を聴いて感動して。声の深さがすごく好きでね。いいなぁと思ったんだけど、なかなか自分が歌う機会はなくて」
 
――若いとなかなか歌えないですよね。この曲を歌っていい年齢というのもあるでしょうし。
 
「でしょ? その年齢にようやくなったというかね。いまなら歌っても違和感ないだろうと思えたので」
 
――娘さんのエイジアさんとデュエットされてます。先日のライブでもおふたりで歌われてましたね。
 
「夢だったんですよ、娘と一緒に歌うのが。だから、嬉しかったですね」
 
――この先、カヴァー集の第2弾、第3弾と続けていくご予定は……。
 
「できるならやりたいですけどね。ほんとはもっと歌いたい曲がいっぱいあるから」
 
――今作に収録されているのは、一般的にも広く知られている有名曲ばかりじゃないですか。でも、もっとコアな曲で歌いたい曲がたくさんあるんじゃないかなと。
 
「うん。そういうのをやりたい気持ちはすごくあります」
 
――今回は最初なので、あえて有名な曲ばかりを取り上げたんですか?
 
「そういうわけでもないんですけどね。でも、共有できるひとが多いほうが、いいじゃない?」
 
――それもそうですね。じゃあ、やはり同年代のひとたちに聴いてもらいたいという思いが強いですか?
 
「まずは同年代のひとに聴いてもらいたいけど、こういう音楽を食べたらこういうふうになるよって知ってもらう意味では、若いひとたちにも聴いてほしいですね」
 
――そう思います。
 
「僕なんかは団塊の世代じゃないですか。『ヘアー』をやったときもそうだったけど、それまであったものを壊して、新しいものを作っていく。そういうことをやってきたのが団塊の世代だったと思うんですね。例えば僕らの世代のひとたちは、高校時代にビートルズを聴いて、フォークブームもあったからPPM(ピーター・ポール&マリー)も聴いてギターを弾くようになり……っていうふうに、それまでの世代とは全然違うわけ。そういう世代だからこそできることがまだあると僕は思ってるし。それと、この前のライブもそうだけど、いまは若いひとたちと一緒にやれるのがまた楽しくてね。僕が音楽を始めた18の頃は、60代のひとと一緒に音楽ができるなんて想像できなかった。でもいまはできるんですよ。なぜなら音楽は共通言語だから。その共通言語のなかにいるってことを若いひとたちにも知ってほしいんだよね」
 
――そうですね。因みに今後やってみたいこととかってありますか?
 
「この前のライブで4管を入れたでしょ。あれがやっぱりすごく気持ちよくて。だから今度はまたビッグバンドでライブをやりたいですね」

(2016年10月28日、都内のスタジオにて)

↓こちらは、2019年2月15日にビルボードライブ東京で行なわれた「小坂忠 with シアターブルック feat. 森俊之&真城めぐみ」公演に向けての、佐藤タイジさんとの対談。(掲載は2019年1月)


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