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追悼。ラッキー・ピーターソン


ギターとオルガンを自由に操り歌うブルーズマンのラッキー・ピーターソンが、5月17日に亡くなってしまった。出るアルバムを毎回必ず聴くほど熱心に動向を追っていたわけではなかったがしかし、ショックは大きい。

1964年12月13日、ニューヨーク州バッファローの生まれ。最近は病気で臥せっていたそうだが、危篤でテキサス州ダラスの病院に運ばれ、そのまま息を引き取ったという。まだ55歳だった。

僕は1963年2月生まれなので、ほぼ同世代。そのこともショックの理由のひとつとして、ある。それと、1995年の初来日時に、なんとかインタビューができないかと(当時)ポリドール社で宣伝をしていた友人に頼んでやらせてもらい、そのインタビューがとても楽しいものだったから、というのもある。なんというか、彼はすごく”いいやつ”で、僕は勝手に「気が合った」という感触をそのとき持ったのだ。

ラッキー・ピーターソン(本名: ジャッジ・キニース・ピーターソン/Judge Kenneth Peterson)の父親は、ブルーズギター奏者のジェイムズ・ピーターソン。市内で「The Governor's Inn」というロードハウスクラブを経営していて、そこで数々のレジェンド的なブルーズ・ミュージシャンが演奏していたので、ラッキー・ピーターソンは幼少のときから自然に音楽に親しんでいたそうだ。

デビューはなんと5歳。父ジェイムズの店に出演していたウィリー・ディクスンのプロデュースで「Our Future」という曲を録音している。歌もうたえる天才オルガン少年だったのだ。

下のは7歳のときのテレビ番組でのパフォーマンス映像。この頃、「エド・サリヴァン・ショー」「トゥナイト・ショー」といった番組に出て、J.B.の「プリーズ、プリーズ、プリーズ」のカヴァーなんかを歌ってたそうな。

10代になるとバッファロービジュアルアンドパフォーミングアーツアカデミー(市の舞台芸術高校)に通い、そこではフレンチホルンも演奏。17歳でリトル・ミルトンのバンドに鍵盤及びバックアップ・ギター奏者として参加した(83年4月のリトル・ミルトンの日本公演にも同行。さっき「1995年の初来日時」と書いたが、それはソロとしてであって、正しい意味での初来日は1983年ということになる)。またボビー・ブランドのバンドにも参加し、そうしたプレイヤーとしての活動をしながら、1984年に自己名義作『Ridin'』をリリース。アリゲーター・レコーズ(シカゴのインディ・ブルーズ・レーベル)からとなる1989年の『Lucky Strikes!』では初めてギターを弾いているジャケット含め“ギター弾きとしてのオレ”もアピールした。この『Lucky Strikes!』が本格的なソロ活動のスタート作になる。

アリゲーターからもう1枚、『Triple Play』↑というアルバムを1990年に出したあと、ヴァーヴ傘下のジタン(Gitanes)が始めたブルーズ・シリーズから『アイム・レディ』を1992年にリリース。これがラッキー・ピーターソンのメジャー・デビュー作で、当時のポリドールから日本盤も発売された。僕がラッキー・ピーターソンを知った(初めて聴いた)のは、このときだ。

続いて、1994年にジタンからの2作目(=メジャー2作目)となる『ビヨンド・クール』をリリース。ジミ・ヘンドリックスの④、スティーヴィー・ワンダーの⑨など自己解釈度高めのカヴァーにもしびれた。

このアルバムが出た1994年に、僕は南西フランスのアングレム市の音楽祭で初めてラッキー・ピーターソンのライブを観て、ぶっとばされたのだった。その音楽祭を観に行った主目的がなんだったのか、今は覚えてないのだが(ネーネーズのヨーロッパツアーを同行取材した際に観に行ったような気がするが、記憶が定かじゃない)、初めて観たラッキー・ピーターソンのライブに衝撃を受けたことは覚えている。所謂ブルーズのイメージを覆し、それはめちゃめちゃファンキーなライブだったからだ。

そしてその翌年の1995年に早くもジタンからの3作目『ライフタイム』をリリース。アース・ウインド&ファイアーの②、スティングの③、サム・クックの⑫といったカヴァーも含んだこの作品を携え、11月には初の日本ツアー(渋谷・名古屋・心斎橋のクアトロ。渋谷は2days)を行なった。

渋谷クラブクアトロでの2日間を観て、翌日、彼にインタビューをした。記事を掲載したのは、毎月レギュラーで音楽コラムを書いていた20代の独身女性を対象としたファッション誌「Vingtaine(ヴァンテーヌ)」(婦人画報社)。そういう雑誌にあえて一見不似合いそうなアーティストの記事を書いて紹介することを僕は楽しんでいたし、意義あることだとも思っていた。そのときの記事がこちら。

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僕は94年の春に、南西フランスはアングレム市の音楽祭で初めて彼のライヴを体験したのだが、ほとんどプリンスかジェイムス・ブラウンかといったファンキーでエキサイティングなステージに打ちのめされ、”ラッキー・ピーターソンはライヴが最高!” ”早く日本に呼ぼう”と、ことあるごとに業界関係者に言って回ったものだ。その思いがようやく叶ったのが昨年11月の渋谷・クラブクアトロ。彼のライヴの凄さがこれまでほとんど日本で紹介されていなかったからか。残念ながら満杯と呼べる入りではなかったが、それでも彼はギターを弾きながら客席を練り歩き、バーカウンターまで行って弾き、挙げ句に入口の扉を開けて外に出てまで弾き続けるという前代未聞のパフォーマンスで観客を大いに沸かせたのだった。

1994年に観た南西フランスの音楽祭でのライブと1995年に観た渋谷クラブクアトロのライブの印象を、そこでこう書いた。「ほとんどプリンスかジェイムス・ブラウンかといったファンキーでエキサイティングなステージに打ちのめされ」と書いていて、確かにそんな感じもあったのだが、いま思い返すとそれは例えばヴィンテージ・トラブルとかザ・たこさんのライブにより近い熱量を持ったものだった気がする。とにかくブルーズのアーティストのライブと聞いて多くのひとがイメージするそれとはだいぶかけ離れたものだったということだ。

インタビュー時間は40~50分あったと思うが、記事のなかで使えた彼のコメントは紙幅の関係上、たった2つだけ(まあ、ファッション誌における音楽記事はわりとそういうものなんだが)。しかし、先頃彼が亡くなり、文字起こししたノートを引っ張り出して読み返してみたら、これがなかなか面白かったし、いまとなってはかなり貴重なインタビュー(メジャー・デビュー初期のものであるという意味でも、日本で受けたインタビューがそれほど多くないはずという意味でも)だと思えたので、追悼の意もこめてここに公開することにした。記事に用いた2つのコメントを除くと、これが初公開。

ラッキー・ピーターソン、1995年11月22日の日本でのインタビューだ。

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ーークアトロのライブ、最高でしたよ。

よかった!

ーー去年僕は、フランスのアングレムの音楽祭で初めてライブを観て衝撃を受けたので、知り合いの呼び屋さんに「呼んで!」って言ってたんです。

おおっ、そうなんだ?!   ありがとう。

ーーレコード制作よりライブに重きを置いてるひとだってことがよくわかりました。 

間違いない(笑)。スタジオの細々した作業は音を顕微鏡で見て確かめるような感覚があるんだけど、ライブはただ楽しむのみといった感じで、自分にとってはたやすいことなんだ。ハートで音を鳴らしている感覚というか。オーディエンスと一体になるあの気持ちよさはほかの何にも代え難いものなんだよ。

ーーじっと聴かせるブルーズというよりは、楽しませ、興奮させ、踊らせるブルーズという感じ。

うん。普通のブルーズプレイヤーとは、僕は違うんだろね。じっと聴いてもらうより、オーディエンスを刺激しながらやりたいんだよ。みんなが興奮してる様子を見ながらプレイするのが好きなんだ。


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