見出し画像

Oto(JAGATARA)インタビュー、公開。それで思い出した話をひとつ。

じゃがたらのOtoさんにインタビューしました。

インタビューの初めに言っているように、じゃがたらは僕の人生において最も重要なバンド。82年4月に初めてライブを観て、江戸アケミさんが休養明けて復帰した86年から活動停止となった89年までは追いかけるように観に行き、本当に多大なる影響を受けた。

因みに記事のメインで使われている写真は、10代(確か18)の僕が初めてじゃがたらのライブを観た1982年4月4日・代々木公園特設ステージでのフリーライブ「反核ライブ」のときのものだ(『南蛮渡来』リリースより前)。たまたまカメラを持ってたので撮ったんだが、それが38年経ってこんなふうに使ってもらえることになろうとは…!

インタビューしたのは1月30日なので、1ヵ月ちょっと前。後半で「ここからの10年で日本はすごい崩壊が起きると思う」という話もOtoさんはされているが、そこからわずか1ヵ月ちょっとで日本が…世界が…地球が、こんな状態になろうとはまさか思ってもみなかった。

でもここでのOtoさんの言葉と江戸アケミさんが残した言葉には、こういう世界を生き抜いていくためのヒントのようなものがあり、そういう意味でいまこのタイミングでこのインタビュー記事が出る意味はとても大きいんじゃないかと僕は思う。

1/27に渋谷クラブクアトロで行なわれたJagatara2020の公演のこと、江戸アケミさんの残した言葉のこと、新作「虹色のファンファーレ」のこと、Otoさんとじゃがたらのいまとこれからのこと。たっぷり2万字。ぜひご一読を。

さて。ここからは長い余談。

Otoさんのインタビューをまとめながら思い出したことをひとつ。

30数年前、僕は「any」というエンタメ情報誌で音楽ページの編集とライティングを担当していて。その雑誌ではs-kenさんに「異人都市快楽」と題されたコラムを連載で書いていただいてて、s-kenさんとマーティン・デニー、s-kenさんとディック・リーの対談なんてものを仕込んだりしたこともあったんだが。その連載の打ち合わせだったかでs-kenさんと話しているなか、江戸アケミさんが亡くなったことについての話になり、今夜葬儀があるから来ればいいと言っていただいたんだった(江戸さんが亡くなったのを知ったのは朝日新聞の朝刊でだった)。僕はただの熱い一ファンであって、江戸さんと会って話したことはなかった故、葬儀に出ることには戸惑いもあったのだけど、そう言っていただいたことに背中を押されてひとりで三鷹の葬儀場に行った。三鷹という町に行ったのはそれが初めてだった。

その1年ちょっとくらい前だったか。僕は契約社員という形で情報誌「any」の編集をしながら、それとは別に縁あって松井良彦監督の『追悼のざわめき』という賛否クッキリ別れたカルト映画(大問題作)のパンフレットの編集もしていて。(下の写真はそのパンフレット。イラストは沢田としきさん)

画像2

中野武蔵野ホールで上映初日が終わっての打ち上げがその近くの居酒屋であり、そこで初めて制作の安岡卓治さんを通じて山本政志監督にご挨拶させていただいた。山本監督は『ロビンソンの庭』始めじゃがたらとは切っても切り離せないひとであり、死ぬほど緊張した。

で、確かその1年ちょっとあとだ。江戸さんの葬儀の会場に行き、知り合いなんてもちろんいないから入口付近で僕が佇んでたら、近くに山本監督がいらして、ご挨拶したら「線香あげといで」とすごく優しい顔で言ってくれたのだった。

いや、ただそれだけのことなんだけど。じゃがたらの曲が流れるなかでのあの場所での山本監督のそのときの優しい顔と、三鷹の人のいない帰り道のなんとも言えないさびしさと寒さをふと思い出してね。それで今回のOtoさんのインタビュー記事の序文を、その夜のことから始めたのだった。

まったくもって個人的な記憶だけど、なんか書き留めておきたくなってちょっと書いてみた。そんな山本監督の話も出てくるOtoさんのインタビュー、みなさん読んでくださいね。

Otoさんが音楽を、南流石さんが振付を担当したという山本監督の新作『脳天パラダイス』も、いまからめちゃめちゃ楽しみだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?