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追悼/ 鮎川誠 interview:「オレたちの曲は生きとるから。『クライ・クライ・クライ』も『スイート・インスピレーション』も『レモンティー』も『ユー・メイ・ドリーム』も、毎日ピカピカ新しいのが自慢なんです」

鮎川誠さんのご冥福をお祈りします。

「NO ROCK NO LIFE。俺たちは死ぬまでロックだぜ」。
そう言って、それを貫いた人。
ロックの人。愛の人。

大好きでした。
ミュージシャンとしても。人としても。

2015年のタワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE?」ポスター

追悼の意を込めて、2014年に行なったインタビューの記事をここに掲載します。

これはシーナ&ロケッツが結成35年目を迎えたときのインタビュー。鮎川さんにお話を聞く機会はこの前にもあったけど、シーナ&ロケッツがどのように始まって、どのように転がっていったかを改めてしっかり聞くなら、6年ぶりの新作『ROKKET RIDE』を出して日比谷野音でアニバーサリー・ライブを行なうこのタイミングだろうと考え、行なったものでした(因みに当初はシーナさんと鮎川さんのおふたりに話をうかがえるということで、僕はそれぞれへの質問をたんまり用意していったのですが、シモキタのカフェに現れたのは鮎川さんおひとりで、「申し訳ないけどシーナが風邪をひいたみたいで今日は来られない」と。”本当のこと”を知るのはそれからずいぶん経ってからでした)。

掲載は「musicshelf」という音楽情報ウェブサイト。2018年に閉鎖したため今はアクセスできないのですが、貴重なインタビューなので残しておきたい、多くの人に読んでもらいたいと思い、再掲載を決めました。

昨年はシーナ&ロケッツのデビュー45周年。つまりこのインタビューを行なったときからさらに11年、鮎川さんとバンドは転がり続けたわけです。

シーナ&ロケッツとは鮎川さんにとってどういうバンドだったのか。ぜひ読んでください。

2014年のシーナ&ロケッツ


<musicshelf> 2014年8月21日掲載

特集 35年目のSEENA & THE ROKKETS
鮎川誠 Special Interview


シーナ&ロケッツが6年ぶりとなるニュー・アルバム『ROKKET RIDE』(18作目!)を発表。(2014年)9月13日には日比谷野外音楽堂でワンマン・ライブ「35th ANNIVERSARY ”ROKKET RIDE TOUR@野音”」も行なわれる。

結成から35年。いつだってピカピカにブランニューなロックンロールを響かせてきた彼らは、どのようにスタートをきり、どのように転がっていったのか。全てはとても語り尽くせないだろうが、その歴史の一部を鮎川誠に語ってもらった。

シーナが歌い始めた頃のこと、細野晴臣がプロデュースしてYMOがバックアップした初期の傑作『真空パック』のこと、山口冨士夫やジョニー吉長との思い出、それにもちろん新作『ROKKET RIDE』のこと……。愛と情熱とロックンロールという生き方がここにある。

取材・文●内本順一

「幸宏が最初の大恩人ですね。幸宏が細野さんに ”シーナってユー・リアリー・ガット・ミーをすごく変わった歌い方で歌うんだよ” って言ってくれたから、細野さんとYMOと一緒にやることになった」


――結成35周年なんですね。どんな感じですか? 「もう35年」なのか、それとも「いつのまにか35年」なのか。

「いつのまにかですね。そりゃあ、”死ぬまでやるぜ!”と、訊かれたら言うけれども。こんな気持ちいい音楽の世界だから、しがみついてでもおりたいちゅう感じで。まあでも、”35年?  あっそう”ってところもありますね。ただ、こういう区切りのいいときには、押し売り的でもいいからみんなに祝ってもらおうと思って(笑)。周年がつくまでやってこれたのは僕らにとって誇りだし、メンバーはいつも仲良くて、集まったら35年分の音をすぐに出せる。元気にやってこれたことがありがたいですね」

――僕がシーナ&ロケッツを聴くようになったのはまさしく34~35年前なんです。高1のときにライブを観てやられて、『真空パック』は発売日に買ったんですよ。

「ほんとにぃ?  凄いね。アンテナ、ビンビンやね」

――いろんなロック・イベントに出てましたよね。RC(サクセション)と一緒に出ることも多かったですし。

「ですね」

――渋谷公会堂でRCと一緒に……。

「うん。BOWWOWと3組で一緒にやったやつね」(*1980年2月28日に渋谷公会堂で行われた『ROCK WILL POWER』)

――はい。それを観たり、あと武道館で……。

「プラスチックスとRCと一緒にやったね」(*1980年8月23日に日本武道館で行われた『ポップン・ロール300%』)

――ええ。そういったライブの記憶が僕の中では鮮明に残っているものですから、そう考えると34~35年というのは、あっという間だなと。

「ホントにそうだよね。人生なんてあっという間」

――いま僕がちょっとほかのバンド名を出しただけで鮎川さんはすぐにピンと来たようですが、”あのときはあのバンドと共演した”とかって、わりと覚えてるものなんですか?
 
「ものすごく覚えてます。そういえばこの間、(元)サザンオールスターズの大森(隆志)くんと30年ぶりぐらいに会ってね。横浜のライブを観に来てくれて、打ち上げでも話したんだけど、彼はまだアマチュアの頃に宮崎の大きなコンサートでサンハウスの前座をやってくれたことがあって。それは天神山のコンサートで、午後から大雨になって、急遽市内のトゥモローというライブハウスに移ってやることになったんですよ。そのことを大森くんに話したら、彼はそのライブハウスに普段から入り浸っていたにも関わらず、それを忘れとって、僕の記憶力のよさにビックリしてましたね(笑)。サザンは78年デビューだから、同期なんです。『勝手にシンドバッド』が出たのが78年6月で、僕らの『涙のハイウェイ』が10月だから」

――そうでしたね。いや、それにしても『真空パック』を買って聴いたときは驚きましたよ。それまでライブで聴いてきた音と、あまりにも違っていたので。

「いきなり『BATMAN THEME』から『ユー・メイ・ドリーム』やからね。でも次の『センチメンタル・フール』はせーので録ったし、『オ・マ・エ・ガ・ホ・シ・イ』も一発録り。で、最後が『ロケット工場』ち教授(坂本龍一)の曲で。YMOのテクノポップの色もずいぶん出とったけん、確かに戸惑う人も多かったかもしらんけど。僕らもね、”ねえねえ細野さん、これ、みんな心配すると思うけど”って最初は言ってて。オレたちフォー・ピース・バンドで、ギターとベースとドラムとヴォーカルで飛ばしよるのに、こんなアルバム作っていいのかなって、ちょっと揺らいで、細野(晴臣)さんに相談したんですよ。そしたら”いや、大丈夫だよ”って(笑)。”なんでもやってみようよ。ライブでこういうのはできないけど、レコーディングはなんでも試せるんだから、試してみようよ”と。もうその一言でふっきれて、やってみたら最高に面白かったですね」

――でも最初は少なからず抵抗もあったんですね。

「ファンの人たちを戸惑わせるんじゃないかという不安はありました。”1,2,3,4!”でやる僕らのレコーディングのスタイルは、サンハウスのときからできてましたからね。基本的にはベーシック・トラックで作ってしまうっていう。それがサンハウスの頃からのやり方だったから。でもそういう意味で言うなら、僕らの得意なことは『真空パック』に全部入ってるんですよ」

――そうですよね。せーので鳴らすロックンロールが基本としてある上で、ああいうテクノポップ的な音の遊びがあったわけで。

「うん。要するに『ユー・メイ・ドリーム』と『レイジー・クレイジー・ブルース』だけは、細野さんが ”鮎川くん、僕らにトラックを作らせてくれる?”って言ってきて。あとはバンドで一発録りした音をベースにオーバーダブしていくやり方。『ユー・メイ・ドリーム』と『レイジー・クレイジー・ブルース』にしても、村井邦彦さんが音羽に持ってたスタジオで相当リハーサルをやって、細野さんも何度も足を運んでくれて、事前にイメージを作ってくれていた。最高のプロデューサーですね。シーナともよく言うけど、あのとき細野さんにプロデュースしてもらうことができたのは、最高に嬉しかった」

――細野さんもきっと楽しかったんでしょうね。土台がブルーズにあるロックの人たちと、そうやって新しい音を作るというのが。

「面白かったんでしょうね。アルファもまだ生まれたてのレコード会社だったし、あの頃はA&Mからスクイーズやらポリスやら、パンクやニューウェイブの面白いサウンドがどんどん入ってきてたし。レコーディングがまだアナログの時代やったから、スタジオにそういうLPを積み上げて、いろんなの聴きながらその音を参考に演奏したりしてましたね」

――そもそも『真空パック』はどういう経緯で細野さんにプロデュースを依頼することになったんですか?

「エルヴィス・コステロの初来日コンサートが78年に内神田の社会教育会館というところであったんですよ。東京はそこ2日と西武劇場で2日やったかな。大阪からスタートして、福岡でもやって、で、東京で4日間やって。その全公演のオープニング・アクトを僕らがやることになって、社会教育会館のときも紹介されてバーっとステージに出ていったら、まだほんのり明るいなかに高橋幸宏が3列目くらいの席に座っててね。その横には久保田麻琴とサンディーもおって、彼らは僕らが出ることを知らないで来てたから、大きい声で”あっ、鮎川くんだ!”って(笑)。

――はははは。

「それはシーナ&ロケッツを始めたばっかりの初ステージだったんですけどね。デビュー・シングル『涙のハイウェイ』を出した1ヵ月後。で、そのライブが終わって、幸宏や久保田くんたちが楽屋に訪ねてきてくれて、そこで話が弾んだんですよ。サンハウスのときに、(サディスティック・)ミカバンドと何度か一緒にやったことがあって、幸宏ももちろん覚えていてくれて。それから幸宏がすぐ細野さんに”ロケッツ、面白いよ”って話してくれたみたいでね。当時、YMOもまだできたばっかり。紀伊國屋ホールでお披露目のライブがあったあと、12月に六本木ピットインでコンベンション・スタイルのライブを2デイズやるっていうのがあって、そこに僕も3曲ゲストで呼ばれてギターを弾きました。細野さんは博学であらゆる音楽にアンテナ張ってる人だから、僕が九州のサンハウスちゅうバンドにいたことも知ってくれてたし、幸宏が褒めてくれたこともあって一目置いてくれてて。初めて会ったときから優しくしてくれましたね。で、僕はといえば、はっぴいえんども『HOSONO HOUSE』も聴いてて憧れやったから」

――コステロのライブに出て、それを幸宏さんが観ていたことから、細野さんプロデュースに繋がっていったわけですね。

「本当にそれがきっかけで、それがあったから今の僕たちがおる。だから幸宏が最初の大恩人ですね。幸宏が細野さんに、”細野さん、シーナってユー・リアリー・ガット・ミーをすごく変わった歌い方で歌うんだよ。面白いよ”って言ってくれたから、細野さんとYMOと一緒にやることになった。『真空パック』は手探りで、作りながらいろいろ実験していくやり方をしていて、本当に面白かったですね」

――ジャケットもインパクトがありましたよね。あのときはビジュアル含めて全てがニューウェイブというか、新しいセンスに貫かれているように感じました。

「ですね。あのとき幸宏は<Bricks>というかっこいいブランドを持ってて、そのファッション・ショーをモリハナエビルでやったときは、僕とか加藤和彦さんとか、ミュージシャンやら幸宏の友達やらがモデルをやって。そこにかっこいいイギリス人がいて意気投合したんですけど、それがクリス・モスデル。童話作家で、詩も書くちゅうてて。で、僕らにも詩をくれて、早速レコーディングしたのが『真空パック』の『STIFF LIPS』とか『HEAVEN OR HELL』やった」

――そのクリス・モスデルさんは今回の新作『ROKKET RIDE』でも「ROKKET RIDE」と「ROCK FOX」の歌詞を書いています。

「クリスはロスと東京を行ったり来たりしてて、ときおり連絡をくれたりする。ライブに来てくれては、”すっごくいい!”って激励してくれるんです。『ROKKET RIDE』も『ROCK FOX』も、彼の歌詞はいつも凄い。その一言だけでゾクッとくる。35年くらい前に出会って、今も一緒にやれてるのは、最高に嬉しいことですね」

「タクシーに乗ってるときにシーナが初めて”私もレコードを作りたい”って言うたんよ。それがきっかけですね。シーナのその一声で、ロケッツちゅうものがドカーンと打ちあがった」

――シーナさんについてのお話も聞かせてください。そもそもシーナさんは、シーナ&ロケッツを始める前からヴォーカリストとしての活動をされていたんですか?

「いや、全然。その時点ではヴォーカルをちゃんとやったことはなかったです。そのときは僕らが出会って8年くらい経ったときで。音楽が大好きで出会ったふたりやったし、シーナはずっとサンハウスを応援してくれて、切符を買って観に来てくれていた。なんとなく仲間になってタダで入るとかそんなんじゃなくて、筋を通した応援の仕方をしてくれてましたね。で、柴山(俊之)さんやらみんなとも仲良く交流してて、柴山さんがくれた詞に僕が家で曲をつけていると、一緒にコーラスを入れてくれたり、お茶碗とお箸でドラム替わりにリズムをとってくれたり。そうやってずっと音楽を共にしてたんですが、歌うとかいう考えは全然持ってなかったですね」

――そうだったんですね。

「で、それから少しして、78年の3月をもってサンハウスが解散して。サンハウスがもうすぐ終わるっていう頃には双子が生まれたんですよ。僕はその頃フーテンみたいな生活しとったから、シーナの両親が ”まこちゃんも、こっちで暮らしい”って言ってくれて、シーナの実家に家族4人一緒に暮らしてて。僕は音楽家として、まだ続けられるのかって思ってるときで。そしたらシーナの親父さんから ”はっきりせい”ち、ビシっと言われてね。そりゃサンハウスの鮎川といえば博多あたりじゃ知られてるけど、それだけじゃ食えんばいって。東京に行って何ができるかハッキリさせてくるのもよかろうってサジェスチョンしてくれて、ダメならダメで諦めもつくやろと。このままこっちにおったらグスグズするだけやぞって自分でも思って、それで4月に上京して、スタジオで仕事したり、歌手のために作曲したりするようになったんです。電通の企画で、ソ連から巨大な恐竜の化石が来るので、それの曲を作る仕事をしたり。その恐竜がサウロちゃんって名前で、それに因んだインストゥルメンタルで『サウロ・ブギ』っていうのを作って(笑)」

――ははは。

「あと、元サンハウスのマネージャーの柏木省三からローリングストーンズの『カモン』をリカヴァーしたレコードを作ろうって呼ばれて、レコーディングしたりして。で、そんなことをしてたら、ある日シーナが ”私も来たけん”とか言うて追いかけて上京してきたんですよ。ひとりでソワソワしとった娘を見るに見かねて、親父さんが送り出したんよね。もちろんそのときは、歌手になろうと出てきたわけじゃなくて、ただ一緒におろうちゅうて来てくれたんやけど。で、僕が仕事していたスタジオに呼んだら、そのとき歌ってた女性歌手の歌を聴いて、シーナがイライラしだしてね。九州女やけ、思わず ”そんな吸うたり吐いたりの歌い方じゃロックは歌えんばい”みたいなことを言って。そしたらその歌手のコが”あなたが歌ったら?!”って。”あなたのほうがこの歌は向いてるんじゃない?”って言って、そのまま本当にシーナが歌うことになった。それが『涙のハイウェイ』なんです」

――そうだったんですか。それまでシーナさんはご自身の歌手としての才能を自覚されていなかったんですか?

「歌うのは子供の頃から好きで、5歳の頃から歌ったり踊ったりしてたとは言ってた。商店街のレコード屋で、”これかけて”ってエルビス(・プレスリー)の曲をかけてもらって歌ったりとかしてたみたいだし。佐世保ではゴーゴー・ガールもやったり。歌うことと躍ることが大好きやったみたいね。僕と出会ってからも、よく”キャロル・キングのあの歌、ちょっと弾いちょって”って言って、僕がギター弾いて、シーナが歌ったりとかしてました。あとカルメン・マキの歌とかユーミンの歌とか」

――へぇ~。

「ただ、サンハウスに関しては全然割り込んでこなかったし、僕も一緒にバンドを作るとか、そんな発想はまったくなかった。でもさっきのスタジオの一件の前だったかあとだったか、タクシーに乗ってるときにシーナが初めて”私もレコードを作りたい”って言うたんよ。それがきっかけですね。”それやったら、作ろうぜ!”って僕も言って。シーナのその一声で、ロケッツちゅうものがドカーンと打ちあがった」

――鮎川さんのなかには、いずれまたバンドをやろうという構想はあったんですか?

「サンハウスがなくなって、ただ仕事にありつくためにと思って東京に行ったばかりだったから、バンドのアイディアはなかったけど、でもバンドってこんなに素晴らしかったんだなちゅうことはすごい痛感した。例えば『カモン』1曲録るんでも、僕はスピードアップしてパンクにしたかったし、オカズなんていらないと思ってたけど、”ちょっと待て。ここでこうきたら、ここでベースを合わせて、ここでギターをこう入れて”とか決まり事が多くて、そういうじれったさを感じたときに、逆にバンドっていうのはすごい自由な生き物やったんやなって思ったし。でも、東京にも素晴らしいミュージシャンはいっぱいおるけん、説明すればちゃんと伝わるんよ。それでだんだんスタジオのミュージシャンたちともわかりあえるようになっていった。因みにそのときのドラムは新井田耕造。で、彼はそのあとすぐにRCに入るんだけど」

――ああ、その頃なんですね。

「うん。それから僕とシーナは自分たちのバンドのことで頭いっぱいになって、シーナ&ロケッツって名前と青写真を作って、8月か9月にベースの浅田(孟)くんとドラムの川嶋(一秀)くんがメンバーに決まったんだけど、浅田が病気したので、奈良(敏博)に助っ人で来てもらって」

――そうしてシーナ&ロケッツがスタートした。それまでバンド経験のなかったシーナさんは、すぐにバンドというものに馴染めている様子でした?

「馴染めてるどころじゃなくて、バンドというものに対して情報過多で頭でっかちでもあった男どもとは全然違う発想を持っていた。そのときからバンドを引っ張っていたのはシーナでしたからね」

――そうなんですか。じゃあ、アイディアもシーナさんがたくさん出して。

「アイディアもだけど、まずは歌い方やろね。歌ってノセる。躍ってノセる。煽ってノセる。ステージからお客さんのほうに向かって花道があれば、男どもが”あそこを歩こうか”って考えている間に、もう走ってる。78年から79年にかけてのニューイヤー・ロック・フェスティバルに僕ら初めて出させてもらったんですけど、浅草国際劇場には花道があって、そこをシーナがバーンと飛び出していったときに、みんな、このバンドを引っ張りよるのはシーナやと思った。僕もシーナの歌にはビックリしたね。セックス・ピストルズの『ノー・ファン』やらジェイムス・ブラウンの『アイ・ガット・ユー』やらいろんな歌を歌うけど、どれも自分の歌い方で。だから最初からシーナがバンドの運転手で、オレらはエンジン。”エンジンのほうは任せとけ”っていう」

――パンクの勢いとR&Bやファンクの熱とポップの可愛さを持った、ある種の発明でもあったと思うんですよ、シーナさんの歌い方って。

「本人はロニー・スペクターが好きって言ってましたけど、あの時代はパティ・スミスやらデビー・ハリーやら、ちょっとするとクリッシー・ハインドやらが出てきて、そういう先達の頑張りがすごい励みにもなってましたね」

「山口冨士夫は憧れの存在でした。本当に音楽のエンジェルだって思ったね。よくぞ舞い降りてきてくれたって」

――そこからスタートしての35年なわけですが、その時代その時代で常に刺激的なこと、面白いこと、チャレンジングなことをいろいろやられてきて。

「うん。いっぱいありすぎて、もう(笑)」

――ちょっとやそっとじゃ語り尽くせないと思いますが、そのなかで、あれは1986年でしたか、山口冨士夫さんと一緒にやられた『GATHERED』が強く印象に残っています。

「今回『ROKKET RIDE』を録音するにあたって、僕らビクターの青山スタジオに戻ってきたわけなんですよ。で、いつも使ってた302スタジオちゅう2階立てをくりぬいたほどの大きなスタジオに、アンプを置いて、ドラムをセットして、メンバーを見ながら音を出したときに、すぐに冨士夫のことを思い出したんです。”ここでやったなぁ”って。ロケッツはその302スタジオで、『ROKKET SIZE』も『NEW HIPPIES』も『MAIN SONGS』も『GATHERED』も『#9』も『DREAM&REVOLT』も録った。憧れの冨士夫ともあのときそこでやれたわけです」

――やっぱり冨士夫さんは憧れの存在だったんですか?

「憧れの存在でした。東京に出てきてすぐ、東京ロッカーズの友達とか、いろんな仲間ができた。英語で言うとセイムテイストちゅう表現になるんだろうけど、そういう同じような音楽を好む仲間同士でよく集まってて、冨士夫はその後ろ盾ちゅうか、ご本尊としておったわけ(笑)。で、渋谷の公園通りのジァン・ジァンのちょっと下にジャック&ベティってサンドイッチ屋があってね。よくそこに溜まってたんだけど、そこに行くと”まこちゃん、さっきまで冨士夫もいたのになぁ”とか言われて。みんな、僕たちを会わせたがっててね。でも話をしたのは、もっとあとの雑誌の対談。そのときもまだお互い、ちょっと壁を作っていて、手の内を明かさないような感じでね。ふたりで話すというよりは、進行役に向かってそれぞれがぶっきらぼうに答えてた。本当は僕はビンビンに意識しとったし、冨士夫も違う意味で意識しとってくれてたと思うんだけど。でもその対談が終わった帰り道に思いきって誘ってみたんよ。ロケッツにゲストで入ってくれって」

――それが『GATHERED』で一緒にやるきっかけだった。

「そう。その前にまずライブをしばらくやってね。並木橋にあったスタジオJに冬に来てもらって、で、渋谷のライブ・インで3デイズをやって、それに入ってもらって。ゲストで途中何曲かに入ってもらうやり方がいいのかとか、いろいろ考えたんだけど、スタジオJで音出したら、もう全編入ってほしい!って思って。ちゅうのは、冨士夫は聴いた音を感じたままにすぐに音にして出せる、思った通り最高のギタリストだったから。曲順がどうで、この曲はコードがどうだとか、そういう会話は一切しなかったですね。出た音にその場で反応してくれるのが最高だった。で、そのまんま『GATHERED』のレコーディング。それが97年の5月か6月かな」

――晩年は会ってなかったんですか?

「すれ違ったりとかでね。僕も積極的に会いに行かんやったこともあるけども。京浜ロックフェスティバルってあったでしょ?  あれにロケッツも出て、冨士夫も出たんですよ(2010年)。そのときに会えるところまで行ったんだけど、スタッフが代わりに来て”いま、車のなかで休んでますので”って。”じゃあ、お大事に”って伝えて」

――会えずじまいだった。

「うん」

――それにしても『GATHERED』の冨士夫さんと鮎川さんのスリリングなギターの合わさりは本当に凄かった。あれは奇跡的なものでしたね。

「もうホント、嬉しかったぁー。なんかね、本当に音楽のエンジェルだって思ったね。よくぞ舞い降りてきてくれた。冨士夫はこう、すごくキレイに弾いたり、いたずらっこみたいに弾いたり。悔しいほど正確なギターも弾けたし、悔しいほど崩したギターも弾けたしね。知り尽くしとっちゃね。僕も九州でたいがいの音楽小僧やったけど、冨士夫は東京の厳しい音楽ビジネスのなかで中学高校の頃からやってた。その現場感覚っていうのが凄かったですね。僕やら高校のときは高校の生活しかしてなかったけど、冨士夫は違ってた」

――それから、92年の『(ha! ha! ha!)Hard Drug』のときにはジョニー吉長さんロミー木下さんと一緒にやられてました。あれも印象に残ってます。

「ウエスト・ロード(・ブルース・バンド)のホトケ(永井隆)、いるでしょ。ウエストロードはサンハウス時代から何回も一緒にやったことがある仲間なんですけど、そのホトケがずっとロケッツのよき理解者で、いつも応援してくれていて。で、あるときそのホトケが、”ジョニーとロミー、面白いよ~”ち言ってて。ホトケがセットしてくれて、たまに一緒にやったりしてたんです。で、その頃にジョニー・サンダースが亡くなってね。川崎クラブチッタでジョニー・サンダースの追悼コンサートがあって」

――ありましたね。僕も行きました。

「うん。冨士夫も出たし、清志郎も出て。ジョニー・サンダースはみんなの希望やったからね。で、僕はジョニー(吉長)とロミーで一緒に出て。そのコンサートが終わったあと、ジョニーからひょっこり電話がかかってきたんですよ。”オレ、ロミーと話したんだけどさ。ロケッツ、しばらく手伝ってあげてもいいよ”って(笑)。僕もジョニーとロミーやったら楽しかろうって思って、”やりたいね!”って答えて」

――へぇ~。いい話ですねぇ。なんかみんないなくなっちゃって寂しいですね。

「本当にね」

「柴山さんが書いた『電撃BOP』の歌詞は、日本の若い人たちの希望になる詞やと僕は思う」

――さて、このへんでニュー・アルバム『ROKKET RIDE』の話も聞きたいんですが。

「うん。でも、いま話したいっこいっこが僕らにとっては全部意味のあることだし、そういういろんな出会い、いろんな縁があって、いまこういうアルバムもできてるんだなと思うんですよ。で、スタジオ302に帰ってきて、ボガーンと音を鳴らした瞬間に、もうあれこれ考えないで思ったまま演奏しようちゅう方向性が決まって」

――コンセプトやらを考えるよりも前に、いまのメンバーで思いきり鳴らせば、かっこいいものになるはずだと。

「うん。僕とシーナと奈良と川嶋。この4人になったのが震災後の6月なんです。それまで浅田くんが3年くらいやってくれてたけど、一身上の都合でベースの座をあけたので、奈良が戻ってきてくれた。その途端にね、僕もシーナも川嶋も水を得た魚みたいにすごいノビノビとできるようになって。リバースちゅうか、本当にバンドが生まれ変わったみたいになって、いま感じた音をそのまま出せるようになったんです。ただ、新曲がなかったので、ツアーでは以前の曲をやったり、冨士夫が亡くなったときはずいぶん『GATHERED』の曲をやったりしたけど、とにかくその日にやりたい曲をその場でパッとやれるようなバンド活動の仕方になってって。でも『JAPANIC』を出した2008年からはだいぶ日が経っていたし、奈良が入ったいい状態で早くレコードを作りたいねってことはずっと言ってて。川嶋も、奈良が入ったことによって、すごくやんちゃなドラムに戻ってね。それこそ『真空パック』でいろんな音を試しよったドラムに戻って。僕らみんなやんちゃに戻れたという」

――確かに新作を聴いてみると、やんちゃさとか初期衝動のようなものをすごく感じます。リズムも含めて、今回は暴れまくってるなって。

「暴れまくってるし、マジックがあっちこっちで生まれてた。この一発で決めるぜっていう暗黙の了解がみんなにあったし。この3年ぐらいずっとライブをやってきて、このバンドだから作れる音ちゅうのが見えたところがあったし、自信を持てたところもあるし、この4人で作る音に対して責任も誇りもみんなにあった。だから12曲新曲を作って、その1曲1曲はラフスケッチみたいなもんやったんですよ」

――そうなんですね。

「レコーディングの前にデモテープを録ったりもしなかったし、イントロはこのぐらいあってそのあと歌に入るとか、そんなことも一切決めんやった。譜面はもともと使わんバンドだしね。ただその代わりに詞だけはコピーして、譜面代わりに詞を見ながらレコーディングしました」

――詞を見ながら演奏するやり方は、いままでも何度かやってるんですか?

「『GATHERED』のときは、僕とシーナは詞を見ながらしてたけど、川嶋も奈良ももみんなが詞を見ながら演奏したのは、そういえば初めてやったね。それだけは今回、新しいやり方で」

――歌詞からインスパイアされて音に感情が現れる。

「それぐらい今回の柴山(俊之)さんの7曲はすごい詞やし、山名昇の世界も凄いし、クリスのも最高だし、阿久悠さんが残してくれたものも素晴らしいし」

――「ロックンロールの夜」。これは阿久悠さんのいつの詞なんですか?

「96年に阿久悠さんが新しくくれたんです。94年の『ROCK ON BABY』のときに12曲くれて、そのあとまたいくつかくれて。そのときくれた詞に曲をつけたものは『@HEART』にも『Rock The Rock』にも入れましたけど、この『ロックンロールの夜』だけはどうしても難しかった。ストーンズやったらどう作るかなとか、ヤードバーズやったらどう作るかなとか、いつも僕はそげん作るんやけど、これはどうも当てはまらない。頭と終わりにあてはまらん長い言葉がきて、途中ラララがあって」

――ラララも阿久さんの言葉として書いてあったわけですね。

「全部書いてあった。僕が加えたのは、最後の「ロックンロールの夜」ちゅう叫びの一言だけ。それ以外は一字一句変えてない。で、とにかく阿久悠さんのこの詞も、オレの一番好きなワンコード・ブギで行くしかないって開き直ってね(笑)。できんときは、ガキの頃から一番得意なのをやるに限るって思って」

――これをアルバムの最後に持ってきたってことは、それだけ思い入れも強かったわけですね。

「喜びがあったんです。やっとできたっていう。”阿久悠さん、こんな曲になりましたけど、どうですか?”っていうのもあるけど、とにかく完成したことが嬉しかった」

――柴山さんの詞も、どれも最高ですね。特に今回のものは平易な言葉でありながら強いメッセージがあって素晴らしい。「こんな詞を書いてほしい」というような打ち合わせを事前にしたりはするんですか?

「いや、打ち合わせはしません。柴山さんが ”まこちゃん、詞、書いたけんね。もってくるけん”ち言うから、”じゃあ作るけん”って。でも「飼いならされて標本だらけ」(『電撃BOP』)とか、すごいありがたい言葉だと思うんですよ。いまの世の中、先に標本がずら~っとあって、”キミはどこの標本に入りたい? Aですか? Bですか? ”ち訊かれないと、自分の意志を言うことができなかったり、生きていけんくなってる。”AもBも認めんよ”っていう別の選択肢がなくなってしまっているというか。思う壺に入ってるというかさ。だから、柴山さんのこの歌詞は、日本の若い人たちの希望になる詞やと僕は思う」

――そうですね。阿久悠さんも「ロックンロールの夜」で「飲んで暴れて血を巡らせて エキセントリックに過ごそうじゃないか / 元気がないぞ 兄ちゃんたち」と書いてますし。

「うん。今回ありがたい言葉を作詞のみなさんからたくさんいただけた。これをちゃんと若い人たちに伝えていきたいですね」

――本当に最高です、このアルバム。「ストーンズは常に最新作が一番かっこいい」という言い方がありますが、これを聴くと「シーナ&ロケッツも常に最新作が一番かっこいい」って言いたくなる。

「ありがとう。ぼくも昨日聴いてまた鳥肌がたった。1曲目の『ROKKET RIDE』がボーンって始まったときに、ドラムがバタンちゅうてベースがブーンって鳴る、ほんの最初の2秒のなかに僕らの ”どーだ!” ちゅう自信が入っとるし、オレたちがラモーンズの遺伝子を受けついどるという喜びも入っとる。ジョーイに聴いてほしいち、すぐシーナと思った。で、2曲目はミック・ジャガーも喜んでくれるかなって」

――「Ride the Lightning」。「ドゥーム・アンド・グルーム」ですよね。

「そう。でも『ドゥーム・アンド・グルーム』をそのままやろうとは思ってないけどね。「イナヅマがわたしの胸に」ちゅうこの詞に最高の土台は?って考えたら、自然にこういうのが出てきた。オレたちは好きなバンドの遺伝子を純粋に受け継いでいるつもりなので、似てくるのはしょうがないというか、むしろそれを誇りに思ってやってるんです」

――この盤はとにかく大きい音で聴きたいですね。願わくばアナログ盤も出してほしい。

「僕たち、いつもアナログ盤の発想で作ってるんですよ。だからこれは12曲入れてるけど、『電撃BOP』がA面の最後で、7曲目の『Madness City』からB面っていう発想です」

――なるほど。さて、このアルバムを携えてのツアーがあり、9月13日には日比谷野外音楽堂でのワンマンも控えています。

「野音で自分たちのレコ発ライブをやるのは『ROCK ON BABY』以来20年ぶりぐらいなんです。初めての野音のレコ発ライブは『ピンナップ・ベイビー・ブルース』を出したときで、1981年。今回はあれと同じくらい感慨深い。あのときはまだ東京に出てきて3年目で、『ユー・メイ・ドリーム』がシングル盤になって、テレビにも出て、とんとん拍子だった。で、YMOが世界ツアーに行って、ミッキー・カーチスさんにプロデュースしてもらってアルバムを作っていたら、もう野音が決まってた。当たり前ちゅうたら語弊があるけど、そうやってあの頃の僕らはとんとん拍子に動いていたんです。そこから30数年経って、これは『ROCK ON BABY』のときも思ったけど、野音でやるのはこんなにたいへんなことなのかっていうのが改めてわかった。だから今回野音が決まったことは、ものすごくありがたいことやし、なんとしてもたくさんの人に観てもらいたいし、応援に来てほしい。本当にね、こんなに切に願うのは初めてなんですよ(笑)。本当によろしくお願いします」

――81年の<PINUP LIVE>は僕も行きましたけど、やっぱりシーナ&ロケッツと野音の相性は抜群ですからね。

「野音はロックの聖地だと本当に思ってるんです。ロックが舞い降りた最初の場所だと思う。60年代にウッドストックの映画でああいう光景を観た人も、それまでは赤坂のムゲンとか博多のダンスホールの赤と黒とか、そういうところに潜り込んでロックを聴いていた。でもそれからロックをみんなで聴くっていうふうに変わっていって、九州大学やら京都大学やら東大やらのキャンパスでロックがやれるようになった。その象徴として野音があったんですよ。だから野音でやれるっていうのは最高なんです。厳選した35年分のレパートリーと生まれたての『ROKKET RIDE』の曲を思いきり演奏しますよ」

――『ROKKET RIDE』の曲は、昔の曲との混ざり具合もすごくよさそうですよね。

「うん。オレたちの曲は生きとるから。『クライ・クライ・クライ』も『スイート・インスピレーション』も『レモンティー』も『ユー・メイ・ドリーム』も毎日ピカピカ新しいのが自慢なんです」


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