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『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』感想。

2022年1月9日(日)

109シネマズ川崎で、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』IMAX。

これが初めて観るスパイダーマン作品となるひとにはそうじゃないかもしれないが、少なくとも過去作を観てきた人間にとっては、ひとつの映画体験として最高の部類に入るであろうもの。既に全米累計興行収入が歴代トップ10に入っているようだが(現在全米6位。世界でも8位!)、それも納得の面白さだ。

あれがこうで、あっちの世界がああで、あのキャラがあんなふうに……といろいろ複雑に絡み合うも、これはとにかくトム・ホランド=ピーター・パーカーの成長譚であって、その主軸のぶれなさが勝因かと。ジョン・ワッツ監督は3作を通してそれをやっており、ピーターのもともとの性格(考え方・感じ方・行動の仕方)を少しも変えることなく、少年から青年へと成長していく様をしっかり描いてみせてくれた。それ故に3シリーズの、トムホ版はベストであり、金字塔であり、数年後に別の監督・別の役者で新シリーズがスタートしても、このホーム・シリーズを超えるのは相当難儀なことだろう。

*さて、ここからはネタバレに抵触するので、これからご覧になる方は絶対に読まないようにお願いしたい。くれぐれも。

ゴジラとかモスラとかラドンとかそれまで別作品に出てきたいろんな怪獣が「怪獣総進撃」や「怪獣大進撃」に揃って登場するとか、ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマンと個別の作品だったのがウルトラマンエースだったかなんだかのある回で一堂に揃うとか、「仮面ライダーV3」に1号と2号が登場するとか。子供の頃、そういうスペシャルな回(または映画版)に特別な高揚をおぼえたものだった。マルチバース(=多元宇宙)ということじゃなく、仮に時間軸の繋がりがあったものでも、別の物語のなかにいたはずのヒーローまたはヴィランが一緒に出てくると無条件で気持ちが上がる。それは見ていた自分が子供だったからじゃなく、大人になったいまでもどうしようもなくワクワクするものなのだなと、今回『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を観て思ったのだった。

マルチバースに関しては、そういえば自分は敬愛している永井豪の作品で子供の頃から意識することなく親しんでいたことを思いだした。ある漫画に出てきたキャラクターが別の漫画の別の時代に現れて活躍する。学園ものだと思って読んでいたら、「その頃、宇宙では…」などと突如舞台が変わり、氏の過去作に登場していたキャラと混ざって話が進みだす。永井豪はそういうのが得意で、やりがちで、僕はそれにワクワクした。但しそこには論理的破綻もあった。なんであのキャラが突然そこに現れるのか、理由のないことも多かった。が、それは作者のみぞ知るというか、作者の勝手というか、理屈など合ってなくても作者がそうしたいんだからそれでいいのだと受け入れていた。漫画だからね。なしだけど、ありだよね。そう了解したうえで、楽しんでいたものだった。

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』にそのような論理的破綻はなかった。というか、感じなかった。ある意味ずるいとも言えなくないマルチバース表現を、ずるいと思わせることなくしっかり辻褄を合わせ、説得力持たせて示して見せた脚本・監督・俳優陣は相当すごいんじゃないか。しかも、単にその場に揃えるだけじゃなく、あるキャラは別世界での失敗、後悔から学んで、こっちの世界でその経験を活かす(前の世界で恋人を救えなかったあの”彼”がこっちの世界では…、とか)というのが美しくも感動的。マルチバース設定が、「やり直せる」というメッセージにしっかり結びついていて、そこが素晴らしいと思った。

「やっつける」のではなく「救おうとする」親愛なる隣人ヒーロー、トムホ・スパイダー。対するヴィランは悪しき男性優位性を誇示する者たちばかりで、その価値観の終焉たる表現の仕方もいまっぽい。もう一度観直したらもっといろんな含みメッセージに気づけそうでもある最高の娯楽作だ。


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