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『最後の決闘裁判』

2021年11月7日(日)

TOHOシネマズ六本木ヒルズで『最後の決闘裁判』。

舞台が中世フランスで、2時間半の長尺とも聞いていたので、正直腰が引けてたのだが、観たい!と言う妻に応えて一緒に観に行った。話の内容を知らないまま観たが、構成の巧みさもあって、結果、引き込まれまくり。同じ2時間半超えの『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』や『DUNE/デューン 砂の惑星』に比べて体感時間が遥かに短く感じられた。がしかし、あとに残る重さと突きつけられる感覚はそれらを大きく上回るものでもあった。

マット・デイモンとベン・アフレックの共同脚本(被害者である妻のパートのために女性脚本家ニコール・ホロフセナーが迎えられてもいる)で、監督は現在83歳のリドリー・スコット。脚本に取り組んだ俳優ふたりの問題意識と、何より衰え知らずのスコット監督の手腕及びパワフルさに驚嘆する。

「この企画はマット・デイモンから持ちかけられた。“あなたは決闘についての映画をいくつか撮っているけれど、もう1本やらないか”ってね。彼は取り憑かれたように黒澤明監督の『羅生門』の話をしていたよ。3つの異なる視点から事件を語るという素晴らしいアイデアに惹かれたんだ」とのスコット監督のコメントがあるが、デイモンが『羅生門』からインスパイアされたその「3つの異なる視点から事件を語る」というアイデアが肝。事実はひとつなのに、それぞれの主観がそれぞれにとっての真実になって他者のそれとのズレを生む、その様子が緊迫感を伴いながら描かれる。英雄として生きたい男の語りも恋愛と色に生きる男の語りも当人にとっては嘘ではないが、どうしたって自己正当化がそこに乗る。故に厄介。そういうことって現代社会にもいくらでもあることで、だから引き込まれつつも怖くなる。

マチズモのカタマリのようなカルージュ(マット・デイモン)もすけこましメンタルのル・グリ(アダム・ドライバー)も自身の正義を信じて疑わないだけに大概酷いわけだが、審理する人々の二次加害(セカンドレイプ)的な言葉と態度がまた醜悪で、中世残酷物語なんて言いたくなるほど。まったくなんちゅう時代なんだよ……と辛くなるが、ここまでじゃなくともこれもまた現代社会に通じてしまっているところはあるわけで、「いまがあんな時代じゃなくてよかった」などとは言いきれないことを思うとまた苦しくなる。

マット・デイモン、アダム・ドライバー、いずれも迫力込みの熱演だが、際立って素晴らしいのがマルグリット役のジョディ・カマーだ。とりわけ”最後の決闘裁判”のあとの虚無と絶望の表情が脳裏に焼き付いた。

ところでこれは、「どう受け取めたか」で観た者の社会の捉え方や人権に対する意識、価値観などが露わになるリトマス試験紙的な性質を持った作品でもある。お披露目となったヴェネチア国際映画祭の記者会見では、ある記者が「第2幕と第3幕の暴力の表現にあまり違いは見出せなかった」と言い、リドリー・スコットが「もう一度、映画を観たまえ!」と怒ったそうな。その違いを理解できないひとが確かにいるわけだ。また、日本ではある評論家と名のある映画監督がそれぞれ唖然とするような感想記述を(前者は映画雑誌に、後者は自身のブログに)して炎上した。自分も読んで驚いたし、嫌悪感を持ったが、そのふたりは映画の世界に深く関わるひと故に目立って批判も殺到したわけで、この人たちに近い感想を普通に抱いてしまう男性は実際決して少なくないのかもしれない。そんなことも含め、観たあと食事しながら妻と「受け止めたこと」の確認と共有をし、改めていろんな映画を観ることや本を読むこと、価値観のアップデートの大事さを思ったりもしたのだった。

自分の男ともだちたちは、この映画を観て、どう思うのかな。


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