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手塚治 「ザ・クレーター」「巴の面」 主張のズレがある気がする?!

ようやく週末。ちょっと気持ちに余裕があり、ノートをゆっくりと書ける。
昨日なんて深夜0時前にわたわた書いて投稿。ノートのことをさっぱり忘れていた。

さて、今日は私の大好きな漫画である、「ザ・クレーター」の「巴の面」の紹介だ。

このお話はネタバレがあるので要注意。

では行ってみます。

 巴という顔の醜い女がいて、それが美男子と結婚した。理由は心が美しかったから。一方、ライバルの女は顔が綺麗だけど、心が冷たかった。

 顔が綺麗な女は、巴に負けたのが悔しくて、とあるネガティブキャンペーンを行う。それを信じた旦那は、巴の顔をバッサリと切ってしまうのだった。

 で、それが般若の面の原形になるわけですが、最後のオチ。

 時は未来。一人の青年にお見合いを勧める親がいて、青年は親のお勧めの美女が気に入らない。代わりに、雑誌に載っている宇宙人のような顔をした女たちに興味を持っている。今年のミスなんちゃら。

 青年が言うには、人の価値観なんて時代と共に変化するものだ。平安時代はお多福顔の女が美人だと言われていた。だから、顔に拘るというのはおかしな話だとか・・・。で、青年からすれば、その宇宙人のような顔をした女たちが美人なのだという。

 それを聞いた親は、不思議に思い、壁にかけてある般若の面に独り言を話しかける。般若の面は笑いながら消滅するのだった。

 この作品は、「顔の美醜に対する人の価値観なんて言うのは、時代によって 変化するのだから、拘るのはおかしい」と言った主張が読み取れる。確かに、顔の美醜に対する人の価値観は変化する・・・それは確かにその通りだ。美人や不細工と言う絶対的な基準はない。

1つ目の主張のズレ

 だけど、「平安美人の絵は、どう見ても写実的ではない。」だから、実際のしもぶくれの女は、やっぱり美人な子は美人だったし、しもぶくれの女の子は、今でもそれなりに人気があると思う。

2つ目の主張のズレ 

 確かに、美醜に対する人の価値観は時代によって変化することがあるが、それほど大きくずれることは無いように思う。また、何と云っても間違いがないのは、「その時代の人にとって、美人だと思う人間を美人だと思うことは絶対に揺るがない」と思うのだ。

3つ目の主張のズレ

 この話は、「イデア」を理解しているとはいいがたい。「美醜」は、人々の持つ「イデア」からの距離によって変化する。

結論

 もしこの作品が、「美醜の価値観は時代によって変化するのだから、今自分が美人だと思っている人間も、別の時代にとっては不細工だ」と言うことを根拠として、「今自分が美人だと思わない女にも魅力を感じろ」とか言ってくるならば、それは価値観の押し付けだろうなと思う。

 どれだけ美醜に対する価値観が時代によって変化するといっても、その時の自分にとって、美人だと思う人を選ぶことに、何の変わりもないだろう。

 私個人の勝手な思いかもしれないが、美人に対する価値観は、そりゃ変わるかもしれないけれども、それほどでもないと思う。他の時代の人間から見ても、「ああ、まぁ、わかる。」と言う程度のズレだと思う。

 手塚治の書いているような、完全にパーツが狂ったような存在に、そこまで魅力を感じる時代がやってくるかどうかは、はなはだ疑問である。

 何はともあれ、その人が美人だと思う人が美人だ。これは基本で、何時の時代も変わらない。そして、その中でも多くの人が美人だと認めるような存在が、普通に「美人」と言われることになる。

 

  

 


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