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創作大賞2022応募作品 「立てこもり」9.9月22日00:05

9.9月22日00:05 

 群衆は、機動隊員と総理大臣官邸警備隊たちを官邸の敷地から追い出すと官邸の中に入った。60がらみの男と老人など、数人の男たちがバリケードを造り始めた。その他の群衆たちは、所在無げにバリケードを作っている男たちを立ったまま眺めていた。官邸の中には、百人以上の群衆が入っていた。遅れた群衆たちは、体勢を立て直した機動隊員たちに阻止されていた。すぐに到着した警察のパトカーや車両から吐き出されるようにして出てきた機動隊員たちに、なす術もなく蜘蛛の子を散らすように逃げだした。

 「西通用口前に動きがありました。一部の群衆たちが、官邸内に乱入した模様です」
 ヘリコプターから、映像が飛び込んできた。映像は暗かったものの、西通用口が混乱していることは判断できた。

「俺たちは、助かったのか?」
 その光景を見ていた金髪の若い男は、ほっとした。が、これで犯罪者になるかも知れないという想いの複雑な顔で呟いた。
「さあ…」
 隣に立っていた老人は、他人事のような顔をした。先ほど、機動隊員に助太刀に来たと言った老人だった。
「そんな…」
 金髪の若い男は、絶句した。老人はそのまま、『警察が怖いやつは来なくていい。この国を救いたい奴は、俺について来い!』と言った60がらみの男がベリケードを作り始めたのを見ると、バリケードに使う机を運ぶのを手伝い始めた。60がらみの男は、「何か、昔を思い出すな…」と、外に追い出した機動隊員たちを一瞥しながら呟いた。
「昔って…。あんた」
 老人は、机を運ぶ手を休めて、60がらみの男を信じられないような顔で見ながら、「学生運動か」と、尋ねた。
「はい。私は、長谷部、長谷部治夫と申します」
 60がらみの男は、自分から名前を名乗った。
「わしは、細谷進。敵対した方だ」
 老人も、名前を名乗った。
「警察?」
「いや、陸上自衛隊だ」
 老人はそう言うと、机を運ぶ手を再開しながら、「歳取っても、こんな事は造作もないことだ」と言って、笑顔を見せた。
「昔は、これでも純粋だったんですよ」
 長谷部は、テレながらも罰の悪そうな顔をして、「しかし、方法が間違っていた」と、老人に言った。
「今回も、後悔しているのかね?」
 細谷は、机を入り口の前に置きながら尋ねた。
「いえ。今度こそ、国民のためだと思います」
 長谷部は、細谷の顔を見ながら笑顔を見せた。
「なら良かった」
「どういう意味です?」
「トップに立つ人の、気持ちが揺らいでいると皆が付いてこないということだ」
 細谷は、そう言うと笑顔を見せた。
「トップって?」
 老人は、長谷部の言葉を手で遮って後ろを振り返ると、「皆さん。警察から我々を守るためには、全員が協力しなければなりません。少しでも時間が稼げれば、突破口が開けるかも知れません」と少し大きな声を出した。
「まさか、あなたは山下さんの部下?」
「いえ。残念ながら違います」
 細谷は、残念そうな顔になった。
「官邸の中に入った皆さん。あなた方は、不法に官邸を占拠していることになります。今なら不問に付しますので早く出てきてください。このまま占拠を続けると、罪に問われる可能性もあります。速やかに退去してください」
 金髪の若い男の気持ちを察したように、青山の声が拡声器から聞こえてきた。
 官邸の中の群衆たちは、うろたえ始めた。
 その男は、バリケードを作っている男たちやその光景を眺めている男たちとは違って初めて入った官邸の内部を珍しそうに見ていた。行きがかりとはいえ、せっかく入った官邸の中を見てみたいという好奇心に駆られ階段を見て登ることにした。上にはいったい何があるのだ? その男は、階段の上に登って防火扉が閉まっていることに気が付いた。防火扉に備え付けられた小さなドアのノブに手をかけて、ドアに鍵がかかっていることに気が付き、「ドアが閉まってるぞ!」と下にいる人たちに叫んで慌てて廊下を駆け降りてきだ。下にいた群衆は、一斉に駆け降りてきた男に視線を向けざわついた。
「袋の鼠?」
 金髪の若い男は、ぞっとして呟いた。
「どのみちここに入った時から、我々は袋の鼠のようなものだ。上に神経を使わずに済むだけ楽になる」
 細谷は、冷静な顔で答えた。立てこもり犯は、広い官邸を外と隔離するために防火扉を閉めドアに鍵をかけたのであろう。鍵をかけてしまえば、機動隊が突入するとしても時間が掛かり立てこもり犯に対応する余裕が生まれる。当然のことであろう。
「迂闊でした」
 長谷部は長谷部は、自分が上のことに気が付かなかったことを恥じた。
「この状況じゃ仕方ない」
 老人は、周りを見回しながら言った。
「今なら、間に合うかも知れない。帰りたい奴は早く出て行くんだな」
 長谷部は、全員を見回して少し大きな声を出した。
「いいっすか?」
 金髪の若い男は、嬉しそうな声を上げた。
「もちろんだ。君は、自由だ。俺たちが、決める事じゃない。君自身が決めることだ」
「俺が?」
 金髪の若い男は、少し考えるそぶりを見せたが、「いいっす。手伝うっす」と言って、長谷部の隣に来て机を運ぶのを手伝い始めた。
「どうした? 警察に捕まるかも知れないんだぞ」
 長谷部は、驚いて机を床に置くと金髪の男を見た。
「後悔したくないっす」
 金髪の男は照れたような顔を見せたが、長谷部が不思議そうな顔で自分を見ているのに気がつくと、「これって、良いことっすよね」と尋ねた。
「犯罪だが、悪いことじゃない」
「じゃあ、やっぱ、手伝うっす。今まで、悪いことして捕まったことはあるけど、今度はいい事をやって捕まるっす」
「名前は?」
 長谷部は、右手を差し出しながら尋ねた。
「大沢次郎。普通の名前っす」
 大沢は、面食らって自分の名前を言った。
「これから同志だ。よろしく頼む」
 長谷部は、右手を大沢の近くまで力強く持っていった。
「俺が、同志…? いいっすか?」
 大沢は、やっと長谷部の手に気がつくと恐る恐る大沢の右手を握った。長谷部は、頼もしそうな顔で力強く握手した後に大沢の肩を叩いた。
「頼んだぞ」
「はい」
 大沢は、今までで一番自信のある声を出した。
「さあ、出るなら今のうちだ。遠慮はいらないから帰ってくれ」
 長谷部は、残りの群衆に呼びかけた。
「と、言われてもな…」
 前の方にいた若い男が、ボソッと言った。
「どうしたんだ?」
「帰る家がないんです。今日寮を追い出されました」
 若い男は俯いて、「だから、街をぶらついていたらニュースでやっていて、もう我慢できなくなって来たんです」と言ってうな垂れた。
「派遣社員だったのか?」
「はい。彼の話を聞いていて、何か自分だけのために来たのが恥ずかしくなったんです」
 若い男は、うな垂れてしまった。
「そんな事はないさ。誰だって自分の事を一番に考える。恥ずかしいことではない」
 長谷部は、若い男の肩にいたわるようにそっと手を置くと全員を見回した。
「私の、行きがかり上の言葉に咄嗟に行動を共にする羽目になった。申し訳ない」
 長谷部は、そう言うと深々と頭を下げた。
 長谷部が頭を下げたことで、少しざわめきが起こった。何を今更と思っている人、自分のこれからの事を心配し始めている人。何も考えられず、途方にくれている人。何とか、この場を逃れて自分だけ助かろうと思っている人と様々な考えが錯綜した。
「とにかく今、自分の意思で考えてくれないか。これから、犯罪者になるかも知れないんだ。後悔してここから出て行きたいと思う人は、事が大きくならないうちに出て行ってくれ。卑怯でも臆病でもない。それが当たり前だから堂々と出て行けばいい」
 長谷部は、全員を一人一人見ながら言葉を続けた。
「勝算は、あるんですか?」
 サラリーマン風の男が、尋ねた。
「そんなものない」
 長谷部は、あっさりと答えた。群衆からどよめきがあがり、浮き足だってきた。
「勝算があるかも知れないと思っている人がいたら、すぐ出て行ってください。我々は、巨悪と戦っているのです。しかも、国家権力です。いくら、我々の主張が、正しいとしても、犯罪者には違いない。私は、甘んじて犯罪者になることを決めて来たのです。だから、皆さんには、自分の気持ちに正直になってもらいたい。後悔してほしくはありません」
 長谷部は、もう一度全員を見回しながら熱く語った。

 群衆は黙ってしまった。所々から溜息が聞こえるほど、静かになった。自分の事しか考えていないのを恥じているのだろうか。これからの事を、どうしようかと思い悩んでいるのだろうか。それとも、後悔しているのだろうか。長谷部は、人それぞれの想いがあるのだろうと思って、「もし、最後まで戦おうと思う人は、安心してください。私が首謀者だ。主犯になる。だから、少しは罪が軽くなるはずだ」と、言葉を続けた。
 群衆の真ん中の方が、少し騒がしくなってきた。「ちょっと、ごめんなさいよ」と、しわがれた声が聞こえてきた。群衆を掻き分けるようにして、一人の老人が長谷部の前に現れた。長谷部は、自分の言葉が通じたと思って少しほっとした。このままここに残っていれば烏合の衆になってしまう。帰りたい人は、早く帰ってもらいたい。これが、長谷部の偽らざる気持ちでもあった。
「あんた、名前は?」
 老人は、長谷部の顔から全身を睨め付けるようにして見ながら尋ねた。
「長谷部治夫です」
 長谷部は、訝りながら答えた。そう言えばまだ自分の名前を知っているのは少ししかいない。
「そうか。零細企業の社長のような風貌だな」
 老人は、場違いなことを言った。
「当たっています。しかし、もうすぐなくなります」
 長谷部は、正直に答えた。円高で業績不振の所に東関東大震災で電気代が上がり、最後に円安になり原料が高騰。経費が高くなりあとひと月もしないうちに不渡りを出す状況にまで追い込まれた。
「正直でよろしい」
 老人は、満足そうな顔をして、「で、破れかぶれでこんな事を?」と、質すような顔で尋ねた。
「最初はそうでした。しかし、ここまで来れば、私の個人的なこととは別問題です」
 長谷部が正直に答えると、老人はもう一度長谷部の目を見ながら、「これから、一緒に戦うんだ。首謀者を信頼できなければな」
 老人は、満足そうな顔をして、「わしは、善財靖男という老いぼれだ」と、名前を名乗った。
「なんだ。ガキと老いぼれだけか」
 悪態をついた男の声の主を、群衆たちが一斉に見た。その男は、満員電車で乗客が降りるときにするように、傍若無人に無言で群衆を掻き分けて長谷部の前に出てきた。男は、三十台半ばか、派手なスーツを着ていた。顔はふてぶてしく眼は鋭く、一見危ない筋のように感じられた。
「人に、老いぼれ呼ばわりされるいわれはない!」
 善財は、男の容貌は意に介さず、「これでも、若いときは格闘技をやっていたんだ」と、食って掛かった。
「老いぼれに、老いぼれと言って何が悪い」
 男は、鼻でせせら笑った後に、「仕方ない。俺も手伝ってやる」と、意外な事を言った。
 善財や、細谷が怪訝な顔で見ているのに気がつくと、「俺は、社会がどうの、政治がどうのとは考えねえ。ただ、俺の仕事が、めちゃくちゃにされた恨みがあるんだ。この落とし前はちゃんと付けてやる」と、言って外にいる機動隊の方を睨みつけた。
「あんたは、闇金か?」
 細谷が、蔑んだ眼を向ける。
「俺は、外道じゃねえ。ちゃんとした金融会社だ」
「サラ金か…。似たようなものだ」
 細谷は、言下に切って捨てた。
「これでも、まっとうな方だ。厳しい取立てだってやってない。なのに、利息がグレーゾーンだと言って利息が減って、中小の俺たちはやっていけなくなった」
 男は、初めて弱気な顔を見せた。
「警察に捕まるかもしれないのですよ」
 長谷部は、男の決意を確かめてみたくなった。最初は威勢がよいが、いざとなったらどう転ぶかも知れない。
「警察? そんなこと恐れていたら、俺たちの稼業は成り立たねえ」
 男は、事も無げに言った。
「解りました。ご協力感謝します」
 長谷部は、頭を下げた。
「とんだ茶番だな」
 群衆の中から、一人の男がまた出てきた。男は、サラ金の男とは正反対の地味なスーツにノーネクタイ。顔は、面長でどこかさめたような眼差しで長谷部を見ていた。
「何だと!?」
 サラ金の男は、出てきた男を眼で威嚇した。
「付き合ってらんないと言ってるんだ」
「なにお!」
「あんたらは馬鹿か? ここには、百人以上の人間が集まっているんだぞ。外には機動隊が取り囲んでいる」
 男は、呆れた顔をしながら、長谷部たちを見回して、「俺は、帰らせてもらう。茶番に付き合っていたら、全員の気持ちを聞く前に機動隊が押し寄せて一網打尽じゃないか」と、呆れた顔をした。
「なるほど。君の言うとおりだな」
 長谷部は、納得すると群衆に向かって、「彼の言ったとおりだ。もう時間は残されていない。今から、三分後に決めてくれないか」と言った。
 群衆は、ざわめいた。困惑する者。浮き足だつ者。手じかにいる人間に話し掛ける者。と、様々だった。
「三分立って出て行くことを決めた人は、全員一緒に出て行ってください。多ければ、何回かに別けて実施します。その方が安全です」
 長谷部は全員に告げると、造りかけのバリケードの隙間から入口に歩み寄り、遠巻きに取り囲んでいる機動隊員たちに向かって、「ここから出て行けば、罪には問わないんだな!」と、大声を張り上げた。
「もちろんだ!」
 青山の声が拡声器から聞こえてきた。
「解った。三分後から数回に別けて出て行く。出て行ったメンバーが安全だったら、次のメンバーが出て行く。解ったか!?」
 長谷部は、少しほっとして大声を張り上げた。
「解った」
 青山は、即座に答えた。
「やっと解決ですね」
 傍らの部下がほっと溜息をついた。
「なら良いが」
「どういう意味です?」
「あの男は、警察を信用していないと言うことだ。それに、やけに素直になったと思わないか?」
 青山は、さっき長谷部が言った、『警察が怖いやつは来なくていい。この国を救いたい奴は、俺について来い!』と言う言葉を思い出して、いやな予感がした。そんな男が、おとなしく出て来るとは思えなかった。
「まさか、ドサクサにまぎれて、立てこもり犯も出て来ると?」
 部下は、青山の真意を図りかねて尋ねた。
「それはないだろう。あれは、行き掛りに過ぎないと思っている」
「でも、ここで手を拱いてみているしかないというのも歯がゆいです」
 部下は、溜息をついた。
「立てこもり犯が、要求しているんだ。仕方がない」
 青山は、犯人が立てこもっているはずの総理の執務室を恨めしそうに見上げた。

 「あんた。降伏するのか?」
 サラ金の男は、胸倉を掴みそうな剣幕で長谷部に食って掛かった。
「誰が、降伏すると言った?」
「だって、出て行くと」
「全員とは、言っていない」
 長谷部は、そう言って笑顔を見せた。
「これで、木っ端役人たちに一泡吹かせることが出来る」
 細谷は、ほくそえんだ。
 群衆たちは、隣と何か囁き合っている者。腕組みをして、考えている者。考えがまとまらないのか、顔をきょろきょろさせている者。頭を抱えて、座り込む者。と、三分の猶予に、様々な表情を見せていた。
 長谷部は、そろそろだと思い時計を見て、三分が過ぎていることを確認した。
「三分経ちました。帰る方は、入り口に集合してください。残る方は後ろに下がってください」
 長谷部は、群集に向かって話しかけた。きっと、殆んどの人間が入り口の前に集まるだろう。もっとも、何の武器もない我々が、訓練を受けた機動隊に歯が立つはずはない。と、心では思いながら、どうする事も出来ない自分の力の限界を感じた。
 群衆たちは、だらだらと動き始めた。半数以上が、躊躇いながらも後ろに下がった。前に進んできた群衆は、四十名ほどだった。
「皆さんありがとう」
 長谷部は、後ろに下がった群衆に深々と頭を下げた。長谷部は、嬉しかった。感動を覚えた。が、自分の一言がこういう結果をもたらしたことを後悔していた。
「頭を上げてください」
 群衆の一人が、言った。
「そうです。私は、あなたに強制された訳ではない。自分で決めただけです」
 もう一人の男が、言った。
 長谷部は、頭を上げると、「私は、あなた方を守ることも出来ないかも知れない。相手は、国家権力です。悪法もまた法なりです」と、後ろに下がった群衆に言った。
「それぐらい、解っています」
 頭を上げてください。と言った男は、ドアの外を遠巻きにしている機動隊員たちを見ながら言った。
「これが、最後です。今出て行かないと、後で後悔するかも知れません」
 長谷部は、これからどうなるか分かっていた。機動隊員たちが雪崩れ込んできて、抵抗する間もなく逮捕される。我々の存在価値は、その光景を、国民に見せる事しかない。
 長谷部の言葉を聞いて、前に進み出した者の中から数人が後ろに下がった。
「ありがとう。私みたいな者に従ってくれて…」
 長谷部は、もう一度後ろにいる群衆に頭を深々と下げた。暫くして、頭を上げると、前に進み出た群集に向かって、「お疲れ様でした。おそらく、あなた方は無事に家に帰ることができると思います。安心して、帰ってください。念のため、出来るだけ固まって我々から見えるようにしてください」と、ねぎらいの言葉をかけた。
「お涙頂戴も、ほどほどにしたらどうなんだ」
 付き合ってらんないと言った男が痺れを切らせたのか、呆れた顔をしながら声を掛けた。
「では、ドアを開けます。くれぐれもあわてないで下さい。私が、機動隊に声を掛けます」
 長谷部は、男には何も答えずゆっくりと入り口のドアへ向かった。男に腹を立てたのではない。自分が歳のせいか、感情に押し流されている事を知らされたからであった。これから、どうしたら国民を味方につけることが出来るか考えなければならない。
 長谷部は、あることに気がつき小さな紙を取り出すとなにやら書いて、「携帯電話を持っている人はいますか?」と、帰る群衆に尋ねた。
「私が持っています」「私も…」
 数人の男が答えた。
 長谷部は、メモを最初に答えた男に手渡してから、「これが、私の番号です。安全な所まで行ったら、連絡してください」と伝えた。とりあえず、これから出て行く四十名ほどが無事に出ていくことを見極めるのが先決だと思い、ドアを少し開けてから、「今から出て行く。まず最初に四十名ほどだ。手出しはするな」と、機動隊員に向かって大声を張り上げた。
「解った。安心していい」
 青山は、そう答えると、部下に何かを指示した。機動隊員たちは両側に寄って、道を開けた。長谷部は、少し様子を窺ってから、「今です。ゆっくりと慌てず出て行ってください」と言って、帰る群衆たちに道を開けた。
 帰る人たちは、言われたようにゆっくりとした足取りで入り口に向かってきた。ひとりがやっと通れるほどに開いたドアから、何事も無かったように整然とした足取りで一人一人出て行った。
「申し訳ない」
 群衆の一人が、長谷部の方を振り返って謝った。
「いいえ。これが当たり前です。我々の方がおかしい」
 長谷部は、そう言って苦笑いした。
「でも…」
「早く。こちらの手を、読まれるかも知れません」
 長谷部は、名残惜しそうな男の背中を押して、「皆さんの気持ちは、一生忘れません」と言って頭を深々と下げた。また、お涙頂戴と言われかねないと思いながらも、今言っておかないともう二度と会うことはない人たちだという事も身にしみていた。一期一会という言葉を思い起こさせた。
 帰る人たちが殆んどドアの外に出た後に、長谷部は後ろを振り返った。付き合ってらんないと言った男が、長谷部の後ろに立っていることに気がついた。
「早くしてください」
 長谷部は、男のことが気になり声を掛けた。
「気が変わった」
 男は、照れ笑いをしながら、「正しいことをして、留置場も悪くない」と他人事のようなことを言った。
 長谷部は、言葉を失った。
「遠藤という。よろしく。どうせ、機動隊と戦うなんて芸当は出来ないだろ。せいぜい、機動隊をてこずらせることしか出来ない。それも面白いと思っただけだ」
 遠藤は、ふてぶてしく笑った。
 帰る群衆は、全員ドアの外に出た。
「ゆっくり歩いていって下さい。我々が、後に続くと思って手出しはしないはずです。もしおかしいそぶりを見せたら、私がけん制しますから安心してください」
 長谷部は、帰る人たちに向かって小さな声で言った。群衆たちは、ゆっくり頷くと言われたとおり出来るだけ固まって出口のゲートを目指した。 

 青山は、最初の群衆が官邸を後にしてから十分以上経っている事を時計で確認しながら官邸の中を注視した。群衆たちは、一塊になって床に座っているようだ。青山は、やられたと思った。あの男は、群衆を無事に帰すために嘘を言ったに違いない。青山は、無駄かもしれないと思いながらも拡声器を官邸に向けて、「官邸の中の皆さん。最初に帰った人たちは、そのまま帰しました。皆さんも速やかに官邸から退去してください」と穏やかな口調で言った。
 青山の声を聞きつけて、一人の男がドアまでゆっくりと歩いてくると、「悪いが、俺たちは残って、最後まで戦う」と、怒鳴り返してきた。
「ここは、包囲されています。これ以上官邸内に留まるなら、実力行使に訴えます」
 青山は、賭けに出た。群衆が官邸内に雪崩れ込んですぐ、突入するなとの命令を受けた。まだ立てこもり犯と群衆が、接触した様子はない。ここは、群衆に不安を与えて動揺させるしかない。
「そんなこと言っても、大丈夫ですか?」
 傍らの部下が、心細そうな顔で尋ねた。
 青山は、返って部下が動揺していると意外な展開に驚いたが、「突入するとは、言っていない」と、部下に告げてから、「我々は、あの男に騙されたのだ。これは、自分のささやかな抵抗だよ」と言い訳のような言葉を付け加えた。

 「みなさん。これから機動隊が突入して来ます。我々の武器は、肉体だけです」
 長谷部は、スクラムを組んで床に横たわっている群集に向かって告げた。ヘルメットに軍手をはめて、口には催涙弾から身を守るタオルを巻いて最後の抵抗をした昔が蘇ってきた。最前列には、十人ほどの老人がいた。老人のたっての頼みとはいえ、老人を盾にするようなことは本位ではなかった。老人たちは、まさか老いぼれに対して暴力は加えないだろうということで時間を稼げるはずだと主張した。長谷部は、仕方なしに同意した。 

 津本は、堀の机の前に置かれたソファーには座らず立ったまま堀を睨みつけていた。堀は、津本には目もくれず試案に目を落としていた。
「考えは、変わらないのか?」
 津本は、自分の立場を利用して堀を懐柔しようと試みたもののあっさりと断られていた。こいつだって、官僚組織の一員のはずだ。何故自分たちを守ろうとしないのだろうか、と。
 堀の部下たちは、津本が来る前に全員到着していて津本と堀のやりとりを固唾を呑んで見守っていた。山下の試案の件で呼び出された堀の部下たちは、津本の考えがおかしいと思いながらも自分たちの運命がこれで決まるかもしれないと思うと、複雑な気持ちで二人の会話を聞くしかなかった。
「あなたこそ、何を考えているのでしょうか」
 堀は、試案から眼を津本の顔に移しながら眼を見て情けない顔になった。
「どういう意味だ? 上司の私に逆らってまで下らん試案と心中するつもりか?」
 津本は、睨みつけた眼をいっそう険しくした。
「我々の立場を、云々しているときですか?」
 堀は、怒りをはらんだ眼で津本を見た。
「それは、解っているつもりだ。しかし、犯罪者の戯言に付き合うつもりはない」
 津本はそう言うと、両手を堀の机の前について、「どうせ作るなら、我々の立場を無視するような物は作らないほうがお互いのためになる。違うか?」と、今までとはうって変わって少し顔をほころばせた。
「彼らが、いや、国民が本当に望んでいることは違うはずです。私は、せっかくの機会を逃すつもりはない。少しの改革でお茶を濁すのではなく、この国を一から作り直す覚悟でやらなければこの国は滅んでしまう。違いますか?」
 堀は、話を終わると逆に津本の眼を正視した。
「我々の立場は、どうなる? 今まで、日本を動かしてきたんだ。こんな犯罪者の作った紙切れで、われわれが今までしてきたことを否定されてたまるか」
「解りました」
 堀は、そう言うと、「川上君、試案のコピーを差し上げて」と、部下に指示した。
 津本は、堀の真意を図りかねて困惑した顔を堀に向けた。
「どうぞ」
 部下は、試案をコピーした紙を恐る恐る津本に手渡した。
「何を…、考えている?」
 津本は、困惑した顔で試案を受け取った。
 堀は、津本の言葉に耳を貸すつもりはなく、「あなたは、お茶を濁せばいい。私は、試案を参考にこの国を一から作り直す覚悟です」と、毅然とした態度で言い放った。
 津本は、手渡された試案をわしづかみにすると、「覚えておけ!」と、捨て台詞を残して部屋を出て行った。
「君たち、あんな愚かな男のことは考えないで国民のためだけを考えて試案をまとめてくれ」
 堀は、浮き足立っている部下たちを見回しながら優しい口調で言うと試案の続きを読み始めた。

7.9月21日23:30
8.9月21日23:50

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