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市井の片隅で(老境)文學界新人賞 2017年応募作品

解説

 この物語は、2017年に著し文學界新人賞に応募した作品です。一人の無名な老人(私の近い未来かも?)を通して、私のライフワークでもあるベーシックインカムの易しい解説のような物語にしております。
 それが災いしたのか? それとも私に能力がなかったからからか、一次選考にも残りませんでした。
 前に投稿した「健太が行く(2009年執筆)」も、第三部で社会保障に言及しております。それを発展的にしたのが、ベーシックインカムになります。
 皆様に評価されるか分かりませんが、是非ご覧になってみてください。

来 客

 私が入居しているシニア向けシェアハウスには、ヘルパーの資格を持った常駐のスタッフが一人いる。まだほとんどの入居者が元気なのだが、朝食と夕食の支度や介護が必要な入居者の面倒を見てくれている。
 定員は十八名で、現在全室が埋まっている。六畳ほどのフローリングの部屋に、ベッドと冷蔵庫それに小さな机とプラスチック製のキャビネットが数少ない家具になる。衣類は、備え付けの小さなクローゼットでも十分な余裕がある。

 他に異彩を放つのが、パソコンの存在である。ディスプレーは最新のものだが、そろそろ買い換えなければならないデスクトップパソコンに文字が時々かすれるプリンターでも数少ない私の自慢だ。
 テレビはない。パソコンにテレビチュナーをつけているため必要がないのだ。テレビを見ながら、エクセルやワードを使えることで不自由していない。それにチュナーは、一万円弱と安価で当然録画機能も付いているので重宝している。狭い部屋を、少しでも広く使うための工夫でもある。パソコンには、私の書き溜めた小説とホームページのデータが格納されている。

 私は、先々のことを考えてこのシェアハウスに空きが出来たため数ヶ月前に入居した。まだ足腰には多少の自信はあるものの、いつヘルパーさんの厄介になるかも分からない年齢に私も達したと自覚した。
 私は、元気なうちにヘルパーが常駐しているこのシェアハウスを選んだ。他の住人とのコミュニケーションやこの地方の環境に、元気なうちに慣れておいたほうが良いと考えたからだ。ヘルパーさんが帰った後も、何かあれば電話一本で駆けつけてくれる。幸いまだこのシェアハウスで介護が必要な老人たちは少なく、ほとんどの老人が通常の生活を送っている。私も、その一人である。

 私は、パソコンのキーボードから手を離すと、自分のホームページを眺めながら今までの人生を振り返る気になった。

 老境に差し掛かった私は、余命を告げられた訳でもなく一応年齢の割には健康である。体力が落ちたとはいえ、まだ食欲はある。それでも、そろそろ自分の人生を振り返る時ではないかと思うようになった。

 私の人生は、つまらない人生だったのだろうか…。寂しい人生だったのだろうか…。と、自問してみる。答えはない。誰も答えてはくれない。自分で、答えを出すしかないのだろう。
 自己満足ではなく、誰からも納得いく答えを出したいと思った。平凡とは程遠い人生のような気もするが、子供を作らなかったために寂しい人生には違いない。子供を作らなかったと言えば聞こえはいいが、作れなかったのだ。
 私は、二度の結婚をしたものの子供を作る行為をしたことがない。信じられないかもしれないが、綺麗な関係のままであった。結婚はしたものの、妻には愛されてはいなかったのかも知れない。誤解の積み重ねが原因かも知れない。女性に対しての自信がなかった私の責任かもしれない。特に2回目の結婚は、妻の連れ子の女の子と折り合いが悪く、結果別れてしまった。その女の子も、今は立派に成人しており、結婚して幸せな生活をしているようだ。

 私の人生は、無意味だったのだろうか…。とも、自問してみる。
 答えはない。誰も答えてはくれない。窓の外に広がっている大空を仰ぎ見てみた。なんと雄大な自然なのだろうか。晩秋の天は高く、所々にゆったりと雲が浮かんでいる以外は晴れ渡っていた。遠くに見える山々は、私のちっぽけな人生をあざ笑うかのように何事にも動じない重厚間を漂わせているかのように見えた。ちっぽけな自分の存在に比べ、大自然は大きく絶大な圧倒感を私に見せつけているだけで何も答えてはくれない。

 書いた小説も、日の目を見ることはなかった。日本の抱えている問題を私なりに解決する提言を、『超緊急提言』と題して主だった政党に送りつけても何の反響もなかった。『超緊急提言』を内容とした、『超緊急提言 日本再生への提言』というホームページも立ち上げた。しかし、話題になる事はなかった。結果的には、自己満足に過ぎなかったのだろうか。才能がなかったのだろうか。

 この歳になっても諦めきれない。悪あがきなのだろうか。未練がましいようだが、やり残したと思うことにした。まだ寿命があるのであれば、どちらかの夢を叶えたいと考えている。
 この歳になると、小説よりも日本の問題を解決できるかも知れない『超緊急提言』の方が、優先順位が自ずと高くなってきた。個人的な夢ではなく、私が生きているうちにせめて日本の行く末に少しでも関わりたいと考えたからだ。それは、私の生きた人生に少しの意味を見出すに違いない。

 私は、自分が有名になりたい自己顕示欲の塊のような男ではないつもりだ。むしろ、逆の立場だ。私は、自己顕示欲の塊のような人間が嫌いだからだ。自分本位な、傲慢で勝手な薄っぺらい人間だと考えているからに他ならないからだ。

 私は、四十を超えてから何故か小説を書こうと考えるようになった。しかし、日の目を見ることはなかった。非正規雇用に甘んじるようになった私は、様々な社会保障の矛盾点を自らの体で体験する羽目になった。
 雇用保険や生活保護、それに年金など日本の社会保障について私なりに疑問が沸いてきた。ボーダーラインで区切られ、ボーダーラインの上と下では扱いが違いすぎるのだ。
 現在の私は、生活保護世帯以下の年金で細々と生活をしている。が、生活保護を受けるつもりはない。理由は単純である。生活保護の上限が災いしている。まだ健康な私が少しでも働けば、すぐに生活保護が打ち切られる額だからだ。ボーダーラインすれすれの、年金額ということでもある。独身が幸いしてか、ひとりの気ままな生活を送っている。
 都心から離れているため、シェアハウスの家賃は低く生活保護以下の年金収入でも細々と暮らす事はできる。

 私は、今までの自分の体験や世の中の不条理に怒りを覚えた。そこで『超緊急提言』と題した提言を作成し、主だった政党に送りつけた。何の反応もなかった。そこで、ホームページを作成し、広く世間に訴えるつもりでホームページを立ち上げた。しかし、閲覧の数は伸びなかった。

 私は、寂しい人生を送ってきたことは認めざるを得ないものの、そのお陰で『超緊急提言』を書く事が出来たと思っている。幸せな人生を送っていれば、子供に恵まれれば、多少の不満を持っていても提言など書く気にもならないだろう。それに、そんな余裕はないはずだ。

 普通の結婚生活をしていれば、妻との会話やショッピングなど付き合う時間が必要になる。子供が生まれれば、子供の育児・教育など時間が必要になる。私が優秀だったからではなく、単に寂しい人生を送っていたから時間に余裕がありここまでの事ができたと言っても過言ではない。

 別の考え方をすると、自分の不遇な境遇を乗り越えて、昇華したとも言えるのだが…。今まで何の反響もないことを考えると、内容が現実と懸け離れているからなのだろうか。それとも、考えが稚拙だからか。
 そんな事はないはずだ。と、思いたい。が、現実は私にとって絶望的である。『超緊急提言』の内容が稚拙ではなく現実とかけ離れすぎているのであれば、まだ私の提言には望みがあると考えている。それは、国民の誰かが、為政者の誰かが、気が付いてくれれば私の提言に目を向けるという可能性があるからだ。現実がおかしいと気づけば、では、どうすれば良いのかを考えるからだ。その中の選択肢の中に私の提言、『超緊急提言』が注目される事も考えられる。

  私の主張は、単純である。大げさに言えば孫子の兵法になる。国力のない国が行う戦いは、一点突破である。敵の弱いところに全兵力を投入して自軍を勝利に導くやり方である。
 体力が落ちた日本で優先順位を考え、優先順位の高いものだけに予算を回す事を考えたのだ。優先順位の高いものとは、社会保障だと考えている。
 一度の挫折で、一度の失敗で、一度の怪我や病気などで、人は簡単に人生が狂ってしまう。
 そんな人たちを救うために、もう一度チャンスを与えるために、本来の社会保障制度があるはずではないか? 他にも日本の国家予算のなかで、社会保障費は予算の多くを占めている。日本の社会保障の場合は、労働意欲をそぐ事しか考えていないとしか思えず上限が漏れなく付いてくる。

 雇用保険では、支給される雇用保険に上限がある。今まで高給を貰っていても、家族が多くても月額二十数万円が上限となる。雇用保険で生活できない人は、蓄えを切り崩さなければならない。
 蓄えがない人は、生活保護に頼らざるを得ない。しかし一部の不正受給などにより、本来生活保護が必要な人が肩身の狭い思いをしている。本来生活保護を受けられる人でも、自分が該当すると知らない人や予算の関係からかハードルが高いところも存在するようだ。
 生活困窮者に厳しく、生活保護を受給させないようにしているとしか思えないところも存在する。同じ日本の国民だというのに…。

 年金との兼ね合いもある。私のように年金が少ない人や無年金の人は、老後に生活保護を受給するしか生きる道は残されていない。年金を払わず、老後に生活保護を受給する方が現在の生活が楽になる。
 それでは、年金を支払う意味が薄れてしまう。少子高齢化で年金の破綻が懸念されているが、非正規雇用や低賃金の若者が増加し年金を支払う余裕すらない人が増加していることも事実ではないだろうか。
 収入の格差は増大し、未来に希望を持てなくなっているのが日本の現状ではないのか。そうなら、景気が良くなるはずはない。
 そもそも、生活保護を受けられる国民がどれだけ存在するかも地方や政府は、把握すらしていないのではないか。
 生活保護の申請が無いからといって、困窮していないとは限らないからだ。その証左が子供の貧困率ではないか。
 絶対的貧困には、生活保護が支給される。が、現在話題になっている相対的貧困には、贅沢だ生活保護を貰っているのにという枕言葉が付いて世間の目は厳しい。

 平たく言えば、貧乏人の子供は大学に行くな。パソコンを持つな。スマホなんか贅沢だ。になる。そうして貧困は、遺伝のように受け継がれていくのかもしれない。それでも、貧困から這い上がる人間も存在するが、それは一握りでしかない。

 私は、その解決策として、景気の浮揚策を捨てた。株が上がっても恩恵は一部の人間にしかない。いびつな社会保障は、金を持っている老人の財布のひもをより固くし、金のない人は現状から脱却できないから自ずと景気になんら関与できない。そこで、無理やり国が収入の格差を是正する事を考えた。ベーシックインカムの導入である。

 そんな取り留めのないことを考えている時、私の想いを遮るようにドアがノックされ、「松原さん、お客様ですよ」と、シェアハウスのスタッフ佐々木の声が聞こえるとドアがすぐに開いた。

「お客さん?」
 私は、少し驚いた。この歳になって、ただでさえ少なかった友人や知り合いが鬼籍に入りもう数えるほどしか残っていない。そのほとんどは、当たり前のようにスタッフに声を掛けるだけで自分からノックして勝手に入ってくる。スタッフを介しての訪問は皆無に近いし、スタッフが声を掛けるときも、『お客様』ではなく、『○○さんですよ』と名前を告げてくれる。
 いったい誰だろうと訝っていると、「どうぞ。こちらが、松原さんのお部屋です」と、スタッフの佐々木は、背後にいる来客に向って案内した。

 私は、現れた男の顔を見ると少なからず驚くとともに少しの希望が…、忘れかけていた希望が、少しだけ頭の片隅を過(よ)ぎった。
 何で今更? という疑念も湧いてきた。私のホームページは、もう十数年前から開設している。それだけではなく、『超緊急提言』と題して何度も主だった政党に送り付けている。
 四度送りつけて何の反応もないため、『超緊急提言5』を、執筆中なのだ。執筆中といえば聞こえは良いが、私の自分勝手な一方的な想いをパソコンに打ち込んでいるだけかも知れない。
 来客との話で答えが出るのかもしれないと考えると、私は無意識に身構えていた。私が無名のおじさんだったからか、内容が一方的な思い込みだったからか、それとも稚拙だったからか定かではないが、今まで何の反応もなかった。
 無名のおじさんも、歳を重ねて無名のおじいさんになってしまった。そんな老人に、何の用があるというのだろうか? 私は、訝りながらも少し興味を覚え会うことにした。私は、立ち上がって来客を迎えると、「始めまして、私は、松原雅之と申します」と挨拶した。

「私は、小柳次郎です」
 来客は、名前を名乗ってから手を差し出した。来客の男は、与党で頭角を現してきた衆議院の代議士小柳次郎であった。私は、複雑な顔になり少し逡巡したが、小柳に答えるように小柳の手を握って握手した。

 私は、来客に席を勧めた。ソファなどという洒落た椅子ではなくシェアハウスで使用している背もたれがあるだけの小さな椅子であった。ドアの外にある食堂兼居間では、入居者が少し騒いでいる喧騒が漏れ聞こえてきた。
 歳を重ねてもまだミーハーなのかもしれないし、政治家がここに訪れる事などありえない。こんな機会はめったにあることではないことも事実である。マスコミはいないようだ。と、いう事は。お忍び? 

 小柳は、「有り難うございます」と言って、私の勧めた椅子に固辞することもなく素直に座ると、「インターネットですか」と、私の前のパソコンを覗き込んで、少し感心したような顔をした。

「こんなもん、少しの知識と慣れれば誰だって出来ますよ」
 私は、答えていた。
「いや。私もパソコンは使いますが、その、少しの知識がないもので、ホームページもブログも任せっきりです。SNSとなると…」
 小柳は、少し恥ずかしいような顔をしたが、「もっとも、文章は出来るだけ自分で書きますが、そんな時間の余裕も最近ありません」と、自分が出来る事はしていると少しの自慢をする事は忘れていなかった。来客の男は、私をわざわざ持ち上げに来たわけではないだろう。

「で、ご用件は…」
 私は、相手の名前を聞いて、顔を見てから何しにこんな老いぼれを訪ねてきたのかおおよその検討はついた。が、敢えて訊くことにした。「今さら、こんな老いぼれに何の用でしょうか?」と、畳み掛けるように訊いた。私は、わざと少し嫌味っぽく尋ねた。
「そうですね。今さら遅いとおっしゃるお気持ちは、よく分かるつもりです」
 小柳は言ってから、私の目を正視した。私は、彼の目を真剣な目で見返した。彼の真剣な目を見たような気がしたからだ。小柳は、私の対応に満足したのか私の目から視線を外すと立ち上がり、「遅くなって申し訳ありませんでした」と言って深々と頭を下げた。

「あなたに、頭を下げてもらう謂われはありませんが…」
 私は、また嫌味な言い方をした。が、言葉通り、こっちが一方的に『超緊急提言』を送りつけたのだから謝ってもらう事柄でないことも事実だ。『超緊急提言』は、党本部に送付したため、党本部がそのまま『超緊急提言』を廃棄すれば当然議員は見ることもできないだろう。「それに、見ての通り歳を重ねすぎました。もう後期高齢者です。あなたのご期待に沿える歳ではありません」と、事実を告げた。
「私は、決意しました。あなたホームページに書かれた通り、今のままでは日本は駄目になる。近くに来る用事があったので、アポも取らずに突然お伺いした次第です」
 小柳は、私の言った言葉には答えなかった。

「決意とは?」
 私は、決意と言う言葉が気になり鸚鵡返しに尋ねてしまった。が、政治家の決意ほどいい加減なものは無い。彼はどれほどの決意を持っているのか気になったから、自然と口から出てしまっていた。少し意地悪な質問であったかもしれないが、彼の決意を聞いておきたかった。「新党を作ると言う事ですか?」と私は、続けて尋ねていた。
「まだそこまでは…」
 小柳は、お茶を濁すに留めたが、「ただ、同じ危機感を持っている同志と呼べる仲間は何名かおります。とりあえず、党派を超えた会派を立ち上げることを考えております。まず最初に、社会保障の勉強会を立ち上げるつもりです」と、答えた。

「社会保障の勉強会ですか…」
 私は、お約束のような勉強会に少し危惧を覚えた。が、福祉ではなく社会保障という言葉を聞いて少し安心した。
 あくまで私の個人的な考えであるが、福祉という言葉が嫌いなのだ。どちらかというと、施しに近い上から目線の言葉だと感じているからだ。社会保障はあくまで保障であって、それが当然の国民の権利になるからである。
 日本に合法的に居住している外国人にも、当てはまると考えている。何故か? それは、国が認めて日本に居住できるようになったからだ。私の推奨しているベーシックインカムは、日本に合法的に居住している外国人も適用する事が肝であるし、消費税分を上乗せする事もベーシックインカムを考えている人もそこまで考えていないのではないかと自画自賛している。

「あなたのご懸念は、理解できます。しかし、今の私にできることといえば、これぐらいしかないのも事実です」
 小柳は、伏目がちに答えた。私は、小柳の態度に真摯さを見た。小柳は、私の懸念が胡散臭い勉強会にあると考えたようだ。
 私は、彼が真意を語っていると素直に考える事にした。他に、私にも考えが及ばない事を考えているのかもしれないが、今の私には思いもよらない事に違いない。これからどうなるのか彼がどうするのか、私には見守るしか道は残されていないような気がした。
 私の考えは、ある筋から見れば過激に思えるだろう。既得権益を奪われると、思われても仕方がないことも事実だからだ。「そこであなたにお願いがあります」と、小柳は改まった顔になった。

「お願いとは、何でしょうか?」
 私は、少し戸惑ったが、「私のような者にお願いとは?」と、また意地悪な質問をしてしまった。
「実は、初めて行う勉強会の講師をあなたにお願いしたいのです」
「私が?」
 私は、突拍子もないお願いに驚いて小柳をまざまざと見た。小柳は、私の対応に一瞬微笑んだがすぐに真剣な顔になってはいと言って頷いた。
「私は、有識者でもなく無名ですし、学歴もない。講師など務まるわけがありません。何故、そんな突拍子もないことを言い出すんですか? 老人をからかうのは、止めて貰えませんか」
 私は、自然と口から出ていた。

「あなたは、有識者が嫌いなのでは?」
 小柳は、言ってから笑った。この人物は、私のホームページを閲覧してくれている。そこまで見ていてくれるんだ。と、私は嬉しくなったが、顔には出さなかった。それでも、私が講師とは突拍子もない…。私が答えに窮していると、「少なくとも、あなたは実学を学ばれたと私は考えたから、あなたにお願いしに来たんです」と小柳は、言葉を繋いだ。

「実学?」
 私は、一瞬戸惑った。実学とは、観念的で空疎な学問に対し、経験科学や技術に基づく実用的学問を呼んだ言葉である。小柳が言った実学とは、私の人生で経験したことを元に『超緊急提言』のホームページを立ち上げた事にあるのだろうか。私の長いサラリーマン時代に学んだ一般世間の常識と、その後の社会の不条理を見た私の怒りにも似た『超緊急提言』の内容を言っているのだろうか? と、疑問を持った。

「そう言われれば、長い間勤めた会社を辞めてから非正規雇用に甘んじて、暮らしは良くありませんでした。
 それに、社会の不条理をまざまざと見せ付けられてきました。才能や能力と収入は正比例しません。
 私が派遣で働いていたとき、能力があるのに派遣に甘んじるしかない数多くの人を見ました。失職してから雇用保険を受給しましたが、制度があるだけで制度を利用する側にとっては厳しい制度だと感じました。何故だか年甲斐もなく、小説家を目指すようになっていました。
 様々な賞に応募しましたが、一回一次選考を突破しただけ…。それだけの情けない結果でした。今更、私には才能がなかったとしみじみ思います」
 私は、先ほどまで振り返っていた私の人生を小柳に伝えていた。が、取り留めのない話となってしまった。

 小柳は、私の取り留めない話を最後まで聞いてくれた後に、「だから、あなたに講師になってもらいたいんです。形や数字だけではなく、生きた社会保障を実現するためには、学者や政治家には無理だと感じているんです」と言ってくれた。私は、少なからず驚いた。

隣 人

 その時、ドアを控え目にノックする音が聞こえ、「まっちゃん、いいかい?」と言う声が聞こえた。が、私の返事を待たずに、直後にドアが開かれた。今までの二人の会話が中断された格好になった。

 声の主は、同じシェアハウスの隣人河口であった。河口は、私を松原の松を取って親しみをこめてまっちゃんと呼んでいる。
 人懐っこい性格でもある。お人好しで、好々爺を地で行くような男である。私と河口は、何故か気が合い両方の部屋を行き来する間柄となっていた。
 河口も妻と離婚し今は私と同じ一人暮らしである。が、子供や孫がいて彼の部屋には、子供や孫の写真が飾られている。子供たちも年に何回かは訪れ、彼の部屋は賑わう。孫が来たときは、リビングで住民を巻き込んで遊びだす。
 私のような孤独な住人にとっては、迷惑ではなく孤独な時間を忘れるつかの間のひと時になる。別れた妻の写真も置かれている。彼らしいと思っている。未練がましいと思っているのではなく、彼の人柄がにじみ出ているような気がして微笑ましさを感じる。私が別れた妻の写真を飾らないのは、意地なのかも知れないが、写真を見る必要はない。私の記憶にちゃんと刻まれているのだから必要はないと思っているだけだ。まあ、コンピュータの中には画像があるから、たまには見ることもある。この歳になっても、まだ別れた妻を愛しているのかもしれない。

 河口は、歳を重ねた後の数少ない友人の一人なのだ。河口は、私のお客を芸能人でも見るように目を輝かせながら見ると、「私は、投票しましたよ」と、嬉しそうな顔になって手を差し出した。
 私は、先ほど漏れ聞こえてきた声の主たちの姿を見た。河口の後ろのリビングに、シェアハウスの住人たちが集まっている姿が見えた。シェアハウスのほとんどの顔ぶれがそろっていた。
 彼ら彼女らは、場違いな場所に信じられない人物が現れたことに戸惑っているようだった。河口は、自分から進んで部屋に入ってきたのかそれともシェアハウスの住人に促されたのかは定かではないが部屋に入るとすぐにドアは閉められた。その間際に、先ほどは分からなかったが立ってこちらを伺っている二人の若いスーツ姿の男が見えた。一人で来るはずはない。いや、勝手な行動は出来ないはずだ。二人の男は、尋ねるまでもなくSPに違いなかった。

 私を訪ねてきた小柳は、河口の手を両手で握ると「有り難うございます」と言った。

「私は、選挙に行きましたが誰にも投票していません」
 私は何も考えずに、唐突に事実を告げていた。知らずに口を挟んでいた。私の今までの行動を知ってもらいたいと思ったからだ。が、「もっとも前の選挙までは、別の選挙区に住んでいましたが…、国会議員にふさわしい人物はおりませんでした」と、真実を告げていた。もし小柳が候補者だったとしても、投票したかどうかは分からない。河口は、いつものように残っていた小さな椅子に勝手に座っていた。

「そうですね。あなたなら、『該当者なし』とでも書かれたのでしょう」
 小柳は、驚かず笑って答えたあとに、「あなたの考えている事に比べれば、私たちの主張など生ぬるいのでしょう」と、付け加えた。
「そんなところですが、日本をリセットして一から作り上げる覚悟がないと、日本は滅びてしまいます。いや、滅びないまでも、二流国に甘んじる事でしょう」
 私は、結論から述べる事にした。『該当者なし』は当たり前だが、ある選挙の時には、投票用紙いっぱいに白票を投じる理由を書いたこともあった。日本の政治は、そこまで堕落していると私には感じられたからだ。

「そうですね。お知恵を拝借するためにも私は、本日お伺いしました」
 小柳は、他の来意もあったようだ。
「お知恵などというたいしたものか解りませんが、私に答えられる事なら何なりと訊いてください」
 私は、小柳が勉強会の講師になる事を言わなかった事に追従して私も口に出さいようにすることにした。
 小柳と私の会話を訊いて河口は、「俺…。いや、私は、帰った方が…」と、只ならぬ気配を感じたのだろう。珍しく神妙な顔になった。

「いや、いい機会だ。君にも聞いてもらおう」
 私は、本心からそう思った。私は、「彼には、私のつまらない話を聞いてもらいました。それに彼の、率直な疑問や意見を聞いて私の考えが独りよがりではないと確信させてもらった一人です。同席してもらってもよろしいでしょうか?」と、小柳に尋ねた。

「もちろんですよ。さっきのお願いの返事は、後で聞くことにして私の覚悟を他の方にも知ってもらった方がいいし、それに同席していただいた方が私の覚悟があなたにも伝わる」
 小柳は、快諾した。
 河口は小柳の言葉に喜んだが、何度か小柳と私の顔を交互に見てから、私に向かって何かを問うような顔になった。小柳の私に対するお願いが気になったようだ。

「いやあ、今度社会保障の勉強会をやることになりまして、松原さんに講師をお願いしに来たんです」
 小柳は、河口の顔を見て、河口の疑念に気が付いたのかあっさりと来意を伝えていた。

「まっちゃんが、勉強会の講師!?」
 河口は、驚いた顔で私を見た後に、「勉強会って、国会議員の先生が、来るんですよね」と、念を押すように小柳に向かって子供のような質問をしたが、それだけ驚いたのだろう。

「まあ、最初は、十四・五人程度でしょうか」
 小柳は控えめに答えたが、十四・五人程度とはいえそれだけ賛同者がいるのだろう。当然小柳に擦り寄る議員もいるはずだから、どれだけの議員が本心から賛同しているかは分からないが…。
「まっちゃん、凄いな!」
 河口の私を見る目が変わった。
「まだ、返事はしていないんだ」
 私は、正直に答えた。君が来たから返事は出来なかったとは言わなかった。それにすぐ快諾できる内容でもなかった。

「え!?」
 河口は、信じられないような顔になり、「どうして? こんな機会めったにないじゃないか」と、私に向かって驚いた顔を向けた。

「私が行っても、こいつ誰だ? と、一蹴されるのが落ちだ。そんな人間が講師になってもちゃんと耳を傾けないだろう」
 私は、一番懸念している事を言った。
「そうかもしれないな。偉い先生方にとっては、どこの馬の骨かも分からないまっちゃんが講師になっても、聞く耳持たないかもしれないな」
 河口は、わざと偉い先生と言う言葉を使ったようだ。

「そんな事はありません。誰が講師かは関係ありません。内容が、重要だとは思いませんか」
 小柳の言葉に、河口は、「そうなんですが、あいつらがまともな神経を持っているとは考えられません。自分たちが、この国を牛耳っている。偉いと、勘違いしているんですから…」
 河口のボルテージも少し上がってきた。彼も、国会議員に対していい想いは持っていないようだ。河口は、しまった! という様な顔をして、「小柳さんは、違いますよ…」と、慌てて取り繕った。

「有り難うございます」
 小柳は、素直に感謝したが、「そういう意味も踏まえて、松原さんに講師をお願いしたいんです。こういう言い方をしては失礼ですが、無名の松原さんを講師に迎えてどういう反応をするかも見てみたいと考えたんです」と答えた。そうなのだろう。と、私は納得した。無名の私が、講師に招かれる事自体異例な事に違いない。その時、国会議員たちはどう反応するのか? 私も興味を持った。

 小柳は、河口に向かって、「あなたも同志なんですね」と、河口を驚きの目で見た。小柳は、あえて同志と言う言葉を使ったようだ。
「同志なんて、たいしたもんじゃありません。ただ、私だって、(国に)不満があるんです。まっちゃん…、いや、松原さんは、ポピュ…何とか(ポピュリズム)と言っていましたが、私は、それのどこが悪いと言いました。違いますか?」
 河口は、臆することなく与党の有力者に言った。が、さすがに緊張していることは手に取るように分かった。

「私も、同感です。松原さんの『超緊急提言』は、ポピュリズムなんかではありません。ちゃんと国民に痛みを感じてもらうことも提言されております。もっとも、痛みを感じてもらうほとんどは我々政治家や公務員になりますが…」
 小柳は、言ってから苦笑いした。私は、小柳が私のホームページをちゃんと見てくれていることを初めて知った。何故か少し、恥ずかしくなった。私のホームページに書いた内容は、多少なりとも小柳を納得させたのだろう。それでも、文章など体裁には自信がないことも事実だ。私の文章を見ているということは、私の文章力が裸にされた事も意味する。

「そうでしょ。まっちゃんは、税金と健康保険を五割にするって言うんです。まるで、江戸時代じゃないかと言ってやりました」
 河口は、江戸時代の年貢五公五民のことを言っていた。年貢が低いときは、四公六民だったから五公五民は重税に違いない。「でもその税金が、我々貧乏人に貰えるってことじゃないですか。だからという訳じゃないんですが、私は賛成しました」

「ベーシックインカムですね」
「そうです」
「でも、ベーシックインカムを導入すれば、働かない人が増えるという問題がありますが」
 小柳は、少し意地悪な質問をした。私は、小柳がわざと意地悪な質問をしたと思った。

「いいじゃないですか」
 河口は、こともなげに言ってから、「頑張ってもちゃんとした仕事に就けないで貧乏になっている人や、我々老いぼれなど仕事できない人が数百万人救われるんです。いや、もっと多いかもしれない。たった数万人のために、多くの人が困ってるんです。そんなやつ放って置けばいい」と、私の考えと同じことを言ってくれた。河口も私と同じ想いなのだろう。一握りの不正のため、国の事業が見直される。が、本当に必要な人には行き渡らず困窮する。それに、世間の風当たりも厳しくなる。

「そうですね。一握りの不正のために、大多数のまともな人間が迷惑するんです。ベーシックインカムを導入する事を検討するとなると、もっと難しくなります。河口さんが言うとおり、偉い先生の理解を得なければ先に進みません。そのいい機会だと思ったから、こうやってお願いに来た次第です。だからと言っては失礼ですが、あなたに偉い先生方の考え方を変えてもらいたいとも思っています」

「有り難うございます」
 私は、素直に礼を言った。私は、講師の依頼を受ける決意をした。が、その時胸が苦しくなった。私は、そのまま床に倒れこんだ。私の意識は、「まっちゃん!」と、私の名前を呼ぶ声を最後に途絶えた。

「まっちゃん、気が付いてよかった」
 私が眼を開けると、河口のほっとした声が聞こえた。そこは、病院の病室だった。私の視界に点滴の容器が見えた。外を眺めてみた。外は、日が落ちていた。

「どれぐらい気を失っていたんだ?」
 私は、気になり河口の方を向いた。河口は、ほっとしたような顔をしていた。特に胸の苦しみはなかったものの、大事を取って起き上がることは止めた。

「三時間ぐらいかな」
「小柳さんは?」
 私は、講師の事が気になりいきなり立て続けに河口に尋ねた。
「ちゃんと渡したよ」
 河口は、優しい口調で答えた。
「ちゃんと渡した? って、勉強会の講師の件だよ」
 私は、『ちゃんと渡したよ』という河口の言葉を聞き流してしまった。私が倒れた事で、勉強会の講師がご破算になる事が辛かったので尋ねてしまった。せっかく講師を受けるつもりになったのに、私が倒れた事でご破算になる事は耐えられることではない。

「講師って?」
 河口は、初めて聞くような顔をした。「だから、会場でまっちゃんが渡そうと思っていた『超緊急提言』を、俺が代わりに渡したんだ」と河口は、私のために説明してくれたが、何のことだか分からない。
「だから、小柳さんから依頼された、社会保障の勉強会の講師だ。君も同席していたじゃないか」
 私は、河口の答えにイラついて少し大きな声を出した。何を頓珍漢な事を聞くんだ? 私が倒れるところに同席していたじゃないか。

「まっちゃんの気持ちは、良く分かっているつもりだ。でも、今日初めて会ったことだし、小柳さんから依頼されるはずないじゃないか」
 河口は、困惑した顔で答えた。が、「覚えてないのか?」と、困惑した顔になった。
「でも、私の部屋で…」
 私は、そこまで言ってから、公民館の会場をやっと思い出した。「そういえば、倒れる前に公民館に行った。そうだ。小柳さんとは、そこで初めて会ったんだ。それじゃあ、私の部屋の出来事は?」と呟き、頭が混乱してきた。

「夢でも見たのか?」
 河口は、複雑な顔になったが、「夢だったら、まっちゃんらしいな。夢にまで、出てくるんだから」と、少し笑顔になった。
「あれは、夢だったのか?」
 私は、小柳との会見を想い返していた。

「軽い発作だから良かったけど、あまり根をつめると体に悪いから気をつけてくれ」
 河口は、すぐに真剣な顔に戻った。
「ありがとう」
 私は、素直に礼を言ってから、頭の中を整理する事にした。「夢にしては、現実的だった」と、改めて思い返して呟いていた。が、「君に、薦められて確かに会場に行った」と、現実の記憶をたどる事にした。そうだ、今日は土曜日で、午後二時から行われた小柳の国会報告会に行ったんだ。と、おぼろげながら記憶が蘇ってきた。
「そうだ。そっちが本当の事だ」
 河口はそこまで言ってから、「まっちゃんが気を失ったのを最初に気が付いたのが小柳さんだった。小柳さんは、すぐに壇上から降りてまっちゃんのそばに駆けつけてくれた。
 それに気が付いた俺は、申し訳ないが何も出来なかった。会場は、騒然となった。小柳さんは、秘書に命じて救急車を呼んでくれた。小柳さんは、SPにまっちゃんの様子を見させた。
 SPは知識があるようで、まっちゃんの手を取ったり口に顔を近づけたりして、『脈はしっかりしているようです。軽い発作のようです』と小柳さんに答えた。
 その時、まっちゃんの『超緊急提言』を思い出したんだ。まっちゃんは、気を失っていたのにちゃんと『超緊急提言』を落とさず持っていた。俺は、『まっちゃんが、いえ、松原さんが、小柳さんに渡したいと言っていた提言です』と、やっと言うことができ手渡せた。小柳さんは、なんと言ったと思う?」と、河口はそこまで言ってから、子供のように悪戯っぽく尋ねた。

「気を失ったんだ。発作だろ。分かるわけないじゃないか」
 私は、もったいぶった河口の言い方に少し苛立った。
「ごめん」
 河口は、私の容態を気遣って素直に謝った後に、「小柳さんは、少し驚いた顔をして見ていたが、『ちゃんと、読ませていただきます』と言ってくれた。提言を、秘書に手渡すことなく自分で持ってくれていた。
 それから秘書に、『救急車が到着するまで、控え室で待っていただくように』と言ってくれた。結局俺は、控え室に案内され、まっちゃんは、控え室まで丁重に運ばれていった。俺は、まっちゃんの付き添いで救急車に乗るはめになった」と、私が気を失っていたときのことを説明してくれた。が、『救急車に乗るはめになった』は、河口らしいと思った。彼は、茶目っ気もある。わざと言ったのか? 気が付かなかったのかは定かではないが、憎めない男だ。だが、彼の顔を見ていると、彼流の茶目っ気である事は確かである。

「『超緊急提言』じゃなくて、『超緊急提言4』だ。四回政党に送りつけた。でも何の返事もなかったんで、『超緊急提言5』を書いている」
 私は、子供のように細かい事にこだわりむきになった。が、言い過ぎたようだ。
「悪かった。『超緊急提言4』だったな。でも、軽い発作でよかった」
 河口は、病人の私を気遣って素直に謝ってから、私の症状が軽かった事を本心から喜んでくれた。

 私は、現実を思い出した。そうだ。発作が起きる前に、小柳代議士の国会報告会に行ったんだ。河口が、どうしてもと言うから仕方なしに付いて行くことにしたんだ。それでも、『超緊急提言4』を機会があれば渡すつもりになった。
 国会報告会が始まって、すぐに胸が苦しくなったのだ。それからの事は覚えていない。今思い返しても、現実としか思えないような夢だった。私の願望が夢を見させたのだろうか? 私は、夢の内容を河口に伝えるべきか少し逡巡したが、思い切って伝える事にした。

「そうだったんだ。そんな夢を見たんだ…」
 河口は、私が語った夢の内容を聞いて驚いた顔になった。夢にまで『超緊急提言』が出てきた事に驚いたのか、夢を現実のように話したのに驚いたのかは定かではなかったが、聞くのは野暮に思えた。

 河口は、少し何かを考えているようだったが、病室の窓から遠くを見るような眼になり、「正夢ならいいね」と、言ってくれた。
「そうだな。正夢だったらいいな」
 私は、淡い期待を持った。が、「でも、そんなうまい話あるわけないかもしれない」と、現実的にそんなに簡単にいくわけはないと危惧した。
「どうして? まっちゃんが、無名だからか?」
「そう単純じゃない。『超緊急提言』が、そのまま受け入れられるか疑問だし、既得権益を崩すのは並大抵ではない。それに、稚拙な内容だと思われたらそこで終わりじゃないか」
 私は、懸念している事をそのまま河口に告げた。

「そんな事ない。『超緊急提言4』は、そこらへんの、ばかな学者や評論家なんかが思いつかない内容じゃないか。必ず実現する」
 河口は、断言した。が、少し逡巡してから、「もし、無視されたら、返事が来ても当たり障りのない内容だったら、もう二度と(小柳さんに)投票しない」と、付け加えた。河口は、そこまで言ってくれた。が、少し興奮しているようだった。そうなのだろう。河口も、日本の政治に怒りを覚えている一人なのだと、改めて思い知らされた。

「ありがとう」
 私は、心から感謝した。
「まっちゃんだけのためじゃない。日本のためだ。だから、必ず正夢になる。正夢にしなきゃ駄目だ!」
 河口は、言ってから笑った。
 私は、河口を無言で見た。

「そうだ。現実になったら、俺も応援する」
 河口は、そう言ってくれた。
「現実になったら、這ってでも車椅子に乗っても、担架でも、何時だって駆けつける」
 私は、その気になった自分に驚いた。
「ちゃんと電車に乗って歩いて行くんだな。何ならタクシー代ぐらい出してやる。担架に乗せられたまっちゃんを見るのは御免被りたいし、いくら内容が良くても議員の先生たちがドン引きするに違いない」
 河口は、笑った。
「どんな事があっても、行きたいと言いたかっただけだ。安心してくれ。言葉のあやだ」
 私は、言いすぎたことを知ったが、河口の気持ちは有難かった。

期 待

 それから私と河口は、取り留めのない話をした。いや、私の『超緊急提言4』というより、自然と我々が直面している問題やこれからのことの話になって、結局、私の『超緊急提言』全般の内容になった。

「松原さん。お見舞いですよ」
 私の、担当の看護師が大きな花束を抱えて病室に入ってきた。が、さっき気が付いたばかりなので初めて見る。
「気が付いたんですね」
 若い女性の看護師だ。看護師は、河口に顔を向けて、「気が付いたら、知らせてくださいと言ったのに…」と、厳しい眼で河口を見た。が、そんなに切羽詰った表情は見せなかった。河口が言ったように、私の発作はそれほど深刻なものではなかったのだろうとほっとした。

「すいません」
 河口は、謝ってから、「色々あったもんで…。それに、軽い発作だと言われていたので安心していただけです」と、言い訳をした。私が、河口にそんな時間を与えなかった事も事実である。河口は、その事を言わなかった。

「まあ仕方ないですね。松原さん、二・三日の検査入院になります。細かい手続きは、明日になります」
 若い看護師は、河口を許した。
「お見舞い? って、誰から?」
 私は、訝った。こんな立派な花束を贈るような友人知人は持ち合わせていない。それに、河口が私の家族や友人知人の連絡先を知っているはずはないと思った。

「誰からでしょう」
 看護師は、悪戯っぽく笑いながら、「凄い人からですよ。私も驚いちゃった」と言って河口に花束を渡した。花束には、メッセージが添えられていた。看護師は、「後で、検温と血圧測りますから」と言い残して病室を出て行った。
「小柳さんからだ」
 河口も、驚いた顔になった。
「でも、何故?」
 私は、思わぬ人物からのお見舞いに驚いた。
「いやあ、小柳さんに、まっちゃんの病状が分かったら知らせてくれと言われていたんで、連絡したんだ」
 河口は、はにかんだ顔になったが、「でも、お見舞いを送るなんて聞いていなかった」と、困惑した顔にもなった。言葉には出さなかったが、素直に喜んでくれているようだ。
 私は、小柳の配慮に感謝したとともに、喜んでくれた河口にも感謝した。

「軽い発作と伺い安心しております。お友達からお預かりいたしました『超緊急提言4』をこれから読ませていただきます。まだ、目次を拝見しただけですが、興味深い内容と推察されます。必ず拝見させて頂き、ご返事を差し上げます。少しでも早い回復をお祈りしております」
 河口は、メッセージの内容を声を出して読み上げた。その後に、「凄いな。手書きだ!」と、感嘆して横になっている私にメッセージを見せてくれた。

「額面どおり受け取っていいのだろうか…」
 私は、懐疑的になってまた呟いてしまった。しかし、河口が心酔するほどの人物であれば、偽者ではなくちゃんとした為政者であれば、私の『超緊急提言4』が、稚拙ではなくまともだと感じてもらえば、私の人生は違った意味を持つかもしれない。
 そんな淡い期待を持ってもいいのだろうか…、とも思う。正夢でなくても、少しでも私の書いた『緊急提言』が注目されれば…。全部とはいかなくても、少しでも目に留まれば私が今まで生きた甲斐があるというものだ。
 もう私は、ルビコン川を渡ってしまったのだろう。この歳になって初めての思いがけないチャンスを与えられた気になっていた。後戻りできない。これから、『超緊急提言』の全責任を問われる事も考えると、気が引き締まる思いだ。後は、小柳の人間性と見識。それに覚悟に期待するしかない。
 私の『超緊急提言』は、果たして小柳に迎えられるのだろうか? それとも、呈のいい美辞麗句で書かれた薄っぺらい返事で幕を閉じるだけなのだろうか? 私は、そこで考える事を止めた。ボールは、相手にある。後は、どんな球が返ってくるのか待つしかないのだから…。

 河口の顔を見た。河口は、私の気持ちを慮ってか何も言わなかったが、「そうかもしれない。このメッセージは、単なる外交辞令かもしれない。でも、小柳さんが偽政者(にせいしゃ)でなければ、必ずまっちゃんの声はどんな形でも届くんじゃないか」と、言ってくれた。
 偽政者(にせいしゃ)とは、私が作った造語である。偽者の為政者という意味で名づけた。私は、政治家と言う言葉が嫌いである。政治家は、家業ではないはずである。普通の仕事とは一線を画しているはずでもある。だから政治活動と呼ばれているはずだ。もっと違う存在だと信じたい。そこで、政治を為す人つまり、為政者をできるだけホームページでも使っている。

「そうだね。今は小柳さんを、偽政者(にせいしゃ)じゃなく本物の為政者と信じて待つしかないようだ」
 私は、腹をくくった。くくるしかなかった。小柳に心酔している河口のことも気になって、そんな言い方になった。小柳にとって私の『超緊急提言』は、パンドラの箱かもしれないと漠然と考えた。小柳がそのつもりになっても、彼に災いをもたらすかもしれない。それでも、最後に『希望』が残っていると、思うことにした。

「そうだ。果報は寝て待てだ。そのとおり、寝てまってればいい。きっと、まっちゃんが治るころには返事も来るだろう」
 河口は、言ってから自分の言葉がよほどおかしかったのか、笑いながら「本当に、果報は寝て待てだ」と言って私を見た。
「そうだな。仕方がないから寝て待つ」
 私も河口に同意した。

驚 き

 私は、次の日曜日昼食が終わってから病室でテレビを見ていた。

「雅ちゃん」と、私を呼ぶ声が聞こえた。
 私は、「玲、来てくれたのか」と、二度目の妻の来訪に少し驚いた。昨晩連絡はしたものの来るとは思っていなかったからだ。私の二度目の妻は、玲奈といって一人娘がいたが、連れ子で私の実の娘ではない。その娘も今は独り立ちしている。歳は、十五歳も離れているが、私のことを雅ちゃんと呼んでいた。

「当たり前でしょ」
 玲奈は答えてから、私の枕元にある立派な花に気が付き、「誰から? 良い人でも出来たの」と、興味を覚えたのか訊いて来た。
「こっちは、年金生活だ。そんな余裕はない」
 私は、病院から借りた花瓶に活けられている小柳の花に眼をやった。
「へえ。じゃあ、誰から」
 玲奈は、気になったようだ。
「ある先生からですよ」
 突然部屋に入ってきた河口が、私の代わりに答えてくれた。

「まっちゃんも、すみに置けないな。こんな若い美人がお見舞いに来てくれるんだ」
「別れた妻だ」
 私は、行き掛かり上答えた。玲奈は、今年六十一になる。私より十五歳も歳が離れている。まあ、河口にとっては玲奈も若いと感じたのだろう。それでも美人ほどではないが、年より若く見えることも確かだ。
「初めまして、鈴木玲奈と申します」
 玲奈は、自己紹介した後に、「雅ちゃんの、お友達ですか」と、河口に尋ねた。

「はい」
 河口は答えてから、「この花は、小柳次郎さんから贈られてきた花です」と、自慢げに玲奈に説明してくれた。
「雅ちゃん。まだやってたんだ…」
 玲奈は、全てを察したようだ。「認められた…、ってこと?」と、それでも少し驚いたようだ。
「提言を渡しただけだ。いや、彼が、私が倒れたときに代わりに渡してくれた」

「渡しただけじゃないかもよ」
 河口は、いつものようにもったいぶった口ぶりになってから、「今日昼前に、宅急便が届いた。俺宛に。誰からだと思う?」と、尋ねた。
 私は訝ったものの、「まさか? 小柳さんからか?」と、尋ねた。他に思い当たる人物がいなかった。私の住所は、提言に書いておいた。それに河口の口ぶりから、小柳だと確信した。

「察しがいいな。その通り。宅急便には、DVDが入っていた」
 河口は、手に持っていた紙袋からDVDを取り出した。
「何のDVDだ?」
 玲奈も、気になったのか河口が手に持っているDVDに眼を落とした。
「見たら驚くぞ!」
 河口は言ってから、持参したプレーヤーを取り出すと、病院のテレビに繋ぎ始めた。私は、黙って河口を見ていた。
「やっと、繋がった。奥さんも、いや、玲奈さんも、せっかく来たんだから、見てやってください」
 河口は、有無を言わさず玲奈を病院の椅子に座らせると、DVDをプレーヤーにセットしてスイッチを入れた。

 DVDは、小柳の報告会の映像だった。
「先ほど救急搬送された方から頂いたものです」
 小柳は、私の超緊急提言をかざしながら、「まだ目次を見せていただいた程度ですが、今までにないユニークな提言のような気がします。
 この提言の基本は、『様々な国民の立場や境遇別の対応ではなく、全国民を対象に様々な境遇・環境・状況に関わらず、全国民が公平と思われる施策を国が行うことによって、国民の不公平感や閉塞感が少しでも払拭できる』という一文に現れています」
 小柳は、私の『超緊急提言』をかざしながら発言した。
「私のことですが、国会議員が、身を切る改革と言っている歳費の減額について、『身を切るのではなく、一般常識に是正するだけ』との指摘には、驚きました」

「そうだ! 提言の通りだ!」
 会場から、誰かが野次を飛ばした。
「そうですね。考えてみれば、国会議員の歳費は、アメリカより多く、世界一の高額です。ヨーロッパでは、八百万円程度なのに、日本では二千万円を超えています。この提言が現実になれば、私の給料も半分以下になります」
 小柳は、そこで言葉を切って笑った。聴衆からも笑い声が聞こえた。
「それだけではありません。道州制にして地方議員をボランティア化すると書かれております。これは、過激だ! 多くの地方議員や地方公務員が首になる事です」
「それでいい!」
「賛成!」
 聴衆から、今までの鬱憤を晴らすかのような声が上がった。「そうだ。多すぎる!」との聴衆の発言を擁護する発言も挙がった。

「そうですね。地方議員の政務活動費が、生活費として使われている現実を見れば、皆さんのお怒りも分かります。しかし、失職すれば、路頭に迷う事も確かです。そうなったら、日本の経済にも影響があります」
 小柳は、聴衆の気持ちを認めた上で、他の問題点も指摘した。聴衆は、静かになった。

「路頭に迷った地方議員や地方公務員を救う意味も含めて、ベーシックインカムの事が書かれています。ベーシックインカムがこの提言の根幹をなしていると言えます。ベーシックインカム。皆さんは、ご存知でしょうか。知っている方。聞いたことがある方。手を上げてください」
 小柳は、聴衆に問いかけた。

 画面は観客席に変り、聴衆からは十数人程度の手が上がっただけである。少ししてから、控えめに数人の手が上がった。
「そこのあなた。そうです。青いスーツの男性。どんなものかお答えできますか」
 画面はそのままで、小柳の声だけが聞こえた。女性が客席に下りて行って青いスーツの男性の前に行き、マイクを向けた。
「詳しいことは、分かりませんが、国が国民に一定の金額を無条件に支払う制度だと」
 マイクを向けられた男性は、少し緊張しているのか上ずった声で答えた。

「あなたは、相当勉強されている」
「いえ。たまたま、インターネットで知っただけです」
 男は、少しはにかんだような声を出した。
「有り難うございました」
 小柳は礼を言ってから、「簡単に言いますと、ベーシックインカムはあなたが言ったように、国が生活できる最低の額を貧富の差なく国民にばら撒くという制度です」と、聴衆に向かって発言した。画面は、小柳に戻った。
「私は、あえて、ばら撒くと言いましたが、考え方を変えれば、富の再配分となります」
 小柳は、そこで言葉を切って、聴衆を少しの間みてから、「ばら撒きと、富の再配分の違いは分かりますか?」と、聴衆に問いかけた。

 聴衆は、少しざわめいたが誰も声を上げなかった。

「簡単に言いますと、国民受けするように政府が勝手に基準を決めて税金を配分するのがばら撒きになります。迎合主義・ポピュリズムとも呼ばれます。今までは、政府が勝手に決めた基準により選挙のためだけにばら撒いたと言っていいでしょう。富の再配分とは、国民の富を税金と言う形でお預かりして、その税金をちゃんとした基準を決めて再配分する事になります」
 小柳は、そこまで言ってから無言で聴衆を見回した。

「ここまでは、ご理解いただけたと思います。ベーシックインカムと言ってもいい事だけではありません。ベーシックインカムの問題点は、何だと思われますか」
 小柳は、また聴衆に向かって問いかけた。

「働かない人が増える…、ですか?」
 聴衆の前の席にいた男性が発言した。
「その通り」
 小柳は、にこっとしながら頷いたが「しかし、本当にそうなるでしょうか。そうでしょうか」と、また聴衆に問いかけた。

 聴衆の間から、小さなざわめきが起きた。が、それだけだった。少しすると静かになって聴衆は小柳の次の言葉を待っているかのように小柳を注視した。

「金額が問題です。金額が少なければ、生活が出来ません。しかし金額が多すぎれば、仕事をしなくても生活が出来ることになります。
 以前、一人七万円のベーシックインカムに言及した政治家がいました。一人暮らしの皆さん。七万円で、最低の生活が出来るとお思いでしょうか」

「無理だ!」
 聴衆の一人が大声を上げた。周りから笑い声が聞こえてきた。

「では? 一人、十万八千円なら何とか生活できますか」
 声を上げた聴衆の一人が、「できるかも…。でも、生活保護より少なくないですか? それに、何か中途半端な金額です」と、小柳に尋ねた。
「そうです。そこがこのベーシックインカム案のみそです。個人ではなく、家族単位です。一家族で、五万円。家族一人あたり五万円で考えられております。生活保護より少ないが、何とか生活できるかもしれない額を提言を書かれた方は考えているようです。
 それに、消費税分を上乗せするんです。消費税が十パーセントになれば十一万円になります。働かなければ生活するのがやっと。その財源として、所得税を40パーセント。健康保険を5~10パーセントに大幅な引き上げも書かれております」

「そんな…」
「多すぎる!」
「俺は、非正規だ。生活できない」
 会場からは、否定的な声が挙がった。私は、無理からぬ事だと分かっていた。負担が増えれば、生活が脅かされる事になる。果たして、小柳はどう切り返すのだろうかと興味を覚えた。

「そうでしょうか? ベーシックインカムを貰えるんですよ。この提言の通りに述べれば、単身者で、年収220万円以下の場合は、ベーシックインカムの額が多く、所得税や健康保険が大幅に上がっても、支給があり、所得より多くの収入がある計算です。二人家族なら、330万円。三人家族なら、440万円まで支給が多くなることになります。つまり、負担が大幅に増えても、低所得者にとってはむしろ収入が増えることになります」

「金持ちは!?」
 会場から、すかさず声が挙がった。

「いい質問ですね。高額所得者には、現在と余り代わらない負担になります。負担合計が50パーセントの意味ですが、現在の所得税の最高水準が40から45パーセントです。それに、住民税と健康保険年金と合わせると60パーセント近くになります。
 逆説的ですが、このベーシックインカムは、高額所得者を基準にして高額所得者についても今より負担が増えないよう配慮されています。中所得者の皆さんも、現在より負担が増えないでしょう。
 いくら負担が増えても、ベーシックインカムによって、全国民が現在より負担が増えない工夫がしてあるようです。例外は、単身者です。単身者は、二人以上の家族より負担が増える可能性があります。その意味が分かりますか?」

「結婚すればいい!」
「子どもを作りやすくなる」
「俺は、彼女がいない」
 会場からは、様々な意見が寄せられた。小柳は、笑顔で会場の声を聞いていた。会場が静かになったところで、話しを続ける事にした。

「その通り! 今まで結婚できなかったカップルも、結婚できる可能性があります。もう一人子どもが欲しいと思っていても、生活や子どもの教育費を考えると躊躇します。このベーシックインカムの狙いは、家族単位とすることで家族が多いほど収入が増えて子供を作りやすい環境を作ることです。
 それに、家族単位としたのは、一人を基本にした場合は、最低でも十万円のベーシックインカムが必要ですが、家族が増えるとベーシックインカムの財源が膨らむ事と、先ほど発言があったように、働かない人が増える可能性を考えているからです」
 小柳は、そこで言葉を切ってから少し会場を見回して、「ここまでは、よろしいでしょうか」と、聴衆に向かって尋ねた。

「はい」
「分かった」
 聴衆からは、そんな声が挙がった。

「これも、おもしろい」
 小柳は、超緊急提言に眼を落とすと、「日本に合法的に滞在する外国人にも適用すると書かれてあります」と発言した。

「外国人にまではおかしい!」
 すかさず、誰かの発言が聞こえてきた。

「そうでしょうか? 負担が50パーセントに増えるんですよ。それに、外国人の奥さんや旦那さんがいる人は?」
 小柳は、発言した人を優しい顔で見たようだ。「お分かりになったようですね。外国人といっても、社長や金持ちもいれば、低所得に甘んじている人もいるはずです。ベーシックインカムが日本の国民だけを対象にしては、外国人にとっては、特に低所得者の方々には住みにくい国になっていきます」と、にこやかな顔で答えた。

「働けない人は?」
 聴衆の一人の女性が手を上げながら尋ねた。
「手当てを付けるそうです。まだ提言なので具体的な数字は書かれておりませんが、面白い発想だと思います。現在は、六十五歳を過ぎれば年金。それまでに失職すれば雇用保険。働けない人や年金の少ない人には、生活保護の社会保障があります。この提言では、年齢に関係なく働いている人。働きたいが働けない人。働く気がない人に分けております」
 会場は、静まり返っていた。

「ベーシックインカムが実現したら、この提言では景気の底上げが出来ると書かれております。
 低所得者の方が、ベーシックインカム分増えた収入を消費に回せると書かれています。なるほど、ベーシックインカムで最低額が保障されていれば、今まで買えなかったものを買えるようになりますし、生活も少しでも楽になるでしょう。
 その額は、相当な額と考えます。提言では、守りの社会保障から攻めの社会保障と表現しています」

「最後に、もう一つだけ面白い事が書かれております。
 公共事業は、凍結するつもりです。メンテナンスに特化すると書かれております。みなさん。どう考えますか? 公共事業は、いらないと考えている方、手を上げてください」
 会場の半分以上の手が上がった。
「整備新幹線も凍結するようです。まあ、ここまで作ってしまえば…、とも考えられますが、それでも費用対効果を考えれば、凍結するのが妥当だと私も考えます。しかし、リニアはいいと書いてあります。理由として、海外に売り込むためです。実現できれば、世界最高速の高速鉄道になります」
 小柳は、そこでまた会場を見回してから、「いかがでしょうか? これが無名の一人の老人が作った提言です。私は、先ほどの休憩時間に少しだけ読ませていただいただけですが、これから熟読して私なりの結論を出します。皆さんも御興味がありましたら、この方の書かれたホームページをご覧になって下さい。『超緊急提言』で、ご覧になる事ができるそうです」

 小柳のDVDは、そこで終わった。

 小柳は、私の提言をそのまま伝えているだけではなく、小柳なりに聴衆に分かりやすくそれでいて小柳の主観も入っていた。私は、小柳の見識の深さに舌を巻いた。さすが、河口が絶賛するだけの人物に思えてきた。

 私は、驚きを禁じえなかった。無名のどこにでもいる老人のたわいごとのような提言を取り上げてくれている。それだけでも法外な扱いに見えた。が、小柳の言葉から、私の提言が多少なりとも彼の琴線に触れた可能性を嬉しく思った。
 単に利用されるだけかもしれない。私は、それでもいいと考えた。肝心なのは、私の提言が議論される事だ。議論されて、結局消え去るだけなのか。それとも、私が考えも付かないもっと素晴らしい提言に生まれ変わるのか定かではないが、これで少しは私が生きてきた意義が見出せたような気になった。DVDは、私の提言の箇所だけを収めたようだ。それからすぐに終わった。

「これからが、本番だ。よく見てくれ」
 河口は、いつもの様にもったいぶった口調で言った。私は、訝りながらも画面を見た。
 次に画面は、小柳が一人でどこかの壁の前に立っている姿を映し出した。

「松原雅之さん。小柳です。その後、お体はいかがでしょうか? 松原さんが救急搬送されてから少し休憩にしました。その間に、この超緊急提言4を少しだけ拝見しまして、にわかですが私なりに解釈して来場者の皆様に紹介させていただきました。お送りしたDVDは、その部分だけ抜粋したものです。これから、超緊急提言4を熟読させていただき、必ずお返事を差し上げます。これからも無理をなさらず御自愛ください。そして、我々若造に貴重なご意見をいただけますようお願いいたします」
 小柳は、そこで頭を深々と下げた。DVDは、そこで終わった。

「雅ちゃん。凄い!」
 玲奈も驚いたようだ。
「凄くなんかない。これからだ」
 私は、現実を直視した。言ったとおり、今始まったばかりだ。小柳の対応如何によって違ってくる。いくら小柳が台頭してきたとはいえ、まだ党の中では中堅程度の扱いである。小柳が支持しても、他の政治家がどう考えるか? それで、全てが決まるからである。

 私たちは、玲奈の近況や娘の事それに、私と河口との出会いから『超緊急提言』を無理やり河口に聞かせたこと。私の主張に河口が理解してくれた事など、今までの事を話していた。

「あの…、松原さん」
 私の担当の看護師が、控えめな声で私に声をかけてから、「お話を伺いたいと、面会を求めている方がいるんですが…」と、名詞を私に差し出した。
 私は名刺を受け取ると、少なからず驚いた。名詞には、『千葉新報 政治部記者 白井和馬』と、書かれていたからだ。

「取材ですか?」
 私が眺めていた名詞を見て驚いた河口が、看護師に尋ねた。
「そのようです。断りましょうか?」
 看護師は、困惑しながら私に尋ねた。

「いえ。会いましょう」
 私は、答えた。もう私の『超緊急提言』は、後戻りが出来ないところに来たと腹をくくった。河口も、玲奈も無言で複雑な顔をしながら私を見ていた。
「松原さんって、凄い方なんですね」
 看護師が尋ねた。
「いえ。普通の老人です」
 私は、答えた。
「ちょっと変ってはいますが」
 河口は、笑いながら余計なひと言を付け加えた。

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