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創作大賞2022応募作品 「立てこもり」 1.9月21日(敬老の日) 22:00

1.9月21日(敬老の日) 22:00

  一本の電話のベルで、対策本部の交渉班室は一瞬どよめき、自然にベルの鳴った電話に全員の視線が集中した。
 交渉班の山口正義(まさよし)警視は、ゆっくりと受話器に左手を伸ばしながら傍らに待機している部下に目配せをした。ヘッドセットを使えば、両腕が自由になる。それでも山口は、それを潔く思わなかった。ヘッドセットでは、どこか事務的で気持ちが通っていない気がしていたからだ。電話機が使えない状況の時は、やむを得ずヘッドセットを使う。が、今は普通の電話を使うことができる状況である。部下は、設置されている録音装置のスイッチを押した。それを確認した山口は、受話器に手をかけ受話器を手に取るとすぐに左耳に当てて、「交渉班、山口正義です」と、名前を名乗った。
(階級は?)
 落ち着いた犯人の声に一瞬たじろいだ正義は、「警視です」と、答えた。犯人の声は、犯罪者というより彼の上司のような威厳をたたえていた。本当に犯罪者なのか? と山口が思った時に、(警視か)と電話の相手からのしみじみとした声が聞こえてきた。
「はい」
 山口は、自分の階級をある程度満足したのだろうと感じた。警視といえば、警察署長と同じ階級である。一般の企業では、部課長・支店長クラスといっていいだろう。やはり、元自衛隊員か。階級で人を判断した。いや、そうではないだろう。こちらが、階級でがんじがらめにされているのを知っているからなのだろう。と思い直した。
 日本の警察には、アメリカのような交渉班という部署はない。山口は、SITの名で知られいてる、特殊犯捜査第一係と第二係、それに第三係を統括している、第一特殊犯捜査・管理官(警視)と同列の立場である。
 山口は、特殊犯捜査第一係(SIT)の中から数名の直属の部下を与えられ交渉を受け持つようになった。山口達は、一応交渉術のレクチャーを受けていた。立てこもりや誘拐などの犯罪で、最初は戸惑うことも多かった山口達は、交渉役を勤めているうちに自然と上達していった。
 犯人に交渉専門部署を印象付けるだけの、架空の部署である。それでも、山口の警視という階級が物を言うことがあることも事実である。警察の組織を知っているはずの今回の犯人に対しては、山口の階級が物を言うはずであるがどうもそうではなさそうだ。
(よろしい。では要求を伝える)
 山口は、慌ててメモの上にボールペンを持つ手を置いた。山口のいつもの癖である。音声は録音されており、複数の部下がメモを取っている。山口は、交渉に専念すればよいはずだったが犯人の要求に自分なりのメモを取るようにしていた。
「どうぞ」
 山口は、相手の告げる要求に耳を澄ました。
(一つ。今まで、霞が関の官僚が起こした不祥事。いや、犯罪を白日の下にさらす事。時効にかかわらず訴追すること。
一つ。国家は、国家の基本である国民の命を守る観点から、ベーシックインカムを視野に入れた社会保障の充実を図ること。
一つ。後期高齢者保険を廃し、健康保険を一本化すること。
一つ。国家及び地方公務員の給与を、一般の給与レベルに是正すること。
一つ。地方分権の立場から、国家公務員の大幅な削減と、道州制を視野に入れた地方公務員の大幅な削減をする事。
一つ。以上の内容を、対案にまとめて我々に提示すること。
一つ。以上の結果と我々の試案を国民に示し、民意を問う事。
 我々の試案は、一時間以内に対案の詳細な検討項目と同時に警視庁に届ける。対案の作成期限は、9月23日正午とする。対案が作成されたことを見届けて、我々は人質を解放し投降する。以上だ)
「ちょっと待って下さい」
 山口は、犯人の要求に思わず声を掛けた。本来言ってはいけない言葉である。いや、ど素人の言い方に違いない。それでも犯人は、何も言わなかった。自分の戸惑いと驚きが、見透かされたのか? と、後悔したもののこのまま会話を続けるしかない。と、自分に言い聞かせた。意外な要求に、山口の部下だけではなく対策本部の交渉班室にいる全員がどよめいている声が山口の耳に入った。

 対策本部は、総理官邸の近くにある山王パークタワーの空いていたフロアを接収して造られていた。交渉班室は、対策本部の隣の十畳ほどの会議室だった。対策本部は、全員が会議をする会議室と特殊犯捜査第一係(SIT)や機動隊に命令を出す司令室と交渉班に与えられている交渉班室とに分かれていた。
 特殊犯捜査第一係(SIT)とは、警視庁の特殊犯捜査係の一部隊である。人質立てこもり事件・誘拐事件・企業恐喝事件などを担当している。立てこもり事件が発生した際は、重装備で現場に出動し報道関係者の前に現れることが多い。また、任務に突入などの強硬手段が含まれるため、特殊部隊(SAT)を除隊した警察官も配属されている。彼らは、突入の時のために機動隊に混じって官邸の前で待機していた。
 他にも、被疑者を逮捕したときに取り調べるスペースを確保していた。犯人からの初めての連絡ということで、対策本部の主だった者たちも交渉班室で事の成り行きを見守っているところだった。

 これじゃあ、クーデターじゃないか。という言葉を山口は呑み込んで、「それが、要求ですか? だれに検討させるつもりですか?」と、山口は気を取り直して尋ねた。
(試案の詳細検討項目を、届けると言ったはずだ。まあいいだろう。公務員たちを、これから集めて徹夜させてでも作成するように)
 犯人は、山口の質問を見越していたのか口調を変えずに答えた。
国家の基本か…。
 山口は、改めてこの国は国民のためにあるのではないことを思い知らされた。民主主義の皮を被った独裁国家といってもいい。もちろん一人の独裁者ではなく、官僚という組織の独裁である。
 官僚は、政治家や国民には眼を向けていない。独裁者がそうであるように、官僚という独裁ファミリーのためだけにこの国を牛耳っているのだ。自分もその末端にいるのかも知れないと感じた山口は、それ以上何も言えずに犯人が電話を切るまで困惑した顔をメモ用紙に落としていた。今日は敬老の日だ。何かのジョークじゃないのかと、複雑な気持ちで溜息をついた。
 山口は、立てこもりがテロやクーデターの類ではなく革命ではないのか? と、少し落ち着いた頭で考えてみた。彼らが現役の自衛隊員であればクーデターになったが、政府側でなくなった時点では革命になる。そんなことは問題ではない。どちらにしても犯罪には違いない。 

 山下大輔は、受話器を静かに電話機に戻すと全員を見回して、「長丁場になる。手の空いている者は休養をとる様に」と伝えてから、総理に向き直った。山下の部下たちは、山下の後ろで執務室の壁を背に控えていた。部下たちのうちの二人は、自動小銃を構えており、残りの部下たちも拳銃を所持していた。全員が七十前後の年齢を感じさせないほど生き生きとしていることが不思議だった。
「こんな事をして何になる?」
 総理は、執務机から少し余裕のある声で山下を質すような言葉を発した。
「私は、もう長くはないと悟ったからです」
 山下は、車椅子に座りながらも、背筋を伸ばし物怖じしない顔で総理を正視して、「今の政府に失望しているから、私が生きた証として少しだけ国民の役に立ちたいと思っただけです」と答えた。
「自分のしていることが、解っているのか?」
 総理は、静かな口調で尋ねた。
「解っています。しかし、私が現役なら、クーデターになったかも知れません。それに、アメリカなら暴動が起きてもおかしくない状況です」
 山下は、総理を哀れんでいるような眼で見て、「戦後、官僚たちが行った過ち、いや犯罪を、私が生きている間に見届けたいだけです」と、静かな声で総理の問いに答えた。
 総理は、山下に読むように指示された、これから警視庁に届けるはずの試案を横目で見ながら、「それだけのために、こんな大それた事をしたのか? 我々だって、手をこまねいて見ているだけではない」と、溜息をついた。
「あなた方はあまい。と言わせてもらいます。それに、政府がもたついているから、少しだけ背中を押してあげるつもりになっただけです」
 ふてぶてしい態度でソファにゆったりと座って嫌な顔をしながら試案を見ていた防衛大臣の古賀は、「何が、甘いだ!?」と、座らされているソファから山下を睨みつけた。咄嗟に一歩踏み出そうとした部下の藤田を手で制した山下は、「何が、仰りたいのですか?」と、やんわりと尋ねた。
「国会議員の歳費が、800万円だと。話にならん」
「何が話にならないのでしょう」
 静かに尋ねた山下に、この男は何を考えているんだと戸惑いながらも、「国会議員を何だと思っているんだ? 馬鹿にするにも程がある。これじゃあ、日本の国のために働いている我々の立場が無いじゃないか」と怒りを孕んだ目になった。今は単なる試案でしかないのに、この有様である。
 古賀がふてぶてしい顔をしているのには、訳があった。自分の面子が、この老いぼれたちのために丸つぶれになったからだ。古賀と山下たちには、面識があった。山下が現役の三佐の時に、若いが直属の上司になった。そのあと古賀は将官クラスまで出世した後に、政界に打って出た。その関係で、山下たちの総理に対する表敬訪問を受け入れることにした。総理は、現在の日本を取り巻く外交の問題や集団自衛権などを、元自衛隊の幹部であった山下の考えを軍備の立場から聞くことも考えていたのであろう。敬老の日ということもありこんなことにはなると思いもよらない古賀は、セキュリティーをすっ飛ばし自分の点数稼ぎのために必要以上に山下たちを歓迎した。マスコミの同席を断った山下に、自分のアピールの機会が削がれたことしか頭になく、おかしいとは思わなかった。やはり山下たちは世間慣れしていないのだろうと勝手な解釈をしてしまった自分の愚かさは感じず、面子をつぶされた自分の立場だけを考えていた。それに、いくら武器を持っていても自分に身の危険が迫ることは考えていなかったため、ふてぶてしい態度を取ることができた。 

 古賀がおとなしく試案を見ていたかと思ったら、最初に発した言葉が国会議員の歳費のことである。もちろん目次には書いてあるものの、他のことには目もくれず、自分の立場のことで不満を漏らしたのが情けなかった。他の項目ならいくらでも議論の余地がある。しかし、国会議員の歳費に目を付けたのは、この男にとって他の項目より大事なのだろう。山下は、これが国会議員の姿かと愕然とした。こんな国会議員たちが、この国を動かしてきたかと思うと、あまりの馬鹿馬鹿しさに怒る気にもならなかった。
「本当に、日本の国のために働いていると仰るなら、金額は関係ないはずです。ご自分のために働いているのなら別ですが…」
 山下は、悲しい顔で古賀を見た。その言葉は、嫌味でも馬鹿にしているのでもなく、山下の正直な気持ちから出ていた。「ちなみに、ヨーロッパでは800万円程度ですし、もっと低い国もあります。円安になったとはいえまだ一千万円以下のはずです。日本の給与は、アメリカをも上回り世界一と言っていいでしょう。それだけではなく、文書何でも費という何に使ってもいい第二の給与と呼ばれている月百万円のお小遣いもついている。秘書も三名まで給与が出る」と、日本の異常な高額の歳費と呼ばれる給料を指摘した。山下は、敢えて歳費という言葉を避けて給与という言葉を使った。
「給与ではなく、歳費だ。それに、文書何でも費ではなく文書通信交通滞在費だ。君たちにはわからないだろうが、政治には金がかかるんだよ」
 古賀は、横柄な態度で不服な顔のままで言った。
「それぐらい知っています。でも何に使っても、そもそも何に使ったか報告する必要がない費用ですから、文書何でも費ではないでしょうか。政治に金がかかるのではなく、必要以上に金をかけているだけでは? 何もしなくても、ちゃんとお金だけはもらえるのが国会議員では? 員数合わせとしか思えない国会議員が多数いることも確かでは?」
 山下は、一歩もひるまずに指摘した。
「何を!? 国会議員を愚弄するのか!?」
 古賀は、怒り心頭という顔になった。
「古賀君。彼の言うとおりだ」
 総理は、古賀を見ながら言ったあとに、「君は、政治にお金をかけているかもしれないが、次の選挙のためだけに自分のためだけにお金を使っている議員がどれだけ存在するか君なら分かるだろう」と付け加えた。
 選挙の時だけ地元に帰って、有権者にゴマをするだけに見える国会議員。国会では、野次をするだけにしか見えない野党の議員。与党にしても、山下が言ったように員数合わせ、つまり法案を通すだけに数を揃える名前だけの議員がいかに多いか。それが議会民主主義の限界であり、多くの議員を当選させられない政党は与党にはなれない。連立するにしても、政策より政局しか見ない多くの政党は国民より自分の政党の立場を優先する。総理はそこまで考えて、山下の指摘に反論するだけの材料を持ち合わせていない自分を思い知った。
 総理の言葉に古賀は、「総理…」とだけ言って戸惑った顔を総理に向けた後に、少し視線を下に落とすと眼を泳がせた。
 総理の言葉に山下の部下たちは、驚いた顔を隠さなかった。総理を戸惑った眼で見ている部下。山下に困惑した顔を向けてくる部下。驚きながら互いを見つめる部下たち。部下たちが、官邸を占拠してから始めてみせる顔だった。
「別に驚くことはない。私は、これでも国民のために政治家になったつもりだ。員数合わせの議員がいることも認めざるを得ない。しかし、民主主義は、数が勝負だ。いきおい、当選できる候補を立てる。その候補が無能でも。数が揃わなければ、政治はできない」

 総理は、山下に向かって静かな口調で言った後に、「しかし、これは過激すぎる」と試案に目を落とした。山下は、国民という言葉を使った総理に少し期待を持った。国民がいなければ国は成り立たない。国民を大切にしない国家は、どうなったか? それは、歴史が証明している。戦前の日本も、例外ではなかった。
「それぐらい解っております。ただ、お茶を濁すだけの改革では、日本は何一つ良くならない。違いますか?」
 山下は、もう一度総理を真剣な目で正視した。
「だから、この試案を書いたと言うのか?」
 総理は、試案に手をやると少し離れたところに放り投げるようにして置いた。その仕草は、古賀の態度とは明らかに違っていた。が、「その…」と、試案とかけ離れたような山下を困惑した顔で見た。実直そうだが、このような試案を作った人物とは思えなかった。
「試案を作ったのは、私ではありません。私に、このようなことはできません。私は、この試案を読んで納得しただけです。今の日本を救うのは、この試案だけしかないと確信しました。国は、国民・特に低所得者や弱者を見ていないのです。なんとかミクスだと言っても、個人ではなく会社や公共事業に重きを置いているようですし、消費税増税も、福祉の充実以外に使わないと言いながら、ほんとうに福祉だけに使われるか分かったものではありません。官僚は、実入りが増えた途端無駄遣いをすることでしょう。それは、日本の歴史が証明しております。
 東京オリンピックパラリンピックにしても、官僚たちはオリンピックパラリンピックにかこつけた無駄遣いをするでしょう。そんな日本を救うのはこの試案だけしかないと考える者です」
「君の言うように何とかミクスで、日本が少しずつ良くなっていることは事実だとは思わないかね?」
 総理は、山下に合わせて○○ミクスとは言わなかった。
「思いません。少なくとも、我々のような立場の弱い人間には悪くなる一方です。このままだと、国民の格差が大きくなるだけです」
 山下は、切り返した。
「我々だって考えている」
「単にお金を配るだけでは、一時しのぎです」
 山下は、増税で低所得者に1万円を配った政府の愚かさを指摘した。いったい何を根拠に金額が出たのだろうか? 該当しない低所得者は、切り捨てられるということになる。一回お金を配っただけで、お茶を濁そうとしているとしか思えない。
「だから、ベーシックインカムかね?」
「はい。この試案を読まれれば分かりますが、単位は家族です。生活費に、消費税相当を加味するのがみそです。つまり、消費税がどれだけ上がろうが、消費税分が増額されるのです。最低の生活保障はできます」
 山下は、答えた。
 総理は、財源は? と尋ねようとして新たな愚を犯すことを感じた。この試案を読めば自分が聞きたいことが書かれているのであろうことは察しがついた。総理は、質問することをやめて、「だから、試案を受け入れろと? これは立派な脅迫ではないか。私が、そんな脅迫に屈するとでも思うのか」と、山下の勘違いを指摘しておくことにした。どのような立派な試案だとしても、拉致されている今の状況で自分が納得するわけにはいかない。いや、してはならない。
「ご不満ですか? まだ、すべてを読まれたわけではないでしょう」
 山下は、放り投げられた試案に目を落としながら尋ねた。
「目次を読めば大体の中身は解る。この試案を作った人間が、学生なら百点満点だが…」
「現実的じゃないと言いたいのですか?」
 総理の呆れたような顔を見て、山下は尋ねた。
「そうじゃない。理想が高過ぎるとでも言えばいいのか…。とにかく、誰も納得しないような内容だ」
「私は、政治家や官僚それに大企業の経営者に納得してもらうつもりはありません。ただ、これが今の日本には不可欠だと信じているだけです。三方一両損から、三方一両得に変えるだけです」
 山下は、総理から視線をはずさずに言った。
「どういう意味だね?」
 総理は、三方一両損が落語の大岡越前守のお裁きの噺であることは知っていたが、山下が言わんとしていることはどういう事なのだろうか?

「税金や負担が増えれば、国民の生活が困る。増税になったら政府は、いや官僚は無駄遣いをする。今まで、その繰り返しではありませんか。それで、国の借金は増えるばかり。つまり国民、国家、官僚の三方一両損ではないですか。日本は破産したつもりで、ベーシックインカムで全国民の社会保障を基本として、必要最低限の支出で単年度黒字を目指すべきです。破産したつもりになり、何もなかったところから得になる。つまり、三方一両得になります」
「だが、誰も同意しなければ、絵に描いた餅ではないかね」
 総理は、明らかに現実とかけ離れた試案に困惑した顔をした。
「どうせ同意しないのは、官僚と政治家の皮を被った貪欲な豚どもだけだと思いますが」
 山下は、蔑むように古賀を一瞥した。
 総理は、横目で古賀を一瞥してから、「だから、民意を問えと言ったのかね」と山下を見つめた。
「そうです。あなた方がもたもたしている間にも、日本はとんでもない方向に向かっている。違いますか?」
 山下は、試案を眺めてからもう一度総理を睨みつけるような顔で見た。
「とにかく、読ませてもらうよ。時間はたっぷりありそうだからね」
 総理は山下をいやみな顔で見た後に、観念したのか試案を手に取って開いた。この事件が解決してから、ゆっくりと読めばいいのでは? とも考えたが、いま読んでおいた方が雑音が入らず読めるのではないかと思い直した。事件が解決してしまえば、様々なところから犯罪者の強要したものを読むこと自体憚れるようになるのではないか? それに、老人たちを駆り立てて犯罪まで冒させた試案とは? 内容に少し興味を持った総理は、雑音が入らないうちに全部読むつもりになっていた。

 不思議なことに、巻末に野村修一と著者の名前が書かれていた。いったいどんな人物なのだろうか? なぜこんな試案のために老人たちは、敢えて犯罪を犯そうとしたのだろうか? 試案には、何が書かれているのだろうか? 総理は、逸る気持ちで最初のページをめくっていた。
 山下は、総理を一瞥した後に、「久保」と、メンバーの一人を呼んだ。
「はっ」
 久保は、直立不動で答えた。
「藤田」
「はっ」
 藤田も、久保と同じように直立不動で答えた。
「お前たちは、明日の朝3時まで仮眠を取るように」
「しかし…」
 久保は、少しうつむいた。山下は、久保を見た後に、藤田を見た。藤田も少し戸惑った顔をしていた。
「さっきも言った通り、長丁場になる。気持ちはとても有難いが、休めるときに休むんだ。君たちから仮眠を取ってくれないか」
「了解しました」
 久保は、最敬礼をしてあらかじめ決めてあった通り、総理の執務室から通じている会議室のドアを開けて中に入ると続いて藤田も山下に最敬礼をすると後に従った。
 二人がドアの向こうに消えると山下は、残った全員を見回しながら、「お願いだから、ちゃんと休息は取ってくれないか」と言った。
「我々は、大丈夫です。隊長こそお休みください」
 残った四人全員を代弁するかのように、中村が言った。山下が全員を見回すと無言だが、力強さを感じた。
「ありがとう。私は大丈夫だ。もっとも起きていてもこの身体では何も出来ないが…」
 山下は、自分の足を眺めながら言った。
「我々は、今回の任務を誇りに思っております。殉ずる覚悟は出来ております」
 中村は、胸を張って答えた。
「ありがとう。だがな、そう死に急ぐことはない。君たちには、この国の行く末を生ある限り見届けてもらいたい」
 山下は、歳をとっても相いも変わらない中村の発言に少し危うさを感じた。竜頭蛇尾にならなければいいが…。
「任務か…。君は、いい部下を持ったようだな。しかし、時代錯誤のような気もする」
 総理は、試案から眼を離して残った4人の男たちを見回しながら言った。その顔は、皮肉でもいやみでもなく、自分では気がつかなかった羨ましそうな顔だったが、「これは、犯罪だと言うことを忘れないように」と念を押しながら中村を見た。
「我々は、我々の意思でこの任務に志願しただけだ」
 中村は、総理に棘のある視線を向けた。
「そうだ。国会議員の分際をわきまえよ!」
 加藤は、今にも飛び掛りそうな形相で、総理を睨みつけた。
「よさないか」
 山下は、部下を嗜めて、「言い過ぎました。申し訳ありません」と総理に謝罪した。
 総理は、加藤を穏やかな目で見た後に、「国会議員の分際か…。面白いことを言う。そうかも知れない。我々は、勘違いをしているのかもしれないね」と、しみじみとしたような声になった。 

「藤田」
 久保は、会議室の椅子を並べて造った簡易ベッドに身体を横たえながら藤田を呼んだ。藤田は、机を挟んだ向こう側に久保と同じように椅子を並べて横たわっていた。
「何だ?」
 藤田は、顔を久保に向けて尋ねた。
「本当に、できると思うか?」
「さあな」
 藤田は、人事のように呟いた。「おれは、そんな事はどうだっていいと思っている。この国は、こんな些細なことで変わるとは思わない」
「じゃあ、どうして参加したんだ?」
 久保は、少し棘のある視線を藤田に向けた。
「気がすまないじゃないか。何もしないで、死んでいくのは嫌だと思っただけだ。」
 藤田は、納得したような顔になった久保を見て、「とにかく休もう」と言うと眼を瞑った。

  それは、いつもの懇親会のことだった。久保たちは、元隊長の山下よりも先に会場に入っていた。そこは、三流ホテルの小さな宴会場だった。年に一回の山下隊長を囲む会。全員が70前後と言うこともあり傍目には、単なる老人会と映っていたかもしれない。が、元自衛隊の仲間たちの、懇親会であった。山下の退官直後から続いている懇親会であった。最初のうちは、四十人ほどが集まったが、年を重ねるうち何人かが鬼籍に入り、年齢や体調それに家庭の事情もあって最近では、十数名に減っていた。それでも、年齢を考えると山下が部下たちから慕われていた証であった。
 山下大輔は、いつものように電動車椅子を自ら操作しながら会場に入ってきた。全員が起立し元隊長を出迎えた。いつものように乾杯をした後に、山下の恒例のスピーチが始まった。
「国が、国民に最低限しなければならない事は、国民の命を守るということである」
 山下は、年齢を感じさせないしっかりした声で、元部下たちを見回しながら言った。
「あまつさえ、自分たちのやったことは棚に上げ、今まで社会に貢献した老人や弱者に死ねといっている。自分は、そんな政府に対して天誅を加える」
 山下は、そこまで言ってからもう一度全員を見回した。どよめきが起こった。全員が驚いた顔をして、山下を見ていた。それは、山下の日頃からの言動や態度とかけ離れた言葉であったからだ。山下は、理不尽な上官からの命令も甘んじて受け、政治とは無関係で今まで批判をしたこともなかった。その山下の言葉とは思えなかったからだ。
 ビールの入ったコップを持ちながら山下を見ている者。箸を持ちながら、じっと山下の次の言葉を待っている者。困惑した顔で見詰め合う者。全員が、山下の真意を図りかねているような複雑な顔をしていた。
 山下は、「諸君の協力を御願いしたい」と言いながら、深々と頭を下げた。
 元部下の一人で、現役の時に腰巾着と言われていた中村は、立ち上がって、「何をするのでありますか?」と尋ねた。
 山下は、「総理大臣を人質に取り、政府を動かす」と言って全員をゆっくりと見回した。
「それは、犯罪ではありませんか?」
 中村は、立ったまま信じられない顔をして山下を見た。
 山下はうつむき口を真一文字にして、苦渋に満ちたような顔で、「ほかに手はない。これが、自分に出来る最後のご奉公と考えている」と、言った。
「自分は、お手伝いいたします」
 中村は山下の言葉を聞いて、何のためらいもなく言った。
 もう一度、ざわめきが起こった。
「自分は、強制しているのではない。お願いしているのだ。皆にも家族がいる。生活だってある」
 山下は、穏やかな顔になり、全員を見回した。
「自分は、お手伝いさせてもらいます」
 久保は、何かを吹っ切ったような顔で言った。
 藤田は、隊長が来る前に久保が言っていた言葉を思い出した。「妻に先立たれ、介護保険で年金も減った。もうすぐ後期高齢者になる。何のために俺たちは生きてきたんだ? これじゃあ、姨捨山じゃないか」と。
「自分もお手伝いします」
「自分も」
「自分も」
 五人の元部下たちが立ち上がった。
 山下は、立ち上がった部下たちを頼もしそうな顔で見ていたが、「ありがとう。自分は、幸せものだ」と言った。
「自分は、犯罪は犯せません。が、ほかの事でお手伝いさせてください」
 野村は、そういって立ち上がった。
「自分も」
 次々に、部下たちが立ち上がった。
 最後に、藤田が残された。
「自分は、隊長と、国民のために。いや、自分の鬱憤を晴らすために隊長にお供いたします」
 最後に、藤田が立ち上がった。
 山下は、嬉しそうに頷きながら、「ありがとう」と頭を下げた。
「隊長。頭を上げてください」
 中村は、そう言うと、「自分たちは、最後の作戦に参加できることを誇りに思います」と、山下に向きながら、胸を張って答えた。
「作戦か…」
 藤田は、複雑な想いで中村の言葉を聞いていた。現役なら、建前だけの言葉だと蔑んでいただろうが、最後の作戦とでも言わないと自分たちのやろうとしている事を正当化できないのではないか。
 その後の懇親会は、山下の発言にもかかわらずいつもと変わらなかった。いや、目的が出来たことで全員がいつもより話が弾んだ。総理の拉致計画は、山下に一任する形で話題には上らなかった。しかし、勢い政府の不祥事がいつもより多く話題に上った。

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