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ローデン准教授の歴史への挑戦 2.誤 算

(手違いで、幕末の江戸にタイムスリップするローデン)

 ローデンは、少しめまいを感じた。体がだるくなり、床が抜けて少し落ちたような感覚を覚え尻餅をついた。
 これがタイムスリップか? 少し気分が悪くなるだけだと? 帰ったら山本に、少し悪態でもついてやろうと思った。
 ローデンは、首を振って恐る恐る目を開けた。目の前には、何かの板が見えた。ご丁寧にも板には、釘が打ち付けてあった。縄文時代にこんな板があるはずはない。それに、釘も。何だこの匂いは? まるで、昔のトイレの前にいるようだ。
 ローデンは、辺りを見回して、一人の若い男と目が合った。男はローデンを見て腰を抜かしたのか、地面に座り込んでローデンを恐ろしそうな顔で見ていた。ちょんまげ姿で、テレビに出てくる時代劇の町人のような格好をしていた。
 ローデンは、状況が飲み込めずに立ち上がって男に訊ねようとしたが、男は、「化け物だ!!」と、大声を上げてよろよろと立ち上がると、長屋の外に足をもつれさせながら逃げていった。
 ちょんまげ? 長屋? ここはいったい何処なんだ? 江戸時代のようだが、どこで間違えたのだろうか?
 ローデンは、辺りをもう一度見回して、路地裏の人がやっと二人通れるかどうかの狭い通路に気が付いた。奥まった所の、少し広くなったトイレのそばに自分は立っていた。路地の外には、少し広い道が通っているのか、時折人が通っているのが分かった。
 ローデンは、江戸時代・鎖国という制度が頭をよぎった。鎖国の真っ只中に、外国人が一人でいることの危険性を認識しないわけにはいかなかった。ここにいては危ない。しかし、通りに出れば、目立つ自分はすぐに捕まってしまうのではないか? 
「達吉さん。何だね? 素っ頓狂な声を出して」
 男の声を耳にした女性が、戸から顔を出したが、男がいないのを不審に思い長屋から出てきた。女性は、三十そこそこに見えたが、日本髪を結い、鉄漿(おはぐろ)をしていた。
「まっ!!」
 女性はローデンを見つけると、驚いた顔をしてローデンを見たまま動けなくなった。暫く黙っていたが、思い出したように、「大変だ!! 異人さんが厠の近くにいる」と大声を出した。ローデンは、まずいことになったと思いながらも、なすすべもなく棒のように突っ立っていた。
 長屋の中が騒がしくなったと思ったら、何件かの戸が開き、中から数人の女性が出てきた。が、ローデンを奇異な目で見つめたまま動けなくなった。
「なんでい! 人が二日酔いで寝ているときに、やかましい。異人がどうしたって?」
 男の声がして、若い男が長屋から出てきた。歳は、18、9という所だろうか? 江戸時代では、立派な大人である。
「留吉さん。ちょうどいいところにいた」
 最初に出てきた女性は、ほっと胸をなでおろした。
「こちとら、昨日建て前で飲みすぎてんだ。静かにしてくんな」
 留吉と呼ばれた男は、迷惑そうに女性の顔を見た。そこで、女性たちの視線が自分に集まっていることに気がついた。
「なんでい。雁首そろえて。何かあったのかい?」
 留吉は、さっきの女性に訊ねた。
「あれをご覧よ。厠のそば…」
 一人の女性が、厠のそばに突っ立っているローデンを指差した。
「あれ?」
 留吉は、女性が指差したほうを見てローデンと目が合った。
「なんでい。ただの人じゃねえか」
 留吉はそう言ったものの、驚きは隠せなかった。
「異人さんだよ」
「そんなこたあ、見りゃ分かる」
「どうしてここにいるんだろうね」
「どうしてって…」
 留吉と呼ばれた男は、一瞬キョトンとして、「そんなこと分かる訳…」と、言葉を続けようとしたが無理だった。
「そんな…」
 一人の女性が戸惑った声をだした。
 留吉は、少し困った顔をしたが、「きっと、浪人にでも追われて逃げ込んだんだろう」と、勝手に納得した。
「浪人?」
「攘夷とかなんとか言って、異人を見たら殺したがる奴らだ」
 留吉は、そう思った。が、それは、無理からぬことであった。異人と呼ばれた外国人は、居留地で生活していた。その異人が、江戸のど真ん中にいるのである。しかも一人で、長屋の奥に隠れるようにしている。馬にも乗らず通詞(通訳)の人間もいない。
 ローデンは、攘夷という言葉で自分が幕末にいることをはじめて知った。もしかしたら、何とかなるかも知れないという淡い期待をもったものの、これからどうすればいいのか見当もつかなかった。仕方がない、様子を見るしかなさそうだ。
 留吉は、恐る恐る、ゆっくりとローデンの方に向かってへっぴり腰で歩き始めた。距離にすれば五メートルほどだったが少しづつ慎重に近づいていった。
「留めさん。どこへ?」
 別の女性が、心細そうな顔で声をかけた。
「どこって? 異人の所に、決まってるじゃねえか」
 留吉は、振り向いて言った。
「どうするんだい?」
「ここで突っ立ってても、しょうがねえ。訳を聞くに、決まってるだろうが」
 留吉は、じれったそうな顔をした。
「聞くったって。言葉が通じないだろう」
「俺に任せとけ」
 留吉は、そう言ったものの自信のない顔でローデンに近づいて行った。
 ローデンは、長屋の住人の会話から、特に危険はないだろうと思った。ここは下手に、日本語を話さないほうがいいと思い、幕末のアメリカ人を演ずることにした。
「あっしは、留吉というもんです」
 留吉は、名を名乗ってローデンの顔を見た。ローデンは、何も解らない振りをした。
「しかたねえな」
 留吉は、自分を指差すと、「と・め・き・ち」とゆっくりと言った。
「ト・メ・キ・チ?」
 ローデンは、日本語を知らないような顔をして言った。
「そう。留吉」
 留吉は、ほっとした顔になり、自分を指差した指をローデンに向けて、「おめいさんは?」と訊ねた。
「ミー?」
「そう。おめいさんの名前だ」
 留吉は、頷いた。
「ローデン」
 ローデンは、日本語の発音にならないように気をつけながらゆっくりと言った。
「ローデン?」
「イエス」
ローデンは頷いた。
「ローデンという名だそうだ」
 留吉は、後ろを向いて女性たちに言った。
「そんな事より、どうして異人さんがこんな所にいるのか聞いたらどうだね?」
 女性の一人は、あきれた顔をした。少しは偉人に慣れたのか、危険がなさそうだと思ったのか、いつもの呆れた顔になった。
「そうだった。ちょっと待ってくんねえ」
 留吉はローデンに向き直ったものの、どうやって尋ねればいいか困り果てた。ええい。誰かから、逃げてきたのに違いねえ。そう思った留吉は、武士が刀を抜くような格好をした。次にローデンを指差して、必死で走っているような仕草をした。
「どうでい? 違うかい?」
 留吉は、身振り手振りをやめてローデンに訊ねた。
 ローデンは、留吉の仕草を見て吹き出しそうになった。異文化の交流とは、こんなところから始まるのに違いないと思った。留吉は、ローデンの顔を真剣な目で見ている。勝手に一人で早合点しているとはいえ、見ず知らずの、まして鎖国時代に外国人を相手にして事情を訊ねようと努力している。留吉の真摯な態度に、感謝の気持ちを覚えた。いや、感動したと表現した方が正しいかもしれない。
「ええい。じれってえな」
 留吉は、ローデンが理解していないものと勘違いして、同じ仕草を繰り返すと、「どうなんでい」と訊ねた。
 ローデンは、仕方なしに、頷いて見せた。首を横に振ろうものなら、大事になると思ったからだ。
「やっと通じた」
 留吉は、ほっとため息をつくと、長屋の女性たちを振り返り、「どうでい。おれっちの言ったとおりだろ」と、少し得意げな顔をした。
「どうすんのさ」
 さっきの女性が声をかけた。
「どうするって?」
「二人で、ずっとそこに突っ立ってるのかって聞いてるんだよ」
 留吉は、少し考えていたが、「義を見てせざるは何とかでい。ほったらかしに、できるか。まだこの近くに浪人がうろついているかも知れねえから、ほとぼりが冷めるまで匿ってやる」と言った。
「だいじょうぶかい?」
「そうだとも、何者かも判らないのに」
 もう一人の女性が、心配そうな顔をした。
「ローデンという名の人じゃねえか。窮鳥懐にいらずんばだ」
 留吉は、そう女性に答えてから、ローデンを手招きした。
 ローデンは、きょとんとした顔で留吉を見ていた。この若者は、何をするつもりなのだろうか?
「いいから来な。そんなところに突っ立ってたんじゃ、目立ちすぎる。暗くなるまで俺んちにいれば少しは安心だ」
 留吉は、じれったそうな顔をした。
 ローデンは、驚いた。見ず知らずの人間を留吉という若者は、匿おうとしている。
「ええい。じれってえな!」
「そんなこと言ったって、相手に言葉がわかるはずないじゃないか」
 女性は、呆れた顔をした。
「そうだな」
 留吉は、納得して、「ほら」と言って、ローデンの手を掴むと、自分の長屋までローデンを引っ張って行こうとした。ローデンは、留吉の好きにさせることにした。
 留吉が、ローデンを引っ張って自分の長屋の入り口の前まで来ると、今まで恐ろしそうな顔をしていた長屋の女性たちが恐る恐る近づいてきた。
「さすが、異人さんだ。でっかいねえ」
「変な事で、感心するんじゃねえ!」
「異人ですよ!」
 その時、表通りから声が聞こえてきた。
「異人が何だ!? 横浜に行けば、いっぱいいるという話じゃねえか」
「やっぱり、信じてもらえねえんですかい?」
「あたりめえだ! 異人がいるだけなら信じてやってもいいが、お天道様みてえに光って空から落っこちてきたなんて誰が信じる?」
 ローデンは、タイムスリップの光景を目撃した男が、誰かを連れて来るんだと表通りから聞こえてくる声で判った。
「まずい!」
 留吉も、達吉と相手をしているのが大家だと気が付いて、大家に見つかると大事になると思い、ローデンを自分の長屋に急いで引き入れた。
留吉は、思い出したように顔だけ外に出して、「誰にも言うんじゃねえぞ!」と、女性たちに言った。
「判ってるよ」
「任しときな」
 女性たちは、口々に答えた。
 留吉は、ほっとして戸を閉めた。

 長屋の女性たちは、留吉が戸を閉めた後も戸の前に固まって突っ立っていた。
「どうしたんだい? みんな雁首そろえて、そんなとこに突っ立って」
 大家は、達吉を連れて女性たちの前までやってきて声をかけた。
「ちょいと、話し込んでいただけですよ。ねえみんな」
 年かさの女性が答えた。
「そう。ついつい話し込んじまって」
 別の女性が答えた。
「話し込んでいた? 井戸端じゃなくて留吉ん家の前で? ははあ。留吉ん家だな」
 大家は、留吉の長屋の戸を疑り深い目で見た。
「異人さんなんて、何処にもいない…」
 一番若い女性は、そこまで言って口を押さえたが遅かった。
「おたかさんは、いつも正直でよろしい」
 大家は、手間が省けたとほっとした。他の女性たちは、おたかを睨みつけたが、どうする事もできなかった。
 大家は、留吉の家の戸を叩くと、「留吉。悪いようにはしないから、事情を話してくれないか?」と中にいる留吉に聞こえるように少し大きな声を出した。
 留吉は、仕方なしに戸を開けると一人で外に出てきた。
「わしは、留吉と話がある。こんな所に大勢で突っ立ってると目立つじゃねえか。さあ、帰った帰った」
 大家は、心配そうな顔をしている女性たちを見回して言った。
「でも…」
 年かさの女性は、心細そうな顔をした。
「悪いようにはしないと、言っているだろう」
「ここはひとつ、大家さんに任せといたほうが…」
 達吉は、そこまで言って大家と目が合った。大家は、お前のせいだと目で言っていた。
「すいやせん」
 達吉は、小さくなった。女性たちも、仕方なしに自分たちの長屋に戻って行った。
 大家は、全員が長屋に入ったのを見届けるように長屋中を見回した後に話を切り出した。
「悪いようにはしない。事情を話してみろ」
「へえ」
 留吉は、返事だけして困った顔になった。
「へえじゃ分からねえだろう。ここじゃ目立つから中に入れてくんな」
 大家は、半ば強引に留吉の長屋に入ると、首だけ外に出して表の大通りを見てからほっとした顔をして戸を閉めた。
「この異人さんかえ?」
 大家は、畳の前にある30センチほどの板の間に腰を下ろして訊ねた。
「浪人に、追われているようなんで…」
 留吉は、観念した。こうなっては隠し立てしても始まらない。ここは、大家を信じて全部打ち明けるしかない。
「どうして、分かったんだ?」
「へえ。身振り手振りでようやく」
「で、どうするつもりだい?」
「暗くなるまで、ここで匿うつもりで…」
「暗くなったら?」
「帰えってもらいます」
「帰ってもらう? 夜はもっと物騒かもしれないだろう?」
「…」
 留吉は、言葉に詰まった。
「おまえの優しい気持ちは、十分に分かった。仕方がない、わしが一肌脱ごう。手紙を書くから、書き終わったらひとっ走りしてくれ」
「手紙?」
「わしの知り合いの、松山順斉という蘭学者の先生に届けてくれ。あの方なら、きっと助けてくれる」
「役所に、届けねえんで?」
 留吉は、恐る恐る訊ねた。
「大げさな事になったら、異人さんも困りなさるだろう。蘭学の先生なら、言葉も通じるかもしれねえ。役所に届けるにしても、先生に会った後でも遅くないだろう」
 ローデンは、二人の会話を聞いてほっと胸をなでおろした。
「分かりやした。手紙を届けやす。でも紙なんかありやせんぜ」
「そんなことだろうと思って、用意してきた」
 大家は、紙と携帯用の筆を懐から取り出すと手紙を書き始めた。
 ローデンは、部屋の奥から手紙を覗き込んだ。なかなかの達筆である。ローデンは、この時代の日本の文化水準の高さを改めて知った思いだった。日本は、この時代においても世界で識字率が高い国であった。
 大家は、数分で手紙を書き終えると留吉に蘭学者の住所を教えた後に、帰りに寄るように言って帰って行った。
「ローデンさん。おれっちはこれから出掛けるが、帰えって来るまでここで待っててくんねえ」
 留吉は、そう言ったものの言葉が通じないのをじれったく思ったのか、困った顔をしながら人差し指を下に向けて二度ほど下に振った。その後に、ローデンが理解したか確かめるようにローデンを見つめた。ローデンは、首を縦に振った。
「何とか通じたようだな」
 留吉は、ほっとした様な顔をした。
「おれっちが出て行ったら、つっかい棒で・・・。ええいじれってえ!」
 留吉は、怒り出した。が、言葉が通じないと思っているローデンに八つ当たりしても仕方ないと思ったのか、また、身振りで伝えようとした。
 留吉は、最初に自分を指差すとそのまま、外の方に指を持って行った。それから、ローデンを指さすと、自分で戸を閉める仕草をして、つっかい棒を戸に掛けてみせ、「どうでい?」と、訊ねた。
「イエース、イエース」
 ローデンは、簡単な単語を使って首を縦に振った。自分でも不思議なくらい真剣な事に気がついた。
「いええす? 解ったということかな? しかたねえか…」
 留吉は、ローデンが理解したと思うことにした。長屋の連中に頼んで、厄介ごとに巻き込ませるわけには行かない。大家がいない以上、ローデンを一人で留守番させるしか方法はない。留吉は、仕方なしに手紙を届けることにした。
「じゃあ、ちょっくら行って来らあ。半時ほどしたら戻ってくるから待っててくんねえ」
 留吉は、戸をあけて出て行くとすぐに戸を閉めた。
 ローデンは、留吉に言われたとおり戸につっかい棒を掛けた。留吉は、外からつっかい棒を掛けた事が解るとほっとして、蘭学者の元へと小走りで向かった。
 ローデンは、部屋の中をもう一度見回した。部屋の中は何もない。押入れひとつない。窓もなく、光が戸の障子から差してくるだけである。家具らしきものはなく、布団は、ローデンが入ったときに奥まったところにたたんで置いたまんまてある。質素というよりも、つつましい生活ぶりである。これが江戸時代の、庶民の暮らしなのか。
 なぜ時代が、こんなにずれたのだろうか? 当然時間も当てにはできない。ローデンは、念のために時計を見た。時計の針は、四時を少し回ったと告げていた。
 山本の研究室に行ったのが三時半ごろ、十分もしないうちに、タイムスリップでこの時代に来たはずだ。とすると、時間だけは、変わらないというのか? 時計は、正確に動いているようだった。それに、太陽の傾き加減を見ても、時間だけは正確なような気がした。
 今は、いったいいつなのだろうか? 幕末という以外は何もわからない。自分がいた二十一世紀は、梅雨が明けた初夏だった。気候は、同じような気がするが…。ローデンは、考えるのをやめた。いまさら考えても始まらない。それよりも、このまま無事に三日間過ごす事のほうが重要である。蘭学者に会うまでは、このまま日本語がわからないアメリカ人を演じるしかないと思った。
 留吉が戻ってきたのは、五時半過ぎであった。ローデンの時計が、正しいとすればの話ではあるが。本当の時間は、分かるはずもなかった。ただ、太陽は、向かいの長屋に消えて日は陰っているようだ。この季節は、七時近くまで太陽が出ているはずだ。すると季節は、変わらないというのか?
留吉は、折り詰めを三個持っていた。ローデンは、不思議な顔をして折り詰めを見た。いったい何が入っているのだろうか?
「少し早えいと思ったんだが、晩飯にと思って…」
 留吉は、そこまで言ってから気が付いて、「言葉が通じねえんじゃ、話してもだめか」と、独り言を言ってから、諦めて折り詰めを畳の上に置くと、口を開けて手で何かを掴んで口に入れるしぐさをした。
 ローデンは、頷いた。晩飯というからには何かの食べ物には違いない。見たところ寿司のようではあるが、寿司なのだろうか?
留吉は、自分の身振りが通じたと思い、ローデンの前に折り詰めを二つ置いた。
 ローデンは、不思議な顔で目の前に置かれた折り詰めを見た。
「おめえさんは、図体がでかいんでひとつじゃ足らないと…」
 留吉は、言葉の分からない異人にまともに話しかけている自分に気がついて苦笑した。
「そうか」
 留吉は、自分で折り詰めを開けて見せた。中には、握りずしが入っていた。ローデンは、見よう見真似を装いながら、寿司の折り詰めを開けた。
折り詰めの中から、寿司の酢の匂いがした。握りずしは、ローデンが日ごろ食べなれている寿司とは色が違っていた。それに大きい。マグロのはずだが、少し黒いような気がした。
「遠慮しないで、食っとくれ。いけえねえ。また喋っちまった。まあいいか」
 留吉は、気を取り直すとローデンを見た。
ローデンは不思議そうな顔で、寿司を覗き込んでいた。
「うめえから、食ってみねえ」
 留吉は、言葉が通じないと思い、寿司を一つつまんで口に入れたあとにローデンを見た。
 ローデンは、言葉が解るのがばれてはまずいと思い、寿司を口に入れるしぐさをして留吉を見た。
 留吉は、頷いて、「そう。うめいから、食ってみな」と、ほっとしたような顔をした。
 ローデンは、留吉が醤油をつけないのを不思議に思いながらも留吉に習ってすしを一つ摘まんで口に入れた。
「デリシャス!」
 ローデンの口から、自然と英語が出た。どこかで聞いた話だが、江戸時代には味がつけられていてスナック感覚で食べられていたそうだ。
「そうかい。デリシャスかい」
 留吉は、満足そうな顔をしたが、「デリシャス?」と、初めて聞いた言葉だと気がついてローデンを見た。ローデンは、うまそうに寿司をぱくついていた。
 留吉は、デリシャスがうまいと言う言葉だと直感で思ったもののローデンに確かめる方法はなかった。

 その日の夜、ローデンの時計では八時半を過ぎた頃に大家がまたやってきた。ローデンは、大家が持参した大きな派手な浴衣に着替えさせられた。頭には、立派な鬘をかぶせられた。ローデンは、訊ねる訳にはいかないので大家が何かいうのを待つしかなかった。
「どうだい? これなら誰が見ても、異人には見えないだろう。立派な相撲取りになる」
 大家は、ローデンを隅から隅まで見た後に、満足そうな顔をした。
 ローデンは、うまいことを考えたと感心したものの言葉が解らない振りをするしかなかった。
「そうですねえ。外は暗えし、うまくいくにちげえねえでしょう。で、おいらは?」
 留吉は、感心しながらローデンを見た。
「おまえは、褌かつぎって所かな」
「大家さんは?」
「わしは、ご贔屓の旦那って所だ」
「なるほど。これなら怪しまれずに、すみやすね」
「さあ。早速行くとするか」
「へえ」
 留吉は、ローデンの服とリュックを、風呂敷に包んで背負った。次に、ローデンが首にかけていたビデオカメラを取ろうとしたが、ローデンは、「ノー」といって嫌がるので浴衣の下に隠した。
 蘭学者松山順斎の家には、三十分ほど歩いて着いた。
 家は、平屋建てでそう広くはないように思えた。玄関はひっそりと静まり返っていたが、家の中の灯りが漏れていることでここの住人が起きている事は察しがついた。
 大家は、玄関の戸を静かに叩いてから、「市蔵です」と、名乗った。暫くすると戸が開いた。中から若い女性が顔を出して辺りを窺うと、無言で三人を家の中に招き入れた。すぐに戸を閉めると、つっかえ棒をした。
 ローデンは、女性が短大の卒業式のような格好をしているのに驚いた。そういえば、母が好きだったOSK(大坂松竹歌劇団)も、こんな格好をしていた事を思い出した。
 暗くてよくわからなかったが、着物に袴をはいて活動的な雰囲気が伝わってきた。髪は、日本髪ではなく長い髪を頭の後ろのほうで束ねて、ポニーテールのように下に垂らしていた。
「上がっていただきなさい」
 奥から、順斎と思われる男の声がした。
「はい、父上」
 女性は、答えてから、「さ、どうぞ」と、言って先頭に立って案内した。短い廊下の端の襖を開けると、一人の五十前後の男が正座をして、蝋燭の明かりで読書をしていた。
「父上、お連れしました」
 女性はそう言うと、押入れの中から座布団を取り出してきて順斎の前に座布団を敷いた。
 ローデンは、立ったまま暫く様子を見ることにした。
「順斎先生。夜分御伺いして、申し訳ございません」
 大家は、恐縮していた。
「いえ。この方が人目につかないと思いまして、こんな刻限にご足労をかけました。さ、どうぞ。遠慮しないでお座りください」
「それでは、お言葉に甘えまして」
 大家は、先に座布団に正座した。留吉も、大家に習ってぎこちなく正座した。
 留吉は、ローデンが立ったままなのを見て浴衣の袖を引っ張った。ローデンは、座布団を指差した。
 留吉は、言葉の代わりに頷いた。
 ローデンは、二人を真似るような顔をして座布団の上に正座した。
「ほほう。この方が、ローデンという異人さんですね」
 順斎は、ローデンを見た後に大家に訊ねた。
「はい。実は、手紙にも書いたとおり留吉が、浪人に追われているようなので匿ったと言うのです。言葉が通じない以上、本当の所は分からないのです」
「あなたが!?」
 順斎は、留吉を頼もしそうな目で見た。
「へえ。どこの馬の骨か知りやせんが、袖刷りあうも何とやらで…。こんな訳の分からない異人を連れて来やしてすいやせん」
 留吉は、恐縮した。昼間手紙を届けたときも、順斎は気さくに接してくれた。留吉は、それが嬉しかった。
「何、あなた方にしても、今日始めて会ったのではないですか? これも何かの縁。私にできることがあればと思い、こんな夜更けにご足労を掛けた次第です」
 順斎は、二人に労いの言葉を掛けた。ローデンは、黙って順斎を見ていた。順斎の顔を見て、知性は顔に出るものなのかと思った。ローデンは、順斎に厳しさと優しさのようなものを感じた。蘭学者ということは、オランダ語を話せるかもしれない。しかしオランダ語を話されても、自分に分かるはずはない。
 順斎は、無言で自分を見つめているローデンに気がついてローデンを正視した。ローデンは、順斎の視線を避けることなく、じっと順斎を見たままだった。
 順斎は、面食らった。この異人は、何で私を見ているのだろうか? 敵意はなさそうだし、大家さんの話のように誰かにすがろうとしている目でもない。
 順斎は、ローデンの透き通るようなブルーの目を見て自分がどういう人間か見極めようとしているように感じた。何か、特別な事情でもあるのだろうか?
 ローデンは、迷っていた。初めて会う人物である。どこまで信じていいのだろうか? どこまで話していいのだろうか? 日本語を話すべきなのか? 英語で押し通すか? 英語で押し通せば、明日には役人に引き渡されるだろう。それから、横浜に連れて行かれる。どのみち、あさってには二十一世紀に戻ることになる。適当にごまかせば何とかなるはずだ。しかし、留吉や大家の好意をどうする? もし、自分がありのままのことを話せば、信じてもらうことができなくても礼の一つも言えるではないか。
 大家は、二人が無言で向き合っている姿を見て只ならぬものを感じ取った。ローデンという異人は、留吉が言ったように浪人の追っ手から長屋に逃げ込んだだけなのだろうか? もっと深い事情があるに違いない。
 留吉は、訳が分からないまま二人を見ていた。その場の雰囲気で、迂闊にしゃべれないことだけは感じ取った。少し経つと、足がしびれ始めた。この異人は、足がしびれる様子もなくじっと正座をしている。いったいどうなっているのだろうか?
 ローデンは、順斎を信じることにした。順斎に見つめられていると、心の底まで見透かされている気分になった。少なくとも、人格者には違いないだろう。
 自分の話しを信じてもらうつもりはなかったが、それでも話さなければ申し訳が立たないような気になった。
 ローデンは、意を決して深々と頭を下げると、「申し訳ございません」と始めて日本語を話した。
「異人が…! 異人が! 話した!」
 留吉は、驚いてローデンを見た時にしびれ始めた足がつってしまった。
「あいたたた!」
 留吉は、座布団の後ろの畳に尻餅をついて後ろにひっくり返った。
「留吉! みっともない」
 大家は、顔だけ動かして留吉を叱った。
「市蔵さん。叱らなくても良いだろう。気がつかなかった私が、いけないのだから。留吉さん。足を楽にしてください」
「ありがてい。じゃ、遠慮なく」
 留吉は、あぐらをかいて座布団の上に座りなおすと、ローデンを睨み付け、「やいやい! 話せるんなら、はなから話していたらこんな苦労しないですんだんでい!」と、ローデンに食って掛かった。
「留吉さん。何か深い訳がありそうだ。怒るのは、話を聞いてからでも遅くはないでしょう」
 順斎は、穏やかな口調で言った。
「へえ」
 留吉は、順斎の言葉を聞いて何も言えなくなった。
「ありがとうございます」
 ローデンは、順斎の配慮が嬉しかった。
「礼には及びません。さっきからあなたを見ていて、そんな気がしたものですから。で、どこのお国の方ですか?」
「はい。アメリカ人の、ジミー・ローデンと申します」
「アメリカの方ですか。良かった」
 順斎は、ほっとしたような顔をした。
「どういう事で?」
 大家は、不思議な顔をした。
「私の拙いオランダ語で、どこまで通じるか不安だったのですが、アメリカの方となるとまるで言葉が分からない。どこで言葉を覚えられたかは存じませんが、言葉が分かって助かりました」
「そう言われると、恐縮しますが…」
「そんな事よりも、なぜこういう事態になったのか教えて頂けないでしょうか」
 ローデンは、すべてを話すことにした。
「はい。私は、百六十年ほど先の未来から来たんです」
 ローデンは、そこで言葉を切って順斎を見た。順斎は、顔色を変えずに穏やかな顔でローデンを見ていた。が、目は真剣そのものだった。真実を探求する目だった。
 大家は驚いたものの、順斎が口を開かないので最後までローデンの話しを聞くことにした。
「そんな与太話、信じられっか!」
 留吉は、怒り出した。ローデンは、無理もないと思った。二十一世紀でさえ、映画や小説の世界だと思われても仕方ない。下手をすると、精神病院に入れられかねない。まして、幕末である。そんな突拍子もない話、信じろと言う方がおかしいのかも知れない。
「留吉さん。気持は分かりますが、最後まで話を聞いてあげましょう」
 順斎は、穏やかな口調だった。
「へえ。先生が、そう言いなさるんなら…」
 留吉は、順斎のてまえそう言って黙ったが、ローデンを睨み付けることで、少しでもうっぷんを晴らそうとした。
「さあ、話を続けてください」
 順斎は、ローデンに向き直って言った
「私は、考古学の学者です」
「考古学? どんな学問ですか?」
 順斎は、新しい学問に興味を覚え身を乗り出すようにして訊ねた。
「簡単に言いますと、古い住居跡や使っていた物から、その時代を研究する学問です。私は、数千年前の日本を研究しています。オランダ語は解りませんが、英語、いや、イギリス語では、“Archaeology”と言います」
“Archaeology”? そういえばオランダ語に、“Archeologie”という、古い時代を研究する学問がありますが、言葉は似ていますね」
「多分、間違いないと思います」
「そうですか。あなたも学者ですか」
 順斎は、満足そうな顔をしたが、「失礼。話の腰を折ってしまった。さあ、続けてください」と、自分が余計なことを言ったと悟った。
「私の親友の山本という男が、タイムスリップ、いや、時間を越えていつの時代にもいけるマシン、いや、からくりを完成させたので、数千年前の日本に行くつもりが、何かの手違いでこの時代に来たのです」
 ローデンは、幕末の人間にもわかるように言葉を選んで説明した。
「そうですか」
 順斎は、うでぐみをした。
「まさか? 先生は、こんな与太話を信じるんですかい!?」
 留吉は、歯がゆそうな顔をした。
「にわかに、信じられる話ではないですね」
 順斎は、腕組みをしたまま答えた。
「それみねえ。そんな話、誰だって信じられるかい」
 留吉は、調子に乗ってローデンに食って掛かった。
「ところで、ローデンさん。これから当てがあるのですか?」
 順斎は、留吉の言葉を無視して訊ねた。
「いえ」
「それならあなたが帰るまでの間、この家に逗留されてはどうかな?」
 ローデンは、順斎の申し出に驚いて順斎をまざまざと見た。
 大家と留吉も、驚いた顔をして順斎を見た。
 順斎は淡々とした表情で、むしろ優しいまなざしをローデンに向けていた。
「しかし…」
「しかし、何ですか?」
「始めて会った方に…」
 ローデンは、順際を見て口ごもってしまった。この人物は、何を考えているのだろうか?
「心配には、及びません。私は、あなたに興味を持っただけです。あなたが、本当に未来から来たのであれば、私も学者の端くれ、いろいろと話を伺いたい。嘘であれば、そんな突拍子もない嘘をつける人間に興味があります。裕福とはいえない暮らしぶりではありますがこれも何かの縁、逗留してもらえないでしょうか」
「なるほど。先生のおっしゃるとおりだ。そんな突拍子もない話、戯作者(小説家)にも書けるもんじゃねえ」
 留吉は、順斎の言葉に感心したような顔をした後にローデンに向かって、「こうなったら、おいらもとことんあんたの話を聞いてやる。面白かったら草子(小説)を書いて売り出すんだ」と言った。
「おい留吉」
「何です? 大家さん」
 留吉は、不思議そうな顔をして大家を見た。
「お前の書いた草子なんぞ、誰が読む?」
「無理でしょうか? やっぱり…」
 留吉は、すぐに納得した。
「ローデンさん。当てがないのなら、迷惑ついでにご厄介になってはどうです?」
 大家は、ローデンに向き直ると真剣な顔をした。
「そうでい。もう十分迷惑かけてるんでい。こうなったら、おいらも一肌脱ごうじゃねえか」
 留吉は、そう言うなり、「こんな訳の判らない異人ですが、よろしくお願いしやす」と順斎に向かって頭を下げた。
「やれやれ、御願いしているのは私のほうなのですがね」
 順斎は、困った顔をした。
「あんたが、もたもたしているから、先生を困らせたじゃねえか!」
「留吉。お前が、出すぎたまねをするからだ」
 大家は、呆れた顔をした。
「ローデンさん。どうです? 手違いとはいえ、せっかく私たちの時代に来たんです。何のおもてなしもできないかもしれないが、いい思い出を作るつもりで逗留してはいただけないでしょうか?」
「判りました。あさっての午後には帰りますが、お言葉に甘えてそれまでご厄介になります」
 ローデンは、深々と頭を下げた。
「そうと決まったら」
「お酒でしょ」
 さっきの女性が、いきなり襖を開けて順斎の言葉を遮った。お慶は、また順斎の物好きが始まったと思った。いつもの事である。しかし、未来から来たという異人のことが気になった。
「なんだお慶、聞いていたのか?」
 順斎は、困った顔をした。
「すいません。でも、異人さんのお客さんなんて、珍しいんですもの。いえ。初めてです。それに、その格好」
 お慶は、悪びれた様子もなくローデンが着ている派手な浴衣や、鬘を指差して笑った。
「そういえば、町を歩いていたまんまだ」
 留吉は、大声を上げて笑った。場合が場合だけに格好を気にしている時でなかったものの、お慶に指摘されて今までの緊張が解け、初めて和んだ雰囲気になった。大家も、順斎までもが、笑顔を見せた。ローデンは、鬘を取ってばつの悪い顔をした。

 暫くして、この家のただ一人の使用人が酒と肴を運んできた。
「急なお客様のこと、ろくなおもてなしもできませんが、遠慮なくやって下さい」
 順斎はそう言ったが、不意の来客のため日頃からある程度の準備はしているのか、魚とおからなど数点の肴が箱善の上に乗っていた。
 お慶は、当たり前のようにローデンの隣に座るとお酌をしながら、「未来の話を聞かせていただけますか?」と言った。
「お慶。おまえは、信じるのか?」
 順斎は、少し驚いた顔でお慶を見た。
「はい」
 お慶は、なんのためらいもなく返事をした後に、「だって、そんな見え透いた嘘をついても、すぐに判るでしょ。私なら、もっと気の聞いた嘘をつきます」と平然と答えた。
「おまえも、そう思うか?」
「はい」
「信じてくれるんですか?」
 ローデンは、お慶を見た。
 暗い玄関とは違い、蝋燭だけの明かりでもはっきりと顔が見えた。面長で、目はきりっとした知的な美人だった。歳は、二十四、五という所だろうか。
「もちろんです」
 順斎は、お慶が自分と同じように思っていることが嬉しかった。ローデンの言ったように、時間を遡る事などできるのであろうか? しかしこの人物は、嘘をついているようには思えない。お慶が言ったように、もっとましな嘘をつくこともできたであろう。最後まで、日本語がわからない振りをすることもできたはずだ。それをしなかったローデンの、人柄が見えてきた思いがした。
「ローデンさんが、本当に未来からやってきたとなると、俺たちがどうなったかって事も判っちまう」
 留吉は、複雑な顔をした。
「残念ながら、そこまでは判りません。どうしてもと言われるなら、調べることはできるかも知れません」
「えっ。本当ですかい?」
 留吉の顔色は変わったが、「止めときやす。そんなこと判ったら、おちおち生きてらんねえ」と真っ青な顔になった。
「留吉さんは、与太話を信じる気になったんですか?」
 順斎は、笑顔で訊ねた。
「へい。お嬢さんの、言いなさるとおりだと思いやして…」
 留吉は、照れ笑いをした。
「ところで、市蔵さんはどう思われますか?」
 順斎は、困惑したような顔をしている大家に尋ねてみた。
「わしには、見当もつかない突拍子もない話です」
 大家は、正直に答えた。
「証拠といっては何ですが、未来から持ってきたものがあります」
 ローデンは、今まで大事に持っていたビデオカメラを、浴衣の中から出すと留吉に向けた。
「ひえー!!」
 留吉は、恐ろしい顔をして少し後ずさった。浴衣に着替える時には、気が付かなかったがよく見ると短筒のような恰好をしている。
「何も、怖がることはないです。ビデオカメラといって、写真のようなものです」
「しゃしん? 短筒じゃあないんで?」
 留吉は、不思議そうな顔でビデオカメラを覗き込んだ。
 ローデンは、液晶画面を開けて留吉に見せた。ビデオカメラは、お慶に向けられて部屋の暗さにもかかわらず高性能のカメラは、鮮明にお慶を映し出していた。
「お嬢さんが見える」
 留吉は、それだけで驚いて、お慶と液晶画面を目をパチクリさせながら交互に見ていた。
「私が?」
 お慶は、信じられないような顔をして液晶画面を覗き込んだ。が、当然そこには誰も映っていなかった。
「この前にいないと、映らないんです」
 ローデンは、お慶にカメラのレンズを見せた。
「では、映しますよ」
 ローデンは、カメラをお慶に向けてシャッターを押した。
 お慶は、何事が始まるのかと身構えたが、撮影は、呆気なく終わった。
「終わりました。見てみますか?」
 ローデンは、液晶画面をお慶に見せた。
 お慶は、真っ暗な画面を不思議そうに見ていたが、ローデンが再生のスイッチを押して自分の姿が映ると目を白黒させながら、「父上、私が映っています! それも色つきで!」と、順斎を呼んだ。
「これは!」
 順斎は、お慶の後ろから恐る恐る液晶画面を見て絶句した。色がついている! それだけではなく、動いている。順斎は、以前写真を初めて見たとき以上に衝撃を覚えてローデンを見た。
「どうです? 少しは、私が未来から来た証拠にはなりましたか?」
「凄い! あなたが、未来から来た話を信じない訳には…」
 順斎は、それ以上言葉が出なかった。
「凄げえ! 先生の、言いなさるとおりでさ」
 留吉は、感心したような顔をした。大家は、遠くから画面を見てただ驚きを隠せないで生唾を飲み込んだ。
「せっかくのお酒です。驚いていないで頂きましょう」
 ローデンは、全員が驚いたままなのを見てやりすぎたかもしれないと思った。が、自分が未来から来た証は、これしかなかった。
「そうですね。しかし、困った」
 順斎は、自分の席に戻ると腕組みをした。
「父上。どうされました?」
「市蔵さん、留吉さん。この事は、口外しないで下さい。お慶、おまえもだ。ローデンさんに、どんな災いが及ぶとも限らない」
「だいじょうぶでさ。そんな事話したら、あっしがおかしくなったと思われやす」
「留吉! 冗談言っている場合じゃないんだ」
「市蔵さん。留吉さんだって、悪気があってのことではないでしょう。それに、留吉さんの言うとおりです。ローデンさんが帰るまで、私の友人から頼まれて江戸見物をしに来たことにしますからそのつもりで」
 順斎は、真剣な顔をして市蔵を見た後に留吉を見た。二人は、事の重大さを改めて悟った。
「判ってまさあ。こちとら、江戸っ子でい。任しといてくんねえ」
「留吉さんさえよければ、明日ローデンさんを江戸見物に連れて行ってくれますか?」
「本当に、江戸見物するんですかい?」
 留吉は、怪訝な顔をした。
「もちろんですよ。何かあったときに、申し開きが立つではないですか。それに、時代がずれたとはいえ、はるばるやって来られたんです」
「判りやした。一肌脱がさしていただきやす」
「ありがとうございます」
 ローデンは、順斎の配慮が嬉しかった。
「何、凄い物を見せていただいたお礼です」
「私も、一緒に行っていいでしょう」
 お慶は、順斎を上目遣いに見た。
「仕方がないな。足手まといにならないようにしなさい」
「判りました」
 お慶は、子供のように喜んだ。
「この子は、幾つになっても子供のようでお恥ずかしいですが、ご一緒させてください」
「ローデン様。とても日本語がお上手ですが、どこで覚えられたのですか?」
 お慶は、ばつが悪いのか順斎の言葉を無視して訊ねた。
「実は、日本で生まれたんです」
「日本で!?」
 お慶は、驚いた。
「そんな時代が来るのですか?」
 順斎は、信じられないような顔をした。
「はい。日本人も多く外国、いや、異国に行っております」
「そうですか。そういう時代が、来るのですか」
 順斎は、遠く未来を見つめるような目をした。
「はい」
「では、言葉は、日本で覚えたのですね」
「父は亡くなりましたが、両親とも日本語を話せたので自然に覚えました。結局、アメリカに戻らず、日本に住み着いてしまいました」
「百六十年後の世界は、どうなっているのですか? 今と、どう違うのでしょう」
 お慶は、ローデンにお酌をしながら訊ねた。
「そうですね…」
 ローデンは、杯を口にして少し考えた。交通が発達して、どこにでも行ける。コンピュータや携帯電話、それに映画やテレビ、水道にガス電気。数え上げればきりがない。しかし、人間の本質はこの時代と変わっていないのではないか。いや、二十一世紀よりも幕末のほうが、人々が生き生きとして生きていたのではないだろうか。留吉といい、今ではなくなっている人情というものがある。
「便利には、なっていますね」
「たとえば?」
 お慶は、身を乗り出してきた。
「特に、乗り物は凄い。車や電車、それに飛行機と、考えられないような速さで目的地に行けます」
「車? 何です?」
 お慶は、未来の乗り物に興味を持ったようだった。ローデンは、お慶のために掻い摘んで説明した。

最初(プロローグ)から見る
1.憧 れ←前の章
次の章→3.幕 末
2021年11月2日公開
(ローデンは、幕末の江戸の見物や蘭学者と娘のお慶との日々)


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