見出し画像

ローデン准教授の歴史への挑戦 5.万次郎

(暴漢から、ジョン万次郎を助けることができたローデン)

 山本は、前のような緊張はなかった。ローデンが無事に戻ってくることに疑問の余地はないが、別のことで少し不安になっていた。
 ローデンに告げなければならない。と、腹をくくった。

 ローデンは、前回のように着物姿だが、浴衣ではなく普通の着物なのが不思議だった。荷物は抱えたままで右手には、筆を握っていた。まるで、慌てて逃げ出したような姿に思えた。
「おまえは、いつも俺を驚かしてくれる。何でそんな格好をしている。暴漢にでも襲われたのか?」
 山本は、ローデンのおかしな格好を不審に思った。
「お慶さんに、英語を教えていたところなんだ」
「英語って…。そんな直前まで教えていたのか?」
 山本は、呆れた顔になった。
「ところで、今日は八月三十日か?」
 ローデンは、気になって尋ねた。
「何を寝ぼけている? 約束だろ。ちょうど三十日経っておまえを呼び戻した」
 山本は、いまさらなにを言っている? と、怪訝な顔をした。
「日にちがずれたんだ」
 ローデンは、困惑した顔になり、「三十日後に幕末に行ったはずなのに、向こうに着いたら四十日経っていた。戻ったのは、五十日近く経ってからだ。だから、幕末は秋になっている」と、時間がずれたことを告げた。
「まさか? 前回は、時代がずれて、今回は、日にちがずれた? そんなはずはない…」
 山本は絶句して、パソコンを操作し始めた。
 ローデンは、荷物を床に置くなり、「おれは、凄い体験をした。VIP待遇だ。凄いだろう」と、得意な顔になった。
「VIPって、何だ?」
 山本は、うっとうしそうな顔で尋ねた。
 ローデンは、空いている椅子を見つけて山本の近くまで転がして来て座ると、「警護の侍が付いた。しかも、二人だ」と自慢し始めた。
「おいおい。俺は、原因を調べなければならないんだ。おまえの、いつもの自慢話に付き合っている暇はない」
 山本は、そう言ったが、「もうひとつ気になることがあるんだ」と、付け加えた。
「何だ?」
 ローデンは、少し気になって尋ねた。
「ジロウを覚えているか?」
「タイムスリップした犬か?」
「ああ。ジロウが、三日ほど行方不明になった」
 山本は、パソコンを操作したままで言った。が、真剣な顔をしていた。
「そんなことか」
「部屋の中で飼っていたんだぞ。それに、戻ってきたときは、泥まみれだったそうだ。ジロウがいなくなってから戻るまで、雨は降らなかった…」
 山本は、パソコンを操作する手を休めて、ローデンを真剣な眼で見ていた。
「まさか? 勝手にタイムスリップしたとでも?」
 ローデンは、そこまで言ってから、「誰かが、道路に打ち水でもしたんだろう。雨が降っていなくても、泥まみれにならないとは限らないじゃないか」と、山本の考えに否定的なことを言った。が、自分のことを心配してくれる山本の気持ちは嬉しかった。
「俺の、思い過ごしだとでも?」
 山本は、ローデンを見てから少し目を伏せると、「俺だって、そう思いたいさ。だが、お前の身に何かあってからじゃ遅いんだ」と、珍しく神妙な顔になった。
「ありがとう」
「いや。俺の責任だ。俺が、もっと慎重にジロウを見ていれば防げた」
 山本は、溜息をついてから、「ジロウに、小型カメラをつけたからジロウがどうなったか分かるはずだ」と、付け加えた。
「よく飼い主が同意したな」
「可愛くなったと言って、譲り受けた」
「おまえらしいな」
 ローデンは、舌を巻いた。が、「ジロウは、どこで飼っているんだ?」と、尋ねた。
「出かけている。おそらく、縄文時代だ」
「まさか?」
 ローデンは、絶句した。
「違うかもしれない。が、戻ってこないと何とも言えない。単に、逃げ出しただけなのかもしれない。分からないんだ。カメラを付けてから初めてだから…」
 山本は、困惑した。
 ローデンは、自分が自分の意思ではなく知らないうちに幕末に行くことを考えた。が、「今のうちかも知れない。土産を渡しておこう」と言って、財布を取り出して財布の中から、小判を二枚出した。
「何だ? 小判じゃないか」
 山本は、怪訝な顔で小判を眺めた。
「あまり金を使わなかったから、小判に換えた。高く売れるだろう」
 ローデンは、小判を山本に渡して、「ツアー代金だ」と、付け加えた。
「そういう手があったな」
 山本は、嬉しそうな顔になり、「こんど、これを元手に一分銀を買うから、また小判に代えてくれないか?」と、懇願した。
「俺のことは、どうなった?」
 ローデンは、山本の真意を図りかねた。山本の口ぶりから察すると、俺は、知らないうちに幕末と現在を行き来する可能性があるということになる。
 幕末に行くことは、願ってもないことではある。しかし、自分の意思と関係なく行き来すれば、多くの人に迷惑をかけないだろうか? 自分の生活は、どうなる? ローデンは様々なことを考えたが、山本にすべてを委ねるしかないと考える事をやめて、「これから、休講届けを出してくるから、明日また同じところに戻してくれ」と、山本に頼んだ。
「本気か?」
 山本は、呆気に取られた顔になり尋ねた。
「どういうことだ?」
「俺の責任だが、おまえはこの先どうなるか分からないんだぞ!」
 山本は、ローデンの真意を、図りかねて怒り出した。
「俺に、心細そうな顔をして自分の運命を呪えとでも言うのか?」
 ローデンは、他人事のような顔で尋ねた。
 山本は、少しローデンを見ていたが、「おまえらしくもないな。でも、何故急にそんなこと言い出すんだ?」と、まだ納得していなかった。
「万次郎さんと、再会を約束したんだ」
「万次郎さんって、誰だ?」
 山本は、また変な奴と、おかしな約束をしたぐらいにしか思っていなかった。
「おまえ、歴史で習わなかったのか?」
 ローデンは、呆れた顔になった。
「まさか?」
 山本は、歴史という言葉で一瞬呆気に取られた顔をした。幕末。万次郎。と、自分の知っている人物を思い浮かべて、「ジョン万次郎か?」と、ローデンを見つめたまま固まってしまった。
「そうだ。なかなかの人物だぞ」
「何故…。何故? そんな人物と知り合いになったんだ?」
 山本は、怪訝な顔になった。こいつは、幕末で何をやっているのだ? と、思った。得体の知れない、運命のようなものがあるのだろうか? ローデンを見たが、ローデンは気負うこともなく平静な顔をしている。
 ローデンは、山本のために掻い摘んで経緯を話した。
「お慶さんの、嘘だったとは…」
 山本は、話を聞き終わると大声で笑い出した。
「で、万次郎と会って、斉藤という人物に初対面だと分からないように英語で話した?」
 山本は、腹を抱えて笑い出した。が、「まさか? 正直に話すつもりか?」と、真面目な顔に戻った。
「そのつもりだ」
 ローデンの何の気負いもない答えに山本は、「相手は、歴史上の人物だぞ。おまえの素性がばれたら…」と、驚いてローデンをまざまざと見た。
「その時は、その時だ。歴史の教科書を見てくれ」
 ローデンは、いつものように普通の顔で答えたが、「あの人物は、そんな人物ではない。もっとも、俺の言葉を信じてくれたらという前提はあるがな」と、意に介していないようだ。
「分かった。おまえの好きにすればいい」
 何人もの人間に、ローデンの正体はばれている。ローデンが幕末に関われば関わるほどにローデンの正体を知る人間は増えることであろう。考えたくないことだが、ローデンが勝手にタイムスリップを繰り返すようになれば…。自分は、何も出来ない。ローデンを、信用するしかないのだと。山本は、ローデンを信じることにした。

 次の日午後二時前にローデンは、タイムスリップ装置に立っていた。
予定は、30日。9月29日に戻る約束だが、幕末で何日の滞在になるか見当も付かなかった。山本の計算を信じれば前回以上の二ヶ月は滞在するということだった。が、細かい日付までは分からない。と、山本は、情けない顔をした。
 ローデンにとって、二ヶ月という時間に不足はなかったが、その後、どれぐらい滞在することになるのか? 分からない以上二ヶ月を過ぎれば、順斎の家からなるべく出かけないようにするしかない。戻る時間は、八つ時前後と分かっている。八つ前後に家の中にいれば、問題は起きないだろう。
「本当にいいんだな」
 山本は、タイムスリップ装置に立っているローデンに念のために尋ねた。
「いいに決まっている」
 ローデンは、少しムッとした顔になった。
「タイムスリップを繰り返したら、どうなるか責任がもてない」
 山本は、一応ローデンの立場を告げた。
「そんな事は、後で考える。幕末に行って、何日経ったか分かれば少しは役立つかもしれないだろう」
 ローデンは、何の気負いもなくそれが当然のような言い方をした。
「土産を忘れるなよ」
 山本は、念のために言った。
「分かっている」
「研究には、金が掛かるんだ。おまえを、ジロウのようにはしたくない。だから、金が必要だ」
 山本の顔は、真剣だった。
 山本は昨日、ローデンから小判を受け取ると、その足で古銭専門の店に行って、小判を一分銀貨に換えてきた。
 小判二枚が、あまり美しくないとのことで合計で90万円になり、一分銀は、在庫があまりないということで、20枚で55万円だった。他にも、数件回って結局50枚の一分銀をかき集めてきた。元手は、前回と合わせて50万円ほどになった。ローデンが綺麗な小判を十枚持って帰れば、5~6百万にはなるだろう。その金で新しいパソコンなどの装置を購入して、ローデンを救う方法を考えるしかない。
「分かった。無駄遣いはしない」
 ローデンは、ずっしりと重い一分銀の入った財布をスーツのポケットに入れた。
「できるだけ美しい小判に換えてほしい」
 山本は、最後に念を押した。
「一応頼んではみるが…。約束は出来ない」
 ローデンは、仕方なしに答えた。

 ローデンは、三回目のタイムスリップを複雑な想いで行うことになった。幕末では、いつになっているのだろうか。と、思っているとお慶の顔が見えた。三回目のタイムスリップで尻餅をつくことはなかったが、よろけてお慶に抱きつく格好になった。
「ローデン様」
 お慶は、よろけて縁側に座るような格好で尻餅をついた。
「今日は、何月何日ですか?」
 ローデンは、最初に日にちを尋ねた。
「9月22日です」
 お慶は、切羽詰ったようなローデンの只ならぬ気配に驚いて答えた。
「で、何時(なんどき)ですか?」
「先ほど、八つの鐘がなったところです」
 お慶は、ローデンの剣幕に押されて咄嗟に答えた。が、すぐにローデンの体重に耐え切れなくなって縁側に倒れてしまった。
 まずい! ローデンははっとして、お慶から身体を離すと、「すいません」と言って、お慶を抱き起こした。
「でもよかった」
 お慶は、ほっと安堵の溜息をついた。
「どうかしましたか?」
「いえ。ローデン様がすぐに戻ると仰られたので、お役人はまだ警護を続けています」
「え?」
 警護する対象者がいないのに、何故警護を続けているのだろうか? ローデンは、驚いてお慶を見た。それが無言の問いかけになった。
「野暮用で出かけた事にしてありますから、ご安心を」
 お慶は、言葉とは裏腹に少し嫌な顔をした。悲しんでいるようにも思えた。
「野暮用って何ですか?」
 ローデンは、理解できなかった。
「ですから…。私の口からは、そんなこと申せません」
 お慶は、顔を赤くして俯いてしまった。
 順斎は、庭の異変に気が付いたのだろう。縁側に出てきた。ローデンと目が合うと、「お帰りなさい」と言って、ローデンに、「これですよ」と、小指を立てて見せた。
「父上ったら…」
 お慶は、嫌な顔をしてプイと顔を背けた。
「吉原に馴染みがいるからと、言い訳したんです」
 順斎は説明してから、「彼らは、信じてくれた。他に手立ては、思いつかなかったのです。許してください」と、付け加えてから、少し頭を下げた。
「そんな…」
 ローデンは、困惑した。が、「こちらこそ、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と、順斎に頭を下げた。
 ローデンは、消え去った自分を咄嗟に嘘をついてまで庇ってくれた順斎の心遣いが嬉しかった。
 ローデンが警護の同心に挨拶をしようと表に出ると、二人の警護役の同心が、「お帰りなさい」と、ローデンに声を掛けたが、顔は笑っていた。警護役の一人は、加山だった。
「なに。突然いなくなって、迷惑をかけたようです」
「我々は、それほど野暮じゃないですから。一言お声を掛けていただければ、便宜を図ることも出来ます」
 加山は、笑いながら答えた。もう一人の警護役も笑いながら頷いて、「左様です」と言った。
 ローデンは、家に戻ると山本から聞いた話を正直に順斎とお慶に話した。
「そうですか…」
 順斎は、腕を組んで、「私には、見当が付きません。もちろん、この時代に来たときは何でも致します」と、ローデンを気遣った。
「そうですよ。私も、及ばずながらお力になります」
 お慶は、心なしか嬉しそうな顔で答えた。
「ありがとうございます」
 ローデンは、礼を言った。
「そんな、水臭い。ねえ父上」
「そうです。あなたは、もう家族の一員みたいなものですから」
 順斎は、そう言って笑った。

 万次郎からの招待があったのは、ローデンが幕末に戻ってから三日後であった。
 ローデンとお慶は、カゴに揺られて斉藤が付き添って加山が警護についていた。
 万次郎は、店の前でローデンたちを出迎えた。ローデンは、時計を見た。時計の針は、午後五時を少し回ったところだった。
「まあ。前に来た店ではありませんか」
 お慶は、その店がローデンと留吉と一緒に訪れたうなぎ屋だと分かると驚いた。
「お客様と食事をするときに使っています」
 万次郎は、気さくに答えた。ローデンたちは、奥の部屋に通された。

「本当によろしいのですか?」
 一緒に部屋に案内された加山は、場違いなところに来たと思った。役目を逸脱してないか少し心細くなった。
 万次郎のお供の武士は、複雑な顔で、加山の隣に座っていた。
「暴漢が現れたら困ります。お酒を勧めるつもりはありませんが、折角だから一緒に食事しましょう」
 ローデンは、恐縮している加山に静かな口調で言った。が、自分が襲われる心配はしていなかった。今まで得た情報では、アメリカ人の学者が殺されたという事実はなかったからだ。
「ローデンさんの言われるとおりです。それに、あなたが玄関に突っ立っていれば、他のお客さんが迷惑するかも知れません」
 斉藤は、加山に言ってからローデンに顔を向けた。斉藤は、ローデンの気さくさに好感を持った。
「私の、供の者も同席しています。気にしないで下さい」
 万次郎の言葉で、これ以上固辞するわけにいかなくなった加山は、「分かりました。ご馳走になります」と、言って頭を下げた。
 それを合図にしたように、料理が運ばれてきた。加山と万次郎のお供の武士には、酒は付かなかったが、料理は同じだった。お供の武士は、御家人の田中だと名乗った。
「By my lie, I gave a trouble.I'm sorry.(私の嘘で、ご迷惑をかけました。申し訳ありません)」
 お慶は、食事が始まって少ししてから、万次郎に英語で謝罪した。ローデンに教えてもらった英語が通用するのかという想いもあった。
「お慶さん。英語を話すのですか!?」
 斉藤は、驚いた。
「はい。ローデン様から少し教えていただきました」
 お慶は、少し照れながら、「万次郎様に、ご理解いただけたかどうか。それが気がかりですが…」と、万次郎に視線を移した。
「だいじょうぶですよ。あなたの言葉はちゃんとしている」
 万次郎は、そう言ってから、「Why did you tell a lie?  Please tell a reason.(何故嘘をついたか? 理由を聞かせて下さい)」と、お慶に英語で尋ねた。
 お慶は、万次郎の申し出に、困惑してローデンを見た。
「斉藤さん。すいません。お慶さんの英語に驚いたものですから…」
 万次郎は、斉藤に気を遣ってから、「折角です。あなたがどれだけ英語を話せるか、英語で少し話をしませんか?」と、お慶に優しい眼差しを向けた。
「よろしいですか?」
 お慶は、斉藤に尋ねた。
「私は、英語どころかオランダ語さえ危なっかしい。気兼ねなくお話ください」
 斉藤は、複雑な顔をした。
「では、そうさせていただきます」
 万次郎は、斉藤に礼を言うと、「Mr. Rhoden. I want to hear a reason.(ローデン殿。よろしければ、理由を教えてください)」と、ローデンに向かって英語で尋ねた。
 ローデンは、意を決して万次郎に英語で話し始めた。
 ローデンは、お慶のおかげで英語で話をすることが出来た。斉藤が英語を話せないと知っていても、自分の正体を万次郎に説明するときに複雑な心境になった。
 お慶は、二人の会話の半分以上は理解できた。万次郎は、何度かローデンとの会話を中断して、話しの内容が理解できているか確認した。それから、ローデンの言っていることが正しいのか、お慶に尋ねた。
 お慶は、ローデンが未来から来たこと、未来から来るときと帰るときには身体が輝くことなど自分の知っている限りのことを、ローデンに教わった単語を総動員して万次郎に話した。
 斉藤は、お慶があまり会話に加わっていないのを不思議には思わなかった。やはり、話すのは難しいのだと、勝手に解釈していた。
 斉藤は、英語をまるで理解できないので加山や田中と話を始めた。
 万次郎は斉藤を気にしないでよくなったので、ローデンとお慶の話に集中するようにした。
 お慶は、万次郎が何故ローデンの話を信じないのか不思議に思ったが、「There is evidence.(証があります)」と、咄嗟に言っていた。
「evidence?(証?)」
 万次郎は、一瞬怪訝な顔になったが、「I understood it. Because I want to believe it, but it is an impractical thing.(分かりました。信じたいのですが、あまりに現実離れしているものですから…)」と、困った顔になった。万次郎は、現実離れしたローデンの話に戸惑っていた。そんな事が出来るのだろうか? 考えも及ばなかった。
 ローデンとお慶を見ていると、嘘をついているとは思えない。ローデンが日本語を習得することは、常識的には考えられない。なら、未来から来たと考えるのが自然ではないか?
「I am sorry to talk about the unexpected thing.(突拍子もないことをお話して、申し訳ありません)」
 ローデンは、頭を少し下げた。
「そんな事はありません」
 万次郎は、日本語で話してしまって、「お慶さんの英語は、なかなかのものです」と、お慶の英語のことに話をすり替えた。
 お慶は、会話の内容からどう言っていいかわからなかったが、「ありがとうございます」と、礼を言っていた。
「今度、あなたのお宅に伺って、ローデン殿の講義を拝聴しましょう」
 万次郎は、お慶の証を見たいと斉藤たちに分からないように言った。
「それなら、ローデンさん。私にもお教えいただけませんか?」
 斉藤は、万次郎の言葉を額面どおりに受け取ってローデンに向かって頭を下げた。
 ローデンは、困ってしまった。
「ローデン様。いいじゃないですか」
 お慶は、斉藤の気持ちを理解した。これからオランダ語より英語の方が必要になるとローデンの講義で感じていたし、斉藤の真摯な態度に報いたいという気持ちになった。
「分かりました」
 ローデンは、斉藤の熱心さに心を動かされた。
「ありがとうございます」
 斉藤は、もう一度頭を下げて礼を言った。
 それからの会食は、和やかに過ぎていった。
 気が付いたら、暮れ六つはとっくに過ぎて、五つ(午後八時ごろ)近くなっていた。
 ローデンは、カゴを断り歩いて帰る事にした。そろそろ幕末の生活に慣れた方がいいという想いがあった。
 ローデンたちが歩き始めて少し経った頃、「曲者だ!」と、男の叫ぶ声が聞こえた。声の主は、万次郎のお供の田中だ。と、気が付いた。
 ローデンは、万次郎が危ない! と、道を急いで引き返した。斉藤も気が付き、ローデンの後から追ってきてすぐにローデンを追い越して、「先に行っています」と、ローデンに告げた。
 ローデンは、一刻の猶予もならないことを感じたが、巨体で運動不足ぎみでは、気だけ焦って少しも体が付いてこなかった。お慶と加山は、ローデンと同じ速さで走っている。加山の立場では、ローデンの警護が最優先するのだろう。
 ローデンたちが万次郎の元に駆けつけると、万次郎と斉藤が、三人の浪人と対峙している所だった。曲者だと叫んだ田中は、近くの道に倒れていた。手の先に刀が落ちていた。切られた拍子に落としたようだ。
 ローデンは、咄嗟にその刀を取ると、万次郎の横まで小走りに掛けて行った。
「ローデンさん!」
 斉藤は、浪人たちに刀を構えたローデンに驚いた。
「剣道の心得は中学の授業で数回やった程度でしたが、時代劇は良く見ていたんで何とかなります」
 ローデンは、斉藤には当然分かるはずもない説明をした。
「ちょうどいい。異人も売国奴と一緒に切ってしまえ」
 浪人の中の一人が叫んで、ローデンに切りかかった。
 加山は、躊躇なくローデンに切りかかった浪人の前に立ちはだかった。
 浪人は、一瞬たじろいだが、「木っ端役人は、どいていろ!」と怒鳴ると、加山に切りかかった。
 二人は、刀を構えながら少し離れた所で揉み合い始めた。
 お慶は、辺りをきょろきょろ見回して、何かを探していた。
 数では一人多いが、浪人たちは怯むことなくローデンたちに切りかかった。
 ローデンは最初の一太刀を何とかかわしたが、次の一太刀で左腕を少し切られた。「うっ」と、ローデンは唸ったが、刀を構えていないと今度は命が無くなる。と、傷にかまっている余裕は無い。斉藤は、何とかもう一人の浪人の刀を振り払うことが出来たが、相手は自分よりはるかに腕が立つ。と、観念した。
 万次郎は、ローデンを気遣って様子を窺って、「ローデン殿。体が…」と、驚きの声を上げた。
 斉藤もローデンに振り向いて、「光っている!」と、驚いた顔になった。
 自分は、怪我をした事により、未来に戻るのだろう。その前に、万次郎たちを守らなければならない。そう思うとローデンは、万次郎と斉藤を庇うように浪人たちの前に立ちはだかった。
「化け物だ!」
 浪人の一人は、驚愕のあまり尻餅をつくカッコウになったが、刀だけはローデンに向けていた。その浪人は、ローデンが燃えているように思ったのだろう。燃えているのに平気な異人を、ただ恐ろしそうに見ているしかなかった。
「化け物とは心外な」
 ローデンは、尻餅をついた浪人を不服そうな顔で睨みつけた。浪人は、言葉を話したことにも驚いた。
「ひ…。退(ひ)け!」
 浪人の一人が叫んで、慌てて逃げ出した。もう一人の浪人も後に従った。最後に残った浪人は、光を増したローデンを向きながら後ずさりしてから、犬のように四つんばいになってからやっと立ち上がると仲間を追う様にして逃げ出した。
「助かった…」
 ローデンは、そういうなり座り込んで、刀を放すと切られた左腕を右手で庇った。
 お慶は、ローデンの元に駆け寄って、「お怪我は?」と、ローデンの切られた腕を心配そうに見た。
「かすり傷です」
 ローデンは答えて、「光りだしたようです。まもなく未来に戻ることになるでしょう」と立ち上がって、お慶から離れようとした。
「もう光は、消えています」
 お慶は、呆れた顔をして、「無茶はやめてください。もしも、ローデン様に万一の事があっても、お母様に謝ることも出来ないんですから」と、ローデンを厳しい顔で睨みつけた。
「何です? その棒は」
 ローデンは、お慶が持っている棒に気が付いて尋ねた。
「助太刀しようと思って…」
 お慶は、顔を赤くして棒を放り投げた。
「あなたは…」
 万次郎は、困惑した顔でローデンを見た。
「ローデンさん。どうなっているのです?」
 斉藤は、刀を下げたままローデンを驚きの顔で見た。
 加山は、浪人ともみ合っていたためローデンが光った姿を見ていなかった。浪人が何故逃げ出したのか見当も付かなかったが、ローデンたちが無事なのを確かめると、倒れている田中の元に駆け寄って脈を診た。「まだ息があります」と、加山は少しほっとした顔でローデンに告げた。
 それから事件現場は、大騒ぎになった。加山は、うなぎ屋の奉公人に、奉行所まで使いを頼んだり、田中を医者に運ぶ算段を付けたりと大忙しで飛び回り始めた。知らないうちに十人ほどの野次馬がローデンたちを取り囲んでいた。
 ローデンは、かすり傷ということで、医者に行くまでもないと辞退した。地面に座ってお慶の手当を受けていた。
 加山は、奉行所から役人が来るからそれまで待っていてくれと頼んでから野次馬の方に行って犯人を目撃したか尋ね始めた。
 万次郎は、加山が去ったのを確認してからローデンに近づいてきて、「あなたは…」と、ローデンをまっすぐに見た。が、驚きは隠せなかった。
「これで、私の言ったことが、間違いでなかったとお分かりになったでしょう」
 お慶は、これで分かってもらえるとほっとした顔で万次郎を仰ぎ見た。
「お慶さんの言われたとおり、ローデン殿が光りました。未来からいらしたのは信じるしかない。しかし、何故未来に戻らなかったのです?」
 万次郎は、お慶が言ったこととの違いに首をかしげた。
「おそらく、かすり傷だったためでしょう」
 ローデンは、万次郎に自分の考えを伝えたが確証はなかった。本当にそれだけなのだろうか? と、少し不安になった。
「ローデンさん…」
 斉藤は、複雑な顔をしてローデンに近づいてきて、「今の話は、誠ですか?」と恐る恐る尋ねた。斉藤は、万次郎の話を聞いてしまった。聞いてはいけない話を聞いてしまったという想いと、ローデンが万次郎と再会すると聞いたときの光景が蘇ってきた。
 あの時は、信じてもらっていないと思っていたが、未来から来たのであれば初対面になる。再会したときといい、今日といい、ローデンさんは英語を話した。懐かしさのあまり英語を話したのではなく、自分に分からないように話したのなら辻褄が合う。しかし、そんな荒唐無稽な話を信じていいのだろうか? それに未来から来たのなら、どれぐらい先の未来から来ただろうか? 斉藤は、先にローデンの口から聞きたいと思った。
「隠していて申し訳ありません」
 ローデンは、斉藤以外に聞かれては不味いと思い少し小声で謝罪してから、「本当のことです。今から、百六十年ほど未来から来ました」と、答えた。が、信用してもらえるとは思っていなかった。
「信じるしかないようです」
 斉藤は、複雑な顔をした。ローデンに裏切られたような気がしたが、誰も信じないようなことを自分から話す筈はない。ローデンさんは、そう思われたのだろう。しかし、私に真実を話してくれた。私を信じてくれたのだろうか? だから、話してくれたのだろうか? 異人だけでも危ない今の日本で、そんな事が外部に漏れたらどうなるか? 斉藤は、そこまで考えて、ローデンの気持ちが分かった気になって、「他言いたしませんので、ご安心ください」と言った。
「信じていただけるのですね」
「もちろんです。そんなたわいな嘘をつく人間はいませんから。それに、あなたを今まで見ていてそう思っただけです」
 斉藤は、そこまで言って、「できれば、未来の姿を見てみたいものです」と、淡い期待を持った。無理だとは思っていた。が、出来ることなら見てみたいと願った。
「家に来てもらえば、見てもらう事は出来ます」
 ローデンは、安請け合いをした。
「それなら、私にも見せていただけませんか?」
 万次郎も、未来の姿に興味を持った。が、何か忘れていることに気が付くと、地面に正座をして手を付いた。
 ローデンは、万次郎の行動に面食らった。何をするつもりだろう。
「ローデン殿。斉藤殿。命を助けていただきありがとうございます」
 万次郎は、礼を言いながら二人に頭を下げた。
「そんな…。当たり前のことをしただけですよ」
 斉藤は、困惑した顔になり、「お役に立てませんでしたが…。いや、かえって足手まといになりました」と、恥ずかしそうな顔になって笑った。
「私も、礼を言われるようなことはしていません」
 ローデンも困惑した顔になった。
「そうですよ。図体に似合わず後先考えないんですから…」
 お慶は、半ば呆れた顔でローデンの顔を見た。
「棒っ切れで、助太刀しようとする方がよっぽど無茶ですが…」
 ローデンは、そこまで言ってお慶と顔が合った。お慶が厳しい視線で自分を見ていることに気が付くと仕方なく眼だけで謝った。
 万次郎は、二人のやり取りをほほえましそうに眺めていたが、「皆さんの気持ちが、嬉しかったのです」と言った。それから、役人が来るまで、四人は世間話を始めた。

 四半刻(30分)ほどして、奉行所から与力や同心たちが駆けつけてきた。ローデンたちは、少し事情を聞かれた後で開放された。
 加山は、犯人の顔を見たためそのまま犯人の探索に回ることになった。
 ローデンたちには、まだ安全の確証がないとのことで、三人の警護役が付くことになった。

 ローデンは順斎宅に戻ってから早速二人に未来の映像を見てもらうことにした。
 戻ると、順斎がローデンの怪我を見て、「どうされました?」と、心配そうな顔で尋ねた。
 ローデンの代わりにお慶が、いきさつを掻い摘んで順斎に話した。
「ローデン殿が、浪人を?」
 順斎は、複雑な顔をした。
「三人ですよ。三人!」
 お慶は、その時のことを思い出して興奮していた。
「いやあ。体が光っただけです。未来に戻ると思って咄嗟に浪人の前に出たら、向こうが勝手に化け物だと言って逃げて行っただけですよ」
 ローデンは、迷惑そうな顔で言ったが、「化け物とは失礼な」と、憤慨していた。
「無理もありません。私だって、ローデン様が未来に戻る光景を見ていなければ化け物だと思ったかも知れません」
 お慶は、そう言って笑った。
「私も、ローデンさんが光ったときには驚きました」
 斉藤が、話に割り込んできた。
「まさか…」
 順斎は、斉藤をチラッと見てからローデンに向き直った。
「話しました。一応信じてもらいましたが、未来の姿を見てみたいと言われたのでお見せすることにしました」
 ローデンの言葉に順斎は、複雑な顔で斉藤を見た。万次郎には、いきさつを話すとは聞いていたが斉藤まで話したとなると…。
「順斎先生。私を、信用なされていないのですか?」
 斉藤は、順斎の態度に食って掛かった。
「いや。そのような事は…」
 順斎は、答えに窮した。
「ご懸念には及びません。こう見えても、学者の端くれ。決してローデンさんを裏切るようなことは致しません」
 斉藤は、真剣な顔で順斎を見た。
「順斎殿。私が信用できると思い、斉藤さんに話したんです」
 ローデンは、斉藤を気遣って言った。
「そうですね。斉藤さん。私が、疑って悪かった。謝ります」
 順斎は、斉藤に頭を下げた。

 二人は、そのまま順斎宅に泊まることになった。
 警護の役人は、順斎の家に残っていた一人を含めて四名になった。二人が交代で警護に付くことになった。
 ローデンは、万次郎と斉藤にお慶たちに見せたビデオを見せることにした。
 ローデンは、ビデオカメラを持ってきて万次郎に渡しながら、「これが、ビデオカメラというものです」と、教えた。
「ビデオカメラ?」
 万次郎は、初めて見るビデオカメラを不思議そうにながめてから、裏返したりレンズを覗き込んだりした。
 斉藤は、物珍しそうな顔でビデオカメラを覗き込んだ。
「写真が動くと思っていただければいいと思います」
 斉藤は、万次郎からビデオカメラを受け取りながら、「写真?」と、初めて聞く言葉に困惑した。
 ローデンは、まずいと思った。安政六年といえば開港して少ししか経っていない。写真を知らない方が当然の時代だ。写真を知っている順斎が少数派だった。どう説明しようか迷ったが、「とにかく、百聞は一見にしかずです。見てください」と、説明することを諦めた。
 ローデンは、斉藤からビデオカメラを受け取ると、液晶画面を開いてスイッチを入れた。
 今までの経緯を知らない二人のために、山本が出るところはカットすることにした。
 
「凄い! 本物のような絵ですね」
 斉藤は、驚いたままの顔でローデンを振り返った。
「絵ではありません。姿をそのまま写したものだと思ってください」
 ローデンの話に万次郎は、「フォトグラフというものを見たことがあります」と、画面を見ながら言った。
「はい。フォトグラフは、写真という日本語になります」
 ローデンは、万次郎のために説明したが誰が写真と命名したかまでは知らなかった。
「凄い建物だ」
 斉藤は、お慶のように雑然とした雑居ビルを驚いて見ていた。
二人は、ローデンの説明に一々頷きながら画面を食い入るように見ていた。
 飛行機が飛び上がるところを見て、二人は驚いた顔でローデンに振り向いて、無言で説明を求める顔をした。が、「事実ですか?」と斉藤は、恐る恐る尋ねた。
「はい」
 ローデンは、事実だけ告げた。技術者ではないので、細かい説明は出来ない。出来たところで二人に理解してもらうことは難しいだろうと思った。ライト兄弟が初飛行するまで三十年以上待たなければならないはずだ。
 斉藤は、ビデオを見終わってから、「凄い! 凄い!」と、驚きを素直に言葉に出した。万次郎は、腕を組んで自分が見たものを受け入れようとした。この動く写真が偽物だとしても、このビデオカメラというマシンは今の技術と懸け離れすぎている。アメリカでもこのようなものは見たことがない。ローデン殿は、未来から訪れたと認めないわけにはいかないと結論付けた。

最初(プロローグ)から見る
4.再 会←前の章
次の章→6.覚 悟
(井伊直弼と出会うチャンスがあり、桜田門外の変を告げる決意する)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?