見出し画像

創作大賞2022応募作品 「立てこもり」2~4章

2.9月21日22:10 

「人質は、総理と防衛大臣の二名。立てこもり犯は、六名程度。主犯は、山下大輔。75歳元自衛隊、○○隊所属。退官前の階級は、一等陸佐。
 他の立てこもり犯は、山下の元部下たちと考えられます。現在、元部下の身元調査を行っているところです」
「ところで、何でこんな事になった?」
 官房長官は、説明を終えた対策本部長に冷ややかな眼を向けて、「総理官邸に配置されている警官は、優秀なはずではなかったのか?」と嫌味な顔で場違いな事を聞き始めた。
「それは…。表敬訪問したのが、元陸上自衛隊隊員であったことと、老人だという事です。さらに、防衛大臣の口利きで総理への表敬訪問ということもあり予測は出来ませんでした。
 彼らは、まず隠し持っていた拳銃を総理と防衛大臣に突きつけました。残りの者が山下の車椅子から二挺の自動小銃を取り出し、官邸警備隊も為すすべがなく全員を官邸から外に追い出しました。老人の犯行とはとても思えないほど手際が良かったそうです」
 対策本部長は、そこまでやっとのことで答えた後におろおろしながら伏目がちに官房長官を見た。
「なぜ、自動小銃なんだ? どうやって手に入れた? どうやって持ち込むことが出来た?」
「それは…。入手経路は、解りませんが、山下の車椅子に隠して…」
「もういい」
 官房長官は、対策本部長の言葉に苦虫を噛み潰したような顔で遮った。対策本部長は、一瞬官房長官を睨みつけたがすぐに眼を報告書に落として無言で着席した。最低限の抵抗のつもりか、憮然とした顔を隠そうとはしなかった。
「いいか!? 我々は、テロには屈しない。が、人質が総理と防衛大臣だということをくれぐれも忘れるな! 秘密裏に解決するように。外に漏れれば国家の威信は失墜する!」
 官房長官は、語気を荒げた。テロだと決め付けている。が、本当にそうなのだろうか? 山口は、官房長官の発言に違和感を覚えた。素人が、自分たちの権力を行使して場違いな質問や発言をしている。それに、秘密裏に事件を解決しろと無茶な要求をしている。犯人たちの仲間が、報道機関に駆け込むことは想定していないのだろう。山口は、無意味ないや茶番ともいえる対策会議に嫌気が差してきた。
 山口の前には、官房長官を始め数人の現職大臣たちが顔をそろえていた。今は、原因を追究している場合ではない。そんな事は、事件を解決してからでも遅くはないだろう。
 会議が終われば、現職の大臣たちは国会議事堂に設置された対策本部に戻って行く。こんな時にも縦割りかと、山口は溜息をついた。が、あほな大臣どもから開放されると考えると少しほっとした。 

「山下さん。いや、隊長と呼んだ方がいいかな? 質問があるんだが…」
 総理は、試案から山下に視線を移した。
「名前はどうでもいいことです。あなたの好きなように呼んでください。私に質問とは、いった何です?」
 山下は、怪訝な顔になり総理の次の言葉を待った。自分の対応いかんによって、総理の考え方に影響を及ぼす事を考えると自然と構え真剣な顔になった。
「君は、この試案の中身をただ単に鵜呑みにしたわけではないだろう」
「そんなことですか」
 山下は、一蹴すると、「私も、部下を持ったことがある人間です。ただ、読んで妄信したわけではありません。おかしいと思うことや疑問は、納得するまで彼に質して唯一日本を救うことができるかもしれないと考えたので総理に付き合ってもらうことにしたまでです」と言って笑った。
「迷惑な話だが…」
 総理は苦笑いをしながらも、試案を作った野村修一という人物に興味を持った。「で、何で書いた人間の氏名を載せたんだね? まさか? この野村修一なる人物が、主犯なのか?」総理は、もう一つの疑問を尋ねた。
「いいえ。彼は…。野村修一くんは、私に見せてくれただけです。様々なところに持って行きましたが、誰も取り合ってくれなかったそうです」
「そうだな。見方によっては過激な内容だ」
 総理はそう言ったが、内容以外にも決定的な問題があったのだろうことは察しがついた。「そんな内容で、無名の人間が書いたものは誰も取り上げなかった。違うかね?」
「はい。おっしゃる通りです。最後に彼は、『犯罪を犯して、世間に名前が知れ渡れば多少扱いが違うだろう』と、そんなことを呟きました。彼にそんなことはできません」
 山下は、言ってから少し逡巡して、「断っておきますが、彼に勇気や度胸がないからではなく彼がまともな人間だからできなかっただけです」と、複雑な顔になった。
「だから君が彼の代わりに、私を無理矢理付き合わせることにしたのかね」
 総理は言ったが、敢えて拉致や立てこもりという言葉を使わなかった。それは嫌味ではなく、山下の気持ちを慮ってのことだった。先ほど山下が言ったように、自分が生きているうちに世に出したかったのだろう。
「はい。このまま、彼の試案を埋もれさせるのは我慢がならなかったのです」
「著者名が書かれてあれば、警察は、彼が主犯だと勘違いするのでは?」
 総理は、著者名が書かれてあることをなぜか危惧した。
 山下は、総理が単なる皮肉や嫌味で言っていないことを肌で感じながら、「ご安心を。警察やマスコミに届ける試案には、彼の名前は伏せてありますから。それに、どこかのあほな大臣にも」と、防衛大臣の古賀をチラッと見てから答えた。
「では何故、私に見せた試案には彼の名前が伏せていないのかね?」
「総理だけには、分かってもらいたかっただけです。できれば彼と会って直に話を聞いていただきたいと…」
「でも、君が罪に問われることになる」
 総理は、純粋に行動を起こした山下のことを気にかけている自分に驚いた。「君たちの目的が達成されたとしても、投降したあとに何が待ち構えているかわからない君ではないであろう」と総理は、付け加えた。
「主犯は、あくまで私ですから…。彼らを無理やり引き込んだと供述すれば、彼らの罪は軽くなることでしょう。うまくいけば執行猶予がつくかもしれません」
 山下は、後ろで控える元部下たちの方を振り返った。
「そんな!」
 中村は、驚いて山下を見て、「我々は…。いや、少なくとも自分は、自分の意思で隊長に従っただけです」と、総理に向かって胸を張った。
「自分も」
 後ろに控えている全員が口にした。
「みんな、ありがとう。礼を言う」
 山下は、電動車椅子を元部下たちに向けると深々と頭を下げた。
「とんだお涙頂戴だな」
 静かになったと思った古賀は、いつの間にか腕を組んで目を瞑っていたようだ。腕組みをしながら、俯いたまま怒りを孕んだ目だけを山下の部下たちに向けた。面子を潰された腹いせで、皮肉を込めての発言だった。
「よさないか!」
 総理は、即座に古賀を一喝した。元部下たちは、総理の言葉に先起こされ機先を制された格好になった。古賀に声を上げることはできず戸惑うしかなかった。
「総理は、犯罪者の味方をされるのですか?」
 古賀は、今までのふてぶてしい態度とは打って変わって、両手を下げて膝の上に置くとか細い声で尋ねた。総理は、何を考えているのかという困惑した顔になった。
「いいかね。私は、犯罪を肯定するつもりはない。ただ、彼らは、普通の犯罪者ではない。君なら、それぐらい分かるだろう。彼らの気持ちを、おもんばかる気はないのか?」
「それは…」
 古賀は、返答に窮した。
 総理は、古賀が小さくなっていることに気が付くと、少しはおとなしくしているだろうと思い、「で、この試案をみていると、小さな政府を考えているようだが…」と、山下に視線を移して尋ねた。
「はい。あくまで結果論ですが、分子を減らして分母を増やす。つまり、税金で食っている人間を減らして、税金を払う側の人間を増やす。それから彼は、こうも言っていました。真水を増やすのだと」
「真水?」
「日本の制度は、古くて、あちこちに穴があいた水道管だということです」
「なるほど」
 総理は、そこで納得した。「彼が言いたいことは、制度を作って事務費と呼ばれる人件費や無駄使いなどという穴で税金が国民のために使われる時には、減っていると言いたいのだろう」と、自分なりの解釈をしてから山下を見た。
「その通りです」
「まさか? ベーシックインカムも、分子を小さくするためだというのか?」
「はい。日本の社会保障は、生活保護、雇用保険、それから数種類の年金があります。それぞれに、担当する人間がおり、国民の掛金や税金を全部社会保障に回すことができない。ベーシックインカムを導入すれば、社会保障の一本化ができ人件費や事務に係る費用が大幅に削減され真水が増えると思いませんか? ベーシックインカムは、失職して再就職できない官僚の受け皿にもなります」
「そうだね。それに、ベーシックインカムを導入するときに欠かせないのが、マイナンバー制に代表される個人の資産の把握だがこの試案のやり方は注目に値する」
 総理は、マイナンバーで個人の預貯金などの資産を把握するのに時間がかかりすぎる。調べきれないと弱気の議員が多かったことを思い出した。
 この試案では、すべて国民の申告によって処理をする。名寄せをする手間は同じでも、同姓同名や住所変更をしていなくても、申告すれば個人の資産を早く把握することができる。
 期間を設けてそれまでに申告しなかった資産は、該当者なしということで国の資産とする。というのも考えたものだ。事情があって申告できない場合、例を挙げると犯罪や脱税の隠し口座として申告できない口座の金は、自動的に国庫に入ることになる。
「事務費(経費)が大幅に削減できるというわけだ。君の言う無駄遣いがなくなる。いやできなくなる」
「その通りです。が、無駄遣いという言葉では表しきれないと思われませんか。制度を見直すだけでいいのに、新しい制度を作って必要以上に税金を使う。国民が制度を利用しようとしたら、難癖をつけて制度を使わないようにさせる。それに社会保障により、国民が受け取る金額が変わるのです。おかしいと思いませんか?」
 山下の言った言葉に、総理は納得するしかなかった。様々なケースがあるので一概に言えないし細かな数字はわからないものの、同じ人間が雇用保険と生活保護それに年金で生活する時とでは金額が違ってくる。同じ人間が生活するのに、何故金額が違ってくるのだろうか? ならいっそのこと、彼らの言っているようにベーシックインカムを導入すれば、制度の違いによる差がなくなることは事実だ。
「その代わり、税金が高くなる」
 総理は、危惧したことを尋ねてから、視線を思案から山下に移した。
「ベーシックインカムは、全国民及び日本に合法的に居住している外国人に適用されるため所得が低い人ほど負担が少なくなります。いや、ベーシックインカムを支給することにより、実際の所得より収入が増えるケースもあることです。私が何を言いたいかわかりますか? 賃金の安い職業についても、ベーシックインカムだけで生活するより楽になるということです。それに、ベーシックインカムは家族単位なので、家族が多い方が負担が軽くなります」
 山下は、言ってから、総理の反応を見るように口を閉じた。
 総理は、腕を組んで少し逡巡したあとに、「少子化対策や、雇用対策にもなるということか?」と、呟いた。
「はい。今の生活保護は、保護費が上限になります。多少控除はあるようですが、働いたとしたら収入が生活保護費から差し引かれるのです。まるで共産主義のような制度だと思いませんか。なら、誰も働く気にはならないでしょう。本当の自立を促すことはできません。ベーシックインカムは、働いた分の収入がベーシックインカムに上乗せされるのです。
 それだけではありません。賃金が安いといっても、日本に必要な職業はあるはずです。それに、あなた方にしても、いつまでも今の地位があるはずはありません。いつ収入がなくなるかもしれない。
 一般国民は、もっと切実です。ベーシックインカムは、その受け皿になる。結論から言いますと、いつ会社が潰れても、いつ病気になっても、さまざまな制度の中から、自分が受けられる制度を探して、面倒な申請をしなくても、最低の生活は自動的に保証されるのですから」 

 この試案では、国民の総所得を約250兆円とみなしている。妥当と言えるだろう。所得税を40~50%。健康保険を5%とすると、所得税の100~125兆円程度がベーシックインカムの原資となり、健康保険は12.5兆円となる。幅を持たせたのは、ベーシックインカム給付額により増減するからだ。但し全国民がベーシックインカムの対象となるため、所得から税金と健康保険を除いた額にベーシックインカムが上乗せされる格好になる。

 税金と健康保険の合計がベーシックインカムより多い場合は、税金と健康保険の合計からベーシックインカムを差し引いた額が徴収され、税金と健康保険の合計がベーシックインカムより低い場合は、差額を支給する。税金と健康保険徴収とベーシックインカムの支給を一本化すれば、政府の事務費の削減にもなる。乱暴な言い方をすれば、税務署だけでベーシックインカムの支給ができることになる。日本年金機構や健康保険に関する業務が必要なくなるではないか。

 国民の側に立てば、低所得者ほど収入が多くなる計算になる。それに、家族が基本となっている。税金と健康保険は、家族の総所得で計算される。

 ベーシックインカムは、案として世帯分で月5~6万円。個人分として一人あたり、乳幼児は3万円。就学児童以上は5万円で計算している。合計に消費税分8%を加える。同じ収入でも、家族が多い方が収入が増えるということだ。ただし、保育園など幼児保育の待機児童がなくなることと、教育・保育の無償化を前提としている。保育士の低賃金が原因の保育士不足も問題であるが、ベーシックインカムである程度補填されるので保育士の不足も解消される可能性がある。さらに、認可保育園のハードルを下げ、通年や夜間保育も可能とすることも注目に値する。

 年収が高いと負担は増えるが、いつまでも、今の年収を確保することはできるのか? 病気や怪我、それに会社の倒産など、生活を揺るがす出来事があれば、すぐに困窮者になる。そんな時に、ベーシックインカムは役に立つはずだ。
 高所得者が、低所得者を共助するだけではなく、独身者が家族持ちを共助する形になる。共助を一律に国の基準で行うため公正な共助を行えることになる。スイスで考えられているベーシックインカムとは別のもののような気がした。

「つまり、ベーシックインカムは、一種の保険だと言いたいのかね?」
「はい」
 山下は、総理の問いに即答した。
「君は、スイスのベーシックインカムのことは知っているのかね?」
「もちろん知っています。しかし、スイスのベーシックインカムはおかしいと考えます」
 山下は、即答した。
「何がおかしいのかね? 同じベーシックインカムではないか?」
 総理は、首をかしげた。
「言い方が悪いかもしれませんが、我々の考えているベーシックインカムだけで生活している人は、生かさぬように殺さぬようにということです」
「それでは、江戸時代の農民ではないか」
「はい。だから、少しでも働こうという気が起きるのです。今の生活保護では、働いても生活保護費が減額される。ベーシックインカムでは、働いた分がベーシックインカムにプラスされるのです。労働意欲が削がれることはありません。それに、日本はスイスのように20数万円を配るだけの体力が残っていますか? 物価を考えても一人当たり10万円以上にはなります」
「そう言われれば、面目ないが…」
 総理は、ばつの悪い顔になった。
「試案を見れば分かるように、老人や障害者それに、怪我や病気で働けない人には、手当を付けます」
「所得税を、国の事業に使えなくなるではないか」
 総理は、もうひとつ危惧していることを尋ねることにした。が、反論するのではなく、山下が、どう切り返すか興味を持っている自分に驚いた。
「そうでしょうか? 総理は、一つ見逃しておられる」
「企業の負担が削減されるとは思いませんか? 社会保障に企業が半分負担している経費がなくなるのです。それだけで、赤字企業が黒字になる可能性もあります。
 国家予算の多くは、社会保障に使われています。年金に生活保護それに雇用保険。農家の個別保障。ベーシックインカムを導入するだけで日本年金機構の人件費や経費は必要なくなります。官僚の人件費も大幅に削減されるのです。おまけに、天下りも禁止できます」
「三法一両得。つまり、ベーシックインカムは、リストラした官僚の受け皿の意味もあるのか?」
 総理は、なにか吹っ切れたような顔で山下に尋ねた。ベーシックインカムは、単なる社会保障だけではなく、日本の官僚組織を政治家や国民に取り戻す…、いや、始めて政治家や国民のために存在する官僚組織に生まれ変わることができるのかもしれない。と、思い始めていた。
 官僚全体が悪いわけではない。民主憲法ではなかった日本帝国憲法のもとでも、国民のために働いた官僚は多くいた。敗戦後に、日本をなんとかしようとした官僚たちも多くいた。官僚組織が肥大化し、国民の公僕から自分たちを守るだけの組織と化してしまった。一部の官僚たちは、省益だけを考え国民の税金を私しているのではないか? と、思われても仕方のない非常識な予算折衝を見るに付け、大ナタを振るわなければならないと考えていた総理は、自分の心が揺らいでいることに驚いた。そんなにうまくいくのか? と、少し逡巡した。
「はい」
 山下は、自信のある声で答えてから、「税金をドブに捨てるような必要のない公共事業や、誰が利用するのか? いや、誰が利用できるのか曖昧な制度に予算をつけることをやめれば、少なくともその制度に関わる官僚の人件費は必要なくなります」と付け加えた。
「ベーシックインカムがあるから、『天下りしなくても生活の保障はされるはずだ』それに、独法(独立行政法人)も必要なくなるから、税金の無駄使いは一層なくなる」
 総理は、山下から試案に視線を落としてほくそ笑むと、「そうなると、税金で食っている人間が自然と少なくなるということだな」と、言ってから視線を山下に戻した。
「その通りです。しかし、ひとつだけ問題があります」
 山下は、言っておかなければならないことを口にした。
「問題? 君の言うように、社会保障が抜本的に良くなるし、小さな政府にできるのだろう? いったいどんな問題があるというのだ?」
 総理は、乗り気になっている自分にもう驚きはしなかった。全世界で議論はされてもどの国も導入していないベーシックインカムに、日本の未来を託す気になり始めていた。それに、スイスのベーシックインカム導入の、国民投票も後押ししてくれる。スイスで、国民投票するではないか。国民投票の結果はどうでもよく、国民投票をすることに意義を見出そうとした。少しでも、官僚や覚悟のない政治家に納得させるだけのいいニュースのような気がした。
「ベーシックインカムを導入すると、後戻りができなくなるということです。つまり、国会はもとより、国民の同意とほころびが生じない制度設計、それに覚悟が必要になります」
「そうだな。今の日本の現状では、道のりは遠いと言っていいね」
 総理は、ベーシックインカムを導入するとした場合のことを考えてため息をついた。様々な立場の人間が、自分たちの権益を守ろうとするだろう。多くの人間が、今の日本の状況より自分たちの立場を優先する。圧力団体や与野党それに官僚たちの思惑が優先され、日本の全体を考えようとする者はひと握りしか存在しない現状では、ベーシックインカムなど絵空事に違いない。「君が言うとおりベーシックインカムが破たんした時に、ベーシックインカムをどう廃止するか? そこまで考えて導入しないと…。そう考えると、覚悟を持っている国会議員がどれだけ存在するのか? お寒い限りだ」と付け加えて、もう一度ため息をついた。 

3.9月21日22:30 

 捜査本部は、苛立っていた。が、犯人の言っていた試案が来ない限り何もすることがなかった。山下の元部下たちの捜査は別の班が行なっている。大きな会議室のまばらになった席を見やってから山口は、腕組みをした。
 総理官邸は、立ち入り禁止にしたものの、官邸の周りの総理大臣官邸警備隊や機動隊員たちは、いずれ誰かに目撃される。それに警視庁に届けると山下が言った試案とは、どんな物だろうか?
 もし、立てこもっている犯人以外に協力者がいたとしたら。警視庁だけではなくテレビ局にも届けるかも知れない。いや、届けるはずだ。あの馬鹿どもは、「総理の命が掛かっている」と言っているものの、政治的な思惑だけで隠蔽することに決めたに違いない。犯人たちは、マスコミに発表するなとは言っていない。恐らく、発表して欲しいに違いない。
 マスコミが嗅ぎつけたら? 今日は、総理のスケジュールが入っていなかった事も、隠蔽には好都合だったのだろう。それだけではない。犯人が老人だという事で甘く見ている。あと、数時間もしないうちに、強行突破をするに違いない。そうして、闇から闇へ葬るのか…。
 山口は、マスコミの動向が気になり携帯でワンセグのテレビを見ることにした。NHKは、通常の番組を放送していた。チャンネルを回しても、民放のニュース番組はスポーツコーナーを始めていた。
 馬鹿どもが…! 山口は、嘆息した。俺だって、立場が違ったら同じ事をしたかも知れない。と憤りを感じた。11時を過ぎれば、数局のニュース番組が始まる。犯人たちは、そのニュース番組を利用しようとしているのだろう。
「マスコミに漏れたらどうします?」
 一人の若い刑事が手を挙げて恐る恐る発言した。
「私は、権限を与えられていない。政府の対策本部に打診しているところだ。官邸に詰めていた記者たちは、とりあえず拘束している」
 対策本部長は、困惑した顔いや怒りを抑えた顔で答えた後に、「すぐ対処できる体制は取っている」と付け加えた。
 事件が起こってから急いで記者たちを拘束したため、記者たちにも何が起こっているか解らなかった筈だ。総理の公務がなく、祭日の夕方ということも幸いした。詰めていた記者の人数はいつもより少なかった。おかしいことに気がついていることだろうが、政府が隠蔽している以上情報は何処からも入ってこない筈だった。事件が解決したら、拘束した記者たちに罪滅ぼしの情報を与えて一件落着する筈だと思っているのに違いない。
 山口は、いつものように政府のその場しのぎの姑息な対応の後始末をやらされるかもしれないと溜息をついた。何かあったら、我々の責任にすることだろう。山口は、時計を見てから、ここにいる理由がないと考え、交渉班室に戻ることにした。

4.9月21日22:40 

 関東テレビミッドナイトニュースのスタジオは、ちょっとしたパニックに陥っていた。元自衛隊の隊員が総理官邸で総理と防衛大臣を人質にとって立てこもりしているとの情報を得て、急遽中継車を派遣する事になった。慌ただしく準備を始めるレポーターや、山下大輔の試案を大急ぎでコピーしているスタッフなどスタジオ全体が殺気立っていた。
 ディレクターの小林博之は、山下大輔の試案を手にとって見ていた。が、「ヘリを飛ばせ」と、スタッフの一人に怒鳴った。
「今、ヘリが急行しています」と、スタッフの一人が怒鳴り返した。
 とにかく、事実関係を確かめるのが第一だ。この情報がガセだとしても、その事を報道するべきかと小林は考えていた。もし、本当のことなら…。
 前代未聞の犯罪が起こったので、政府は隠蔽することに決めたのだろうか? 単に政府がパニックに陥ってしまったのだろうか? それとも、単なる老人の世迷言なのだろうか? 本当のことなら、政治的な何かの判断で隠蔽したのだろうか?
 今まで情報は、何処からも入ってこなかった。本来なら、報道協定に該当する事件であるはずだ。なんの情報も警視庁から入らないということは、立てこもりが事実の場合に報道しても差し支えないことになる。

 報道協定とは、警視庁や道府県警が新聞・テレビなどのマスメディアに対して報道を一切控えるように求めることによって、マスメディア間で結ばれる協定のことで、主に身代金目的の誘拐事件やハイジャックなどの立てこもり事件など、人質事件が発生した場合において用いられる。
 報道協定が結ばれた場合、マスメディアは事件に関する報道を一切しない代わりに、警察は入手した情報や捜査の過程を無協定状態よりもマスメディアに公表しなければならない。この状態は警察からの要請で仮協定が発効となり、警察本部と記者クラブの会議による本決定によって報道協定が解除されるまで続けられる。警察は、事件捜査中に情報が世間に公開されて犯人を刺激することを防ぐことができ、またマスメディアは協定解除後に警察捜査に関する情報を元に記事を発信することができるため双方にメリットがある。

 小林は試案を見ながら、どこかで見たような気がした。そうだ! 小林は立ち上がると、「これを持ってきた老人をまだ帰していないだろうな」とADの一人に尋ねた。
「はい。念のため加藤君が同席しています」
 ADは、答えた。
「解った。俺は、ちょっと会ってくる」
 小林は、そう言うと自分の席を後にした。

 暫くして小林は、報道部の応接室に入っていった。
 同席していた加藤は、隣に座った小林を少し驚いた顔で見た。それは、今までなかったことだと思った。小林が番組直前に現れたことで、重大な事が起きていることだけは理解できた。
「野村さん、でしたね」
 小林は、テーブルを挟んで座っている老人に尋ねた。
「はい」
 老人は、おどおどしながら答えた。
「私は、小林と申します」
 小林は、名前を名乗ると、「ここは、警察じゃないですから、気を楽にしてください」と声を掛けた。
 野村は、辺りを見回しながら「ありがとうございます。テレビ局に来たのは初めてなもので…」とボソッと言った。
「時間がないので、本題に入ります」
 小林は、前置きをしてから、試案と共に野村が持参した犯行声明を手に取り、「これは、事実でしょうか?」と、尋ねた。
「もちろん、事実です。作戦は成功しているはずなのに、どのテレビ局もやってない」
 野村は、心細そうな顔を小林に向けた。
 小林は、作戦という言葉に少し驚いたが、「何故、解るのです?」と、尋ねた。
「これです」
 野村は、そう言いながらシャツの胸ポケットから携帯を取り出した。
「見せて頂いていいですか?」
 小林の言葉に野村は、携帯をぎこちなく操作して小林に渡した。
「メールですね」
 小林は、携帯に目を落としながら言った。
「はい」
 メールには(頂上は、踏破した。連絡を頼む)とだけ書かれてあった。送信者は、野村の言う元隊長の山下だ。
「頂上か…」
 小林は、それですべてを察した。総理官邸で総理を人質に取ることに成功したのか。
「失敗したときは?」
「メールが来ないことになっていました」
 野村はそう言って、「私は、後悔しています」と、続けた。
「貴方は、犯罪の手助けをしたことに後悔しているのですか?」
 小林は、まだおどおどしている老人が少し気の毒になった。
「いえ。血が騒いでいます。今までにこんな事はない。参加しておけば良かったと、私は後悔しております」
 野村は、そう言うなり拳を握り締めた。
「解りました」
 小林は、老人に向かって言うと隣の加藤を振り向きながら、「予定は、全部キャンセルだ。全員に伝えてくれ。特別枠で行くぞ」と言った。
「小林さんは?」
 加藤は、立ち上がりながら困惑した顔で尋ねた。
「俺は、出演交渉をしてから行く。早く伝えてくれ」
 加藤は、「解りました」と言って、野村に頭を下げると急いで応接室を後にした。

 その頃総理官邸を取り巻いている機動隊の青山警部は、空を見上げていた。空には、複数のヘリコプターのエンジン音が轟いていた。そのうちの一機のヘリコプターのエンジン音が、少しずつ大きくなっていった。あれは、警視庁のヘリじゃない。あれはテレビ局のだ。青山は、少しずつ大きくなっているエンジン音が聞こえる方を複雑な顔で眺めた。

1.9月21日(敬老の日) 22:00←前の章
次の章↓
5.9月21日22:55
6.9月21日23:00

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?