死産、流産、誕生死のつらさについての話
ウチは大変に小さいお寺なのですが、まあこの数年はお葬儀が多くなりました。2021年の暮れには立て続けに2件。多死社会の到来をひしひしと感じています。
その中で、表題の「死産・流産・誕生死のつらさ」についての気づきがあったので記しておきます。
普通のお葬儀
だいたいご家族が亡くなられたとなると、近しい人がみな悲しみながら、なんやかんやとお葬儀の用意をはじめるわけです。あんなことがあった、こんなことがあった、どんな葬儀にしよう、親父は小さくしとけといったけど、だれだれさんを呼ばないわけにはいかんし、おふくろはどこどこの葬儀屋さんに頼んであるといってたなあ、好きな花で飾ってやりたいなあ、好きな音楽かけてやりたいなあ…などなど。
急なお葬式を慌てて調整しながらも、そんなような話が交わされるわけです。
ところが
「死産・流産・誕生死」には、そういう、「みんなとわいわい話せるような思い出」がない。
だんなさんがいても、共有できるような具体的な思い出が、ない。
妊娠してつわりがつらい。おなかが張る。おなかのなかで動いた!ホルモンバランスがぐちゃぐちゃでメンタル乱高下。眠い。だるい。…すべて、おかあさんだけ、たったひとりの思い出。
3Dエコーでみたとしても、それは映像でしかなく、具体的にそのからだが生きているときに触れたのは、おかあさんのおなかの中だけ。
これと似ているのが痛みのケア
痛みのケアは近年までけっこう軽視されてきた分野です。がん性疼痛のコントロールひとつとっても、じゅうぶんなレベルの知識や技術は、まだまだ広がっているとは言いがたいです。
神経難病のひとつである線維筋痛症も、なかなか理解されず、十分な痛みのコントロールは難しいです。
そもそも「痛い」とドクターにいえなければ、ドクターにとっては痛みは存在しません。それは、痛みは具体的に目に見えるものではないという側面が大きいと私は思っています。
痛みを感じているのも、訴えられるのも、患者本人でしかない。
そこには、他者が理解できるものが本当に少ない。
子どもとの具体的な思い出を持てない「死産・流産・誕生死」の苦しみと、同じ構図だなと思ったわけです。
(めっちゃ論理飛躍してごめんやで)
つらさの正体のひとつは「孤独」なのでは
誰とも思い出を共有できない。悲しみや苦しみや痛みは、たったひとりのものである。ていう、孤独であることが、「死産・流産・誕生死」における、おかあさんたちのつらさのひとつかもしれない。
…だからなんていうわけではないんですけど、もしかしたら、その苦しみに「孤独」と名付けることができたら、誰とも共有することができないものだと思えたら、何かが少し変わるのかな…と、そんなことを思ったのでした。
(やっぱり唐突に終わる)
(このnoteはstand.fmにて収録したものを書き直しました)
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