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儀礼と私

この文章は #プロ奢サロン 内の儀礼研究所のレポートです。
(2020.7.10 大幅加筆しております)

何で書きはじめたか

以前の「贈与研究所」も面白そうと思っていましたが視聴・読書には至らず。ところが、けがで仕事を休職し暇ができたこともあり、今回は第1回からすべて視聴しレポート作成に至りました。暇って大事ですね。

目的

儀礼って意味あるの?という己の疑問に根拠を持って答える。

背景

私は田舎寺の後妻かつ看護師です。葬式、法事、看取り、お見舞い。日常生活から少し逸脱したところで発生する儀礼に多く関わっています。

儀礼とは

デュルケムは儀礼の条件として
・決まったルールがある
・二人以上で行う
・ある意味で聖なるもの
の3つをあげています。

「儀礼は本来無意味なもの」でありながら、結果的に続けられてきたものには何らかのメリットがあることもあげられていました。まずこの時点で「目的」には答えが出てしまっているのですが、ここが私にはいちばん面白く、考えたきっかけとなったので、レポートとしてまとめておきます。

たしかに長く続けられてる儀礼には、長く続けられているだけの意味があるように思いました。以下実例です。

葬送の儀礼

新型肺炎が流行し、志村けんさんがなくなられた頃に「葬式で感染した」というニュースが流れました。

さらに、これに関連して、「感染したらちゃんと看取ってあげられない」という言説もありました。

ウチは田舎とはいえ、葬儀となると都会から親戚が来ることもあるためか、この報道から、大幅に葬儀の規模が縮小される傾向となりました。
近所に3つある葬儀場はどこも、椅子と椅子の間隔を大きくとり、参列者が多くとも20人程度、ご近所さんの参列はなし、というパターンになりました。ご近所さんと「参りあい」「お互い様」が常識とされている地域で、です。
で、葬儀を縮小した結果「ウチからコロナが出たと言われるようなことにならなくてよかった」と、ほっとしているそうです。

田舎では「コロナが出た家」はその地域から村八分どころか村十分くらいになって、結果的に引っ越しが余儀なくされているケースがあるんでね…(実話)

縮小され呼ばれなかった側からは「私もお別れに呼んでほしかった」、実際に家族葬をした側も「呼ぶべき人を呼ばなかったといわれ面倒」「あとから知った人が家にぽつぽつ現れて面倒」「結果的に人数呼んでも葬儀代金はあまり変わらなかった」などという言葉も聞かれています。にもかかわらず、やはり、今現在(2020年7月)も、葬儀は縮小傾向のままです。

面白いですね。

ちなみに、私の知る限りでは、ご遺体を火葬するだけの「直葬」は、ほぼ生活保護や身寄りのないケースだけです。
私が住んでいる田舎では、多くの家には檀那寺があり、そこの坊さんを呼び、通夜式葬儀式という体裁を整えている人がほとんどで、葬儀するかどうかの問題はほとんどなく、新型肺炎の感染と感染拡大についてが問題になる程度でした。

では、檀那寺のない人はどうしているんだろう。
実際のところ葬儀はどうやってやるんだろう。
寺ってどこの寺に頼むんだろう。
アマゾンでお坊さん便とか頼んじゃうの?葬儀屋さんに探してもらうの?
葬儀屋さんに探してもらったお坊さんに何万円、何十万円って積むの?
焼いた後の骨はどうするの?家においとくの?おいといた後どうするの?
墓はどうするの?散骨?
じゃあ自分が死んだ後は誰がどう後始末をしてくれるの?
…で、寺としてはどうやっていくとええんやろ?

このへんは、すでに問題として世に問うている方も多かろうとは思うのですが、自分の中から生まれた問いとしてあらためて言語化するきっかけとなりました。

寺の年間行事

こちらも前述の新型肺炎、「ウチの字で拡大したらえらいこっちゃ」という理由で思いっきり縮小されています。
季節のお祭りやお参り、月ごとのお参り、祥月命日、年会忌法要、すべて「今年はやめとくわ」「寺だけでやってくれるか」「家のもんだけで親戚呼ばずにやります」「来年に大きくやりますわ」などなど。

そして、この手の年間行事に若い方がどう関わっているか、関わっていくか。
大家族であっても「じいちゃんがやってたから」「ばあちゃんが行ってたから」という理由で「わからない」となる人がほとんどです。
もちろん、核家族で過ごしてきた方には行事の存在すら知られていません。
実際に行事の用意も若手から「縮小できないですか」となることが多く、年長者ともめている姿も目にしています。
儀礼の多くは年寄り・年長者が担ってきたことが、寺の史料からもわかっています。ですが、ここ数十年にわたり衛生環境が改善され、寿命が延びることから、年長者がさらに長生きし長く儀礼を担い、またマニュアル化・チェックリスト化が根付いていないこともあり、若年層に儀礼のノウハウが引き継がれない、ということが起こっています。

ウチのお寺でも、長くすべてを担っていた前住夫妻(義父母)が相次いで往生したため、住職(ほかの仕事と兼務している)にはわからないことがたくさんあります。

デュルケムは「本来は無意味なものであるところの儀礼を、先祖がやってたからやるだけ」という側面について言及しています。

…それは寺の存在意義そのものにかかるものではないかと、寺嫁としては、これからどうすんのがええんやろねー、と、やはり漠然とした疑問を抱いています。そもそも寺ってさ、儀礼で構成されてるやんね??

現代以前の葬送

さて葬送の話に戻ります。葬送そのものは「遺体を安全に処理すること」です。かつては、とても大変でした。土葬です。土葬には、場所+マンパワーが必要です。

(もうこれめっちゃわかりやすいので見てほしい。人ひとり運んで埋めるってまじで大変よ)

しかも、運んで埋めてくれる人をただで使うことはできなさそうです(ここらへんは儀礼というより贈与か)。だからこそ「葬儀」という儀礼が発生し、形づくられてきたと考えられます。

具体的にはこんなかんじ(史料から掘り起こし)
・家をあける(遺体を置く場所と会食する場所をつくる)
・ご近所さんにお願いしてまわる
・通夜式
・通夜終わったので会食、寝ずの番
・葬儀式
・埋葬(これがものすごい人手くう)
・終わったので会食(むしろメインイベント感ある)

埋葬するには諸々の儀礼があったようです。
遺体は感染源となりえるため、ある程度の深さ土を掘ることで安全に処理することが必要ですが、これは現代での説明で、昔の知恵では「けがれ」として扱うことが儀礼として残っています。

また特筆すべきは会食の多さです。ご近所さんを巻き込んですごい人数と回数だったことが、寺の倉庫にある食器の量からも読み取れます。

土葬から火葬にかわると、「埋葬する場所」の用意への人手がぐんと減りました。火葬場へ運べばいいわけです。焼けば小さくなり、持ち運びも簡単で、感染も土葬ほどの危険性はありません。

また葬儀が家や寺ではなく、葬儀専用に作られた葬儀会場で営まれることで、家を片付け、家に人を招く、という部分からも手間が省かれ、ぐんと楽になりました。

檀那寺がある場合、現代の葬送はこんなかんじ

そして、現代の葬送はおおむねこういう流れです。

・誰かが亡くなる
・葬儀屋を頼む(葬儀屋を知らなければ住職にきく)
・どうにかして病院から家に遺体を搬送する
・寺に相談して住職のスケジュールをおさえる
・と同時に葬儀場と火葬場のスケジュールをおさえる(家でやる場合は家でやるセットが葬儀屋に存在する)

あとは流れにそって、通夜式→葬儀式→火葬→骨上げ→初七日→二七日~六七日→満中陰(四十九日)→百箇日→一周忌→…

「やることが決まっててその通りにやればいい」、ということが、よくわかると思います。祭祀は寺が司るところはかわりませんが、実務はお金で葬儀屋に頼める。土葬時代の人海戦術感がなくなりました。

こうなると「ほんとに葬儀ってやらなきゃいけないの??」と考える人が出てきても、不思議ではないのが自然な流れです。

グリーフケアとしての葬送へ

さてここでちょっと話を戻します。

国民皆保険が普及し、医療が発達した現代日本では、なかなか人が死にません。新生児も乳幼児も命を落とすことが少なくなりました。ボケようが、こけようが、身体中にがんが広がっていようが、骨が折れようが、手足がとれようが、全身大やけどだろうが、脳みそがやられようが、心臓さえ動いていればたいてい復活します。
(これについては大いに思うところがありますが儀礼とは関係ないのでまたの機会に)

しかも核家族が一般的になっており、病む、死ぬ、という出来事が、自分の身近にありません。自分の人生の最初に出会った「死」が己の夫である、というケースもあるわけです。

人の死がかなり「レア」な出来事になっており、現代人は人の死に慣れていません。

慣れていないものには、衝撃は大きく重いものです。

人の死が重くなった一方で、先に述べたとおり葬送そのものである「遺体の処理」自体は、火葬というものになっており、これも人海戦術が必要ではなく、思いっきり簡素化すれば、火葬場に運んで焼いてくればいいわけです。

人の死の重さと、葬送の簡便化。考える時間ができた人には「葬儀って必要?」「もっとふさわしいやり方があるのでは?」という疑問がわくのも自然だと私は考えます。今ほど余暇のなかった時代には、集まり、一緒に食事をとり、何かをする、葬送だけではなく祭りや行事には一定の娯楽的要素がありました。
昨今の葬儀不要論も、提唱する人、持ち上げる人、報道する人、それぞれに理屈があるとは思います。

デュルケムは「儀礼そのものには意味はない」と記しています。

しかし、だからといって、なくしていいものなのでしょうか。

私はそうは思いません。

そもそもに意味はなくとも、実利があるからです。

相続関連はタイムリミットもあり、その中で「どう弔っていくか」「そもそも葬式するのか」「葬式するとしたらどこの寺の誰に頼むか」「どこに葬るか」云々については、先述したとおり、決められていなければ、いちから考える必要が生じてきます。

これが「ずっと知っているお寺の住職」だったら、ぐんと楽になります。

まずは手順の簡素化です。前述のとおり、いちいち何をどうするか考えて決めなくとも、ある程度のことが決まっています。
人の死の重さを抱えながら、タイムリミットのある手続きやるって、わりとしんどいです。葬送には緊急性がありますから(遺体は腐ります)、いちから考えてやるって、相当な精神的な余裕が必要です。

また、だいたいこういう儀礼では、メインとなってすすめる人に外野がうるさいのはありがちです。ここで「住職」という、葬送を知っている人間が出てきて「こうやるんやで」と言えば、解決するのはありがちです(最近は「なんで寺に頼んだんや…」ていうくらいデカい態度で上から目線の人もいますがありがたいことにまだ少数派です)。

さらに、1週間ごと、1ヶ月ごと、1年ごと…とふりかえる機会で時間の経過が心の中に生まれることも同様です。普通に生活していてはスルーしてしまうことも、たとえば今日はお寺さんが来るわ、親戚が来るわ、そんなふうに決まっていれば忙しくなります。人生でたくさん出会うことのなかった人の死の重さに正面から向かい合うだけでなく、忙しさに「まぎれさせてしまう」ことができます。月命日、一周忌、そういった数え方をすることで、時間の経過を感じることができます。

横文字で「グリーフケア」という言葉でわざわざ示されていることが、儀礼の中に含まれているのだと考えてはいかがでしょうか。

そして「こういう送り方でよかったのだろうか…」ではなく、「みんながやっている」「ただしいほうほう」で「私はただしくこの人を葬送できた」という気持ちが得られることは、グリーフケアに大いに役立っていると私は考えています。

結論

儀礼そのものは意味のないものであるかもしれないが、儀礼で得られるものにはいろいろいいものがあるので、とりあえず乗っとくのはよいと思うよ☆

唐突に終わります(文章力なし)


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