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私が見送った人、私が見送る人

「人生会議」についての投稿を、西先生が1/30締め切りで募集されていた。
思いっきり締め切りは過ぎているが、かいておこうと思う。

どうしてこの企画を行うの?
 医療者は、現場において意識不明で搬送されてきた方に出会った時、その人がどのようなことを大事にしていて、また何を望んでいたのかを知るすべがありません。
 では家族に聞けばわかるのでしょうか。ところが家族もまた、「こういう状況になった時に本人がどうしてほしいか」について話し合ったことはない、という場合がほとんどです。結局、誰も本人の気持ちを確認することも推し量ることもできず、医師が考える最善の治療や、家族が望む治療が行われてしまうことが多いのです。
(西先生のnoteより引用)

私が働いていたところ

私は数年「障害者病棟」で働いていました。どういうところかというと、50床のうち40人が経管栄養で寝たきり。呼吸器をつけたまま数年経過。神経難病の方もいる。ていうとこです。
たくさんのことを学びました。見舞いに来ない家族。現実を受け入れられない家族。嬉しそうにお世話をする家族。そして、なにも言わない患者さんたち。

私は「患者さんがこれを望んでいたのなら、しかたないなあ」と思ってお仕事をしていました。

私自身は「私はこうなりたくないので、なんとかせんとな」「家族がこうなる前に、話しとかんとあかんな」と思いながらです。

私が看護師として仕事するときには、ふたつの視点があります。「患者さんの意見は徹底的に肯定」「自分ならどうなのか」です。だから、あまりつらくはありませんでした。

そして転職

高齢者、といっても超や超超のつくレベル、後期高齢者が多い病棟へ配属となりました。ほとんどが80歳以上で認知症がある方です。

とくに救急入院となった方に多いのが、点滴をひっこぬいたり、動けると思ってベッドから落っこちたり、という「事故」です。病棟ではこれは「インシデント」として処理され、看護師の責任になります。

動けない・動かない患者さんばかりを相手にしていた私は、正直つらかったです。点滴を引っこ抜けないように、手の届かないところにしたり、手袋をはめてもらったり。暴れて落ちてしまいそうな患者さんには、ベッドに手をくくったり(いずれも「同意書」は得た上で、です)。

患者さんたちが「いつ家に帰れるん?」「おかあさーん」「ちょっと家のもん呼んでくれる」「これちょっとはずして」っておっしゃるのが、つらかった。

「もう、点滴なんてしていらん、家に帰して」って言われるのが、本当に、本当に、つらかった。

どうして、この人たちは、自分の意思を尊重してもらえないのだろう?

家族の意思が最優先にされる理由は何??

そんな問いがしょちゅう頭をぐるぐるしていました。

祖母の看取り

祖母は私が20歳の成人式を終えて1週間後、朝起きなくなり、そのままお浄土へ還りました。

みんなのごはんを作ったり家事をしたりして、普通に暮らしていた祖母は、1月のある朝、寝坊しました。仕事に行く時間になってもまだ起きてこない(いつもなら朝一番に起きる)祖母を不思議に思い、母が見に行くと、大きないびきをかいて眠っていたそうです。

救急搬送、3日の入院の後、呼吸停止となりました。介護という介護はなかった最期でした。

義母の看取り

義母にはとてもよくしていただきました。私もこうなりたいなあ、と思うほど心の広い義母でした。

5月のある日の夜、階下から夫が私を大声で呼びました。義母は浴槽で心臓発作を起こし、倒れていました。まだ身体があたたかかったこともあり、私は義母をすぐにひきあげ心肺蘇生を試みましたが、もちろん戻っては来ませんでした(心肺蘇生の途中で、もうあかんな、とはわかってた)。

義母とは常々、これからの話をしていました。義母自身ではなく、義父のことです。介護用ベッドを入れ、デイサービスを入れ、義母は義父を看取る気まんまんで、葬式のときには誰に言いに行けばいいかとか、お金はどのくらいかかるだろうとか、ここに貯金があるだとか、そんなことをです。

が、うっかり義母が先だってしまいました。何の用意もなく。

遺影用の写真は10年以上前のものから拡大コピー。保険証券も何もかも、義母のタンスをひっくり返して見つけました。

祖母と義母の最期は

突然で、大変だったし、平均寿命よりもうんと短かったものの、いろんな人に惜しまれ、ボケた姿を嫁に介護されることもなく、お浄土に還ることができ、おそらく「理想的な最期」と呼ばれるもののひとつではないかと思っています。

義父の看取り

身の回りのすべてを義母に世話されていた「要介護2」の義父が残されました。排泄に問題があり、杖歩行、プライドが高く、連れ合いを失った衝撃から、昼間から飲酒する日々が続き、転倒しては圧迫骨折とコルセット固定で、じわじわとADLが落ちる義父の世話が続きました。

1年半ほどたったある日、けがをした長女を病院に連れて行った帰り、家から「おじいちゃんがトイレの前で泡ふいて倒れてる」と電話がありました。電話をくれた次男は、遊びに行っていたのに、たまたま早く帰ったそうで、私もあと30分くらいで帰る、という、「おじいちゃんが家にひとりでいる」時間での出来事でした。

救急要請からドクターヘリを経て、呼吸器装着、ICU入室。呼吸器は数日で離脱したものの、低酸素状態の時間が長かったこともあり、認知状態もADLもほぼ「寝たきり」に落ち、誤嚥性肺炎を繰り返すため食事もとれない…という状態に落ちついたのがおよそ1か月後。

そして義父は療養型へと転院になりました。経鼻チューブが入っており、抜管防止のため、常に手は手袋の中で、よく「(手袋を)取ってくれ」と言っていました。

ただ、義父自身は「濃厚な治療」が大好きで、おそらく、自宅で生活を続けて看取られるよりも、ああつらい、ああしんどい、といいながら、治療されてる感は絶対にほしかった人であろうことを、介護をしていた私は実感していました。また、実子である夫も、夫の弟さんも、拘束と治療を望んでいました。みている私自身のつらさとは別に、「これはこれでひとつの望んだかたちだ」と妙に納得している私がいました。

そのまま点滴だけで3か月以上を生きた義父は、私が末娘を出産した翌日、末娘の泣き声を聞きながら、お浄土へ還りました。

父と母の話

父はひとり会社経営をまだ続けています。少しずつがんこになり、体力も落ちているはずですが、本人に自覚はありません。脳出血の既往があるため、次に何かあった場合はおそらく要介護になると考えられます。

母もまだ勤めに出ています。先日、脚立から落ちたことを笑いながら話していましたが、いつまで元気なのだろうかとは思っています。

いずれも、私と私の弟で意思決定をすることになるかとは思いますが、両親について、相続は弟、世話は私ねと、小さな頃から何回となく話していました。また、治療方針などについては、看護師である私が弟を説得するかたちになると予想しています。

①病気や老化などで体力・気力が低下する場合に備えて、終末期を含めた今後の医療や介護について話し合うこと
②そして自ら意思決定が出来なくなったときに備えて、本人に代わって意思決定をする人を決めておく
③これら話し合いのプロセスを通じて、本人の人生観・価値観などを周囲の人間とシェアしていく
(西先生のnoteより引用)

先日、母と話す機会がありました。私は、上記の職場の話を持ち出し「ボケても、おかんがイヤやいうたら、それ尊重するしな」「弟と相談してやっていくし」「たぶん家は弟が相続してくれると思う」「お寺とお仏壇は、弟がむりて言ったら私が引き取るわ」と言いました。母は「ほなまかすわ」と言ってくれました。

祖母の最期を看取り、後片付けをしたのは母と私でした。隣に住んでいたおばあさんは、脳血管性の認知症で、介護が大変だったのをよく知っています。離れて暮らしていた母方の祖母は、長い長い療養生活を経て、病院で亡くなりました。よく遊んでくれた一番上の伯母は、認知症で施設に長期入所しています。母も、介護にはいろいろと思うところがあるのでしょう。

「自分の葬式は自分では出せない」

これが、人生会議の根幹であり、老後あるいはがんや認知症を発症してから「誰にどう人生を預けるか」であることを、母との会話で実感したのでした。

命はいつか必ず終わる

病棟で出会った患者さんたちも、ご家族も、みんな、「命が必ず終わる」ということを受け入れてなかったように今は思います。また「病院に来たら絶対によくなる」「よくならなかったら病院が悪い」と思っておられるような発言もよく耳にします。

じゃ、自分が、親が、どう死んだら満足ですか?

胃にあけた穴から栄養剤を流し込まれる日々のあとですか?

食べられなくなったら、点滴すればいいですか?点滴を引っこ抜くならどうしますか?

「取って」と言っても取ってもらえない手袋をつけられたり、ベッドに縛り付けられた後ですか?

痛みや吐き気などの症状がじゅうぶんに緩和されないまま、苦しいのがいいですか?

自分の意思が徹底的に無視される状況があったとして、では、自分はどう扱ってもらいたいでしょうか。誰に後をまかせたいでしょうか。

それをこそ、ぜひ、信頼できる人と、自分が「看取ることになるであろう人」と、自分を看取ってくれるであろう人と、話し合ってほしいと、心から思っています。




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