mincoro
人生を彩り、ときに支えてくれた作品たち
うれしくても悲しくても、寝て起きて、学んで遊んで。
三十一文字で季節や暮らしを彩ります。
連続して物語を追っていくという愉しみ
「市子」 示唆的なカメラワーク 部分的かつ断続の ストーリーテリング 納得がいく理屈や 伏線の回収はなく 点をとにかくひたすら丁寧に描くことによって それぞれの線を 観るものに描かせる作品だった。 それはこの映画にはらむ 人生は 全体でなく細部に価値がある そのようなテーマに沿っていたように思う。
先日 老犬がいきなり亡くなったので 実家に帰ったら かつてうずたかく積み上げられていた 「わたしの蔵書」 が びっしり箱につめてあった。 その数20箱超え 姉に感謝を述べながら 私たちはそれらを死ぬ気で運んだ。 その中に長いこと保管されていた大量の ナンシー関 私という人間の基礎の基礎の基礎を作った 偉大なる文筆家だ。 この出来事 ナンシーならなんてコラムしたんだろう いつもそう考えながら暮らしている。 作家の死は新しい作品が2度と もう2度と この世に発表され
色鮮やかな春野菜で 作りおきおかずを用意していると 家人がいきなりしゃべりだした アクセサリーな 指輪とかブレスレットとか まあブランドものとか それを 「これいくらやと思う〜 ?」 ゆう会話があるやんか たいがい自慢話やねんけどな。 関西人のノリからゆうと 「ごまん円くらい?」 「ごせん円やねーん」 「すごいなあ!」 ってなるんやけど、なんなんこっちの人は 「それがじゅうまん円なのよー」 「えー!すごーい」 なんもすごないわ やす見られとんねん。 笑い
雪みつつ 日もあるけれど 市場にて 新緑の野菜が 春をおしえる
「こちらあみ子」 私たちは 違う誰かになることは絶対にできない あるもので 生きていくより他はない と。
10歳 うちの愛ロボット・ルンバ吾郎が 最近やたらと充電してばかりいるので わたしはドッグを隠した。 休む場所をうしない きれぎれになりながら 一生懸命はたらくルンバ吾郎 最後のほうはもう何も吸いこんでなかった 実にあわれな姿だった その死を悼み 翌日新しいロボット掃除機を買った。 そんなわたしの行ないに 家人からの非難が集中した。 要はわたしが ロボットに対してつめたい という話である。 そんなことで近未来をやってゆけるのかと。 わたしはSiriにいろいろ尋ねるし
「世の中が良くなればいいなと思って Winnyをつくりました」 ただ あまり言葉を知らなくて だからプログラミングは ぼく自身なんです。 このような 脆くも尊い人々こそが 全世界にむけた神からのギフトなのだと わたしはいつも思う。
連休に昔の映画 「DISTANCE」を観る 宗教と家族がテーマなのだけれど 役者さんたちの瑞々しさに ぜんぶ持っていかれてしまう 誰も非の打ち所がなかった そしてラスト直前の転じかた 初期・是枝裕和 おそるべし。
瑛太 「真剣さとおかしみ」 このバランスを演じきるのが誰よりもうまい。
美しさには脆さがともない 悲しみには 怒りがともなう。
宮松と山下 @5月 私が映画館にいかないのは 「なんども巻き戻す」 からだ。 ラスト直前で停止することも多い ドラマだと 最終話だけみるのをやめてしばらく時間をとっておく 終わるのが寂しくて 時を止めてしまうのだ。 そんな習性のあるなか 繰り返しなんどもなんども シュッシュ巻き戻しながら 72時間くらいかかってこれを観た。 香川照之の神髄はこういう役にあると思う 家人にそう伝えると もう巻き戻しすぎて何が何だかわからないよ と。
どこかで焼き立てのバゲットを買ってきては 冷凍することになっている。 冷凍庫になにかしらパンが備わっていると 夜中にふと目がさめたときなどに なんとなく安心する なんとなく 明日も大丈夫だな と。
朝起きたら冷蔵庫に トマト・タワーが仕上がって 家人からのメモ紙が置いてあった。 おめでとう けつあつをさげてね! 相変わらず漢字をつかっていない。 なにもおめでとうではないのだけれど と 私が言うと 年度末だからなどと話していた 確定申告を知っている その忙しさとかを。
人生の悲しみ たとえ心がしぼりとられるような喪失があったとしても 「食卓」 それによってその空洞は ゆっくり埋められてゆくのだという 光を この本にみた。
さつまいもにしか見えないパンを焼く。 私たちが真実だと信じているものごとは 実はすべてが フェイクなのかもしれない と。
チョコチップ・メロンパンをつくりながら きみはきみの好きな先生について 教えてくれる。 それは昔 生物の時間 こっそり現代文の宿題をしていたときのこと 「おーい 生物にたて書きはないぞー」 そのくらい粋な怒り方ができる人になりたい と。