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娘を火傷から守れなかった

2019年の最後の日、もうすぐ紅白歌合戦がはじまるというその時に、娘が大やけどをしてしまった。その時、自分は同じ部屋にいたが、娘をやけどという事故から守ることができなかった。

年が明けてもしばらく気が動転して、まともに振り返ることができないでいたけど、落ち着いた今、自分に何が起きているのか今後のために書き残しておこうと思う。事故が起きた4日後、自分への誓いとして以下3点を日記に記している。


- 子どもと一緒にいる時は、スマホ、テレビは厳禁(注意がそれるものは絶対にダメ)
- 子守をする時は、道場に入る時のような気持ちで、気を張り巡らせる事
- 上記2点ができないと判断した時は、無理をしない。助けを求める。できる顔をしない。


数か月経ち、この3点を見返してみると、これができればいいと思うけど、実行するのは難しい。というかすでにできていない。なぜ、できないのか?これから時間をかけて探求していこうと思う。

まず、日々忙しくしている自分は一体何に向かっているのか考えてみる。内省してみると、自分にとって重大な目標は、「できる男」になること事だと思う。

できる男になるループ図

できる男とは、年収をいくらにするとか、人からすごいと言われるとか、社会に対して影響力を発揮するとか、良い父として仕事だけでなく家事も育児もしっかりといった類のものだ。これになれないと男として無価値だと思われる恐れの感情もあるかもしれない。何しろこの目標に向かって、理想と現状のギャップを埋めるべくこのループを回している。

かたや懸命に努力すれば当然疲れも出てくる。家にいる時、自分は抑えきれないほどの休息欲求を感じている。そんな時は、妻の目を盗んで(つもり)、休むチャンスを窺っている。

仕事と休息

ここまで書いて気づいたのは、これが家にいる時の基本的な自分の状態だという事だ。私は家でも仕事ができる状態なので、家にいても基本的に仕事の事を考えている。そして疲れが出てくると休みたい衝動に身を任せる。仕事と休息。これが私の意識の主な焦点であり、妻から見た家にいる時の自分の行動もこの2つに集約されているようだ。

この状態の時、私は子どもへの注意の向け方が弱くなる。そして、子どもはその状態を敏感に感じ取る。すると、子どもは父と一緒にいても楽しくない。また、自分もそんな状態で子どもと遊んでいても、どこか「心ここにあらず」で、ただ育児の負担を感じているだけだ。

育児辛いループ

自分が育児負担を感じれば感じるほど、休息欲求は増していき、子どもに向ける注意はますます弱くなる。すると子どもも父といても楽しくないし、自分も負担感がどんどん増していく悪循環(育児辛いループ)に陥ってしまう。人生において最も大切な活動の一つである育児が辛いものに成り下がる。

そして、この状況は、妻の育児負担を増やしていく。

仕事も育児も中途半端

子どもは父といても楽しくないので、すぐにママを頼る。常に子どもにかかわる必要がある妻は、私の子どもへの関わり方に苛立ちを覚え、私に注意する。私と同じように誇りを持って仕事をしている妻からの注意には従わざるを得ない。そして、無理やり子どもと関わる時間を持つ。でも、義務感から子どもに関わっても子どもはそれを敏感に感じ取るものだ。私自身も義務感から子どもに関わっていると、育児時間中、どんどん目指す目標から遠ざかっていくような気がして、「本当ならもっと成果を出せるのに」というような感情が付きまとい、それが子どもに向かう注意を奪い・・・という悪循環(仕事も育児も中途半端ループ)に陥る。こうなると家庭の中で、私は仕事に集中できない、休めないフラストレーションを抱え、心ここにあらず状態だし、仕事を持つ妻も同様のフラストレーションを抱えながら、さらに育児負担の偏りにイラつくし、子どもは親から関心が寄せられていないことを意識、無意識に感じ取る。

我が家の場合、この意識化されなかった状況が事故という形で顕在化したのではないかと今は思っている。今回、事故という形で問題が顕在化したが、この構造に無自覚なままだったら、事故が起きなかったとしても見えない形で家庭内不和とか子どもの心に影を落とすような影響があったかもしれない。

ここまで作ってみて、家庭内での自分の行動がいかに、スマホによるメールチェック、情報収集、読書、PCを使った仕事、そして休息に軸足がおかれているか改め自覚的になった。私は、意識的に家族との時間を確保するようにしているし、家事割合も妻よりも多い。それで何かできているような気がしていたが、そこにある子どもへの関わり方やその質についての自覚は弱かった。

この構造について、自身も家庭を持つ母という立場の女性と会話した。その人は、この構造に女性の観点を加えてくれた。仕事を持つ女性は、仕事における目標に加えてもう一つ目標があるという。それは、「良き母」というものだ。「良き母であらねば」というプレッシャーは、両親からも世間からも自分からもやってくるものらしい。仕事をして、子どもと関わる時間が少ない事で子どもへの罪悪感を覚える。一方、仕事にもフルで打ち込めない事から職場へも罪悪感が芽生える。言い知れぬ罪悪感を抱え、「あっちもできていない、こっちもできていない」という不安に取りつかれながら日々葛藤し、生活しているという。この話を聞いて、妻の置かれている状況を少し感じられた気がして、どれだけ慮れていたかと思うと恥じる気持ちも芽生える。

でどうするのか?「仕事で成果を出す」という目標を否定しても仕方無いと思う。深く自分に刷り込まれているものでもあるし、これがあるから社会生活を順調に送れているとも言える。また、根本には家族を守りたい、家族で幸せになりたいという願いもある。だから、目標を再定義しようとは思わない。仕事と育児という二律背反する状態に身を置き続ければ良いと思っている。

この状態には解決策なんかない。でも、会話の中でやるべきことが何かはわかった。ごくありきたりでシンプルな事だけど、それは互いに感謝を述べることだ。この当たり前で、ありきたりな結論に至った時、2人で物凄い事を発見したと大盛り上がりした。

必死に目標に向かって生きている。足りない自分には自分が一番気づいている。それが満たされない不安をいつも抱えている。そこに、「いつもありがとう、助かっている」と声をかけてもらうだけで、フッと力が抜ける。感謝の言葉をもらった時、また頑張ろうと思うと同時に、目の前にいる子どもに注意を向けられる。家族関係はいつだって複雑でコントロールしようもないけど、できる事、やればいい事はいつだってシンプルなのかもしれない。


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