「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」読後感

「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」 
カレル・ヴァン・ウォルフレン著  角川文庫17746 2012.12.25初版発行

 私は以前、著者の「日本/権力構造の謎」上下2巻を読んで、日本の底流に流れる構造を明確に知ることができ、目からうろこが落ちた思いがしたものだ。そして、その著者が1994年に「人間を幸福にしない日本というシステム」というタイトルの本を出した。彼の日本分析が、今の状態を状態を明確にえぐり出していた。私はそれを読んで、重要なところを書き抜いていた。(後半に掲載)それを纏めたいと思って、読みなおすつもりでこの本を買ったのだ。しかし、この本は、94年出版された書の改訂版というより、12年経って失われた10年がさらに延長された中の日本を描き出しているという意味で興味深い内容だった。
 彼の日本分析の根幹は「日本は官僚独裁国家」であり、政権にいる政治家たちは、建前は支配下にある省庁に対し、ほとんど影響力を持たない。政策を立案し、調整するのはキャリア官僚たちだ。しかし、他の全ての官僚を支配する権限を持ち、誰もが同意するような日本の政策を決定できる官僚グループはない。つまり、事実上の政府のトップとして行動できるような集団が日本にはない。だから、困難な時期にかじ取りができないし、政治的説明責任の中枢が存在しないのだ。
 彼は言う。日本は説明責任ある「国家」ではない。いわば、国家なき国である、と。日本の今の政治システムは、市民としての日本の人々を裏切っている。何故なら、権力の座にあるものが誰も説明責任を負わず、国の指針もなければ、リーダーも不在で在り、市民としての国民に国の命運について理に適った話のできるような彼らの代表者、すなわち議員もいないからだ。
 戦後、官僚集団は、システムを一新し、日本企業が生産性を飛躍的に向上することによって、巨大企業勢力として世界に打って出ることを至上目標にしていた。故に企業の発展を第一義に考え、国民の生活向上は眼中になかった。そして、国民は統制する対象として扱われた。その一例として厚生労働省の避妊用ピルの普及についての議論も興味深いものだった。P108
また、現在の失われた30年の発端となったバブル経済の原因にも言及している。この理由を見て、なるほど、そういうことか、私も納得したものだった。p224
 また、日本の現状については、「無関心と無能力」の結果であるとしている。
 国家運営に関する管理者たる官僚の無能ぶりは80年代前半まで目立たずに来た。しかし、この転換期にもはや舵を取る能力がないのだ。日本の有害な惰性の第二の原因は、一般の人々が相変わらず「シカタガナイ」と言い続け、思い続けていることだ。無能な経営者に率いられた組織で、かつ構成員たちに無関心が幅広く広がっていれば、その組織の衰退と破滅の決定的要因になる。日本の有害な惰性は、詰まる所、特別に強く、根強い、社会の全域に広がった無関心の結果なのだ、と。
 確かに政府や官僚が国民から、様々な事柄について開示するように要求しても関係書類は「不存在」あるいは「大部分黒塗り文書」で応えることに象徴するようにまともに説明をすることはない。説明責任を果たす木は毛頭無い。そして、国民に広がった無力感から来る「無関心」は政府が原発、森友・加計問題、統一教会、桜を見る会など一つ一つが政権が吹っ飛ぶような背信行為をしているのに、易々と見逃し、選挙の度に投票率は低落傾向にあることなどに現れている。
だから、今の日本の状態を脱却できる処方箋はないと私は感じた。是非、一読をお勧めします。
 
 以下は私が、「人間を幸福にしない日本というシステム」を読んで抜き書きしたものだ。上の本は、さらに大幅加筆されていて、今の日本を身近に解剖しているのが興味深かった。
 
Jan.10(2022?)
「人間を幸福にしない日本というシステム」カレル・ヴァン・ウオルフレン著
                 毎日新聞      1994.11.30発行
30年前に日本を分析した本だが、今の状況にぴったりと当てはまる。だから、「失われた30年」の原因をその時期に究明していたと言うことだ。
 
「日本権力の構造の謎」から4年。バブルが弾けて日が下り坂を明確に転がり始めたときの作品だ。失われた時代が続く最初の10年の間。
 彼の作品を追い続けている。

 p56:会社を家族と見なす考え方は、戦前、戦中を通して、日本を慈悲深い天皇を中心とした巨大な家族国家として描く国体イデオロギーを支える下部イデオロギーとして重要な役割を果たした。1940年に日本の労働者の3分の2を組織し、6万を超える支部を擁するに至った愛国的産業組合「産業報国会」を支える思想でもあった。この考え方の延長に日本生産性本部は、労使協調路線を主導してきた。この産業報国会が日本の企業内組合の先駆けであった。
憲法9,15(公務員の選定、全体の奉仕者),20(政教分離),38(不利益供述の不強要)、41(立法権),65(行政権と内閣),76(裁判官の独立),98条(憲法の最高法規性)の各条は普段は完全に無視されている。
日本には説明責任の中枢がない。
p99:「官僚のヤミ権力」
日本は「コンセンサス・デモクラシイ(=官僚独裁)」つまり「合意による民主主義」だから、欧米諸国の官僚が受けているような議会による支配は要らないという。
 日本の官僚独裁主義は、ほとんどの場合、その痕跡が見えない。非公式の権力は法の規制を受けない権力である。このヤミの権力は政治システムを構成する正規の取り決めの中での正規の職責に伴う権力ではない。そのような非公式の関係が実際には日本の政治活動の実質的な主体を形成している。その実質的な主体とは、官僚たち、業界団体、巨大金融機関、企業グループ、それに2,3の政治家グループ間の非公式なつながりのことであり、そのつながりの間でなされる取引のことである。
p115:日本の検察庁は法務省の統制下にあるから、結局は官僚制度全体の下僕と言うことになる。つまり、官僚たちが強力な政治家たちに脅威を感じ始めたら、検察が面倒見るのだ。田中角栄にこれが起こり、金丸信にも起きた。小沢一郎や他の改革は政治家たちにも同じことが起きるかもしれない。(実際に、起こっている。そして、安倍周辺のきな臭い事件が一向に立件できない理由の一つなのだろう)
P140:1945年以降、日本の寡占支配の構造は変わった。軍人と官僚との連合は、官僚と実業界の経済官僚との連合に取って代わられた。経済官僚のほとんどは、退職官僚で、各種業界団体の重要な地位と、また、後に系列企業となる会社の官僚的経営者の地位を占め始めた。
P171:「状況の論理」日本という生産マシーンのフライト・プランはすでに我々が立証したように確定している。つまり、生産力の果てしない拡大という戦後の使命だ。日本の政府官僚と実業界の経済官僚(管理者:アドミニストレーター)はあたかも自動操縦装置のように機能している。大蔵省の役人は、西洋なら大銀行が不良債権のためにとっくに淘汰されているはずでも、大銀行の倒産を望まない。そのために役人は保険会社、証券会社、他の民間企業の指示を出し、株価の人為的な高値維持に協力させる。そして、役人の臨む結果とは、いつも増産による日本経済力強化だ。
P195:「バブルの真犯人」
官僚たちの手法は、家計部門から産業部門への恒常的な富の移転を可能にする。銀行がその移転に介在し。産業部門への一方的な富の慣れを作るのを助ける。家計部門を助けるべき金融機関の消費者金融サービスは、一方で未発達のままに放って置かれている。
 産業部門にきわめて安い資本を調達する組織的運動は二度に亘って行われた。その二度目のキャンペーンが「バブル経済」をもたらしたのだ。
一度目は、「オーバーローン(超過貸し付け)」という名で知られる。1950年代から60年代に掛けて、系列銀行は戦後産業集団の要の役割を果たした。系列銀行は「資金ポンプ」を呼ぶにふさわしい存在だった。約20年間に亘って日本経済を活性化させ続けた金融システムの、その決定的なポイントは、日銀が市中銀行を極めて寛大に遇してきたと言うことだ。「市中銀行は、グループ内の企業への融資を増やすときでも、その増加分に見合う準備貯金を日銀から要求されなかった。この期間の大部分を通じて、日銀から利子を割り引いて市中銀行がかり出した額は、市中銀行の貯金額を大きく上回っていた。戦後、日銀が市中銀行を統制できるようになったのは、戦時中の1942年に創設された金融統制会の運営方法が原型にあったからだ。
「バブル経済」は85年までは銀行貸し出しの対前年比率増加率はGNPに見合っていたが、この年になって急に2倍も増加した。大蔵省が内々に銀行に貸し出しを増やすように勧めたことだ。
P230:「無能と無関心」日本は組織的な惰性に陥っている。市場経済の中にある企業の場合は、外圧によって、変わらざるを得なくなるか、それとも消滅してしまうか、どちらかに落ち着く。しかし外圧が十分でない場合は、何十年も堕落したまま漂流する。堕落していることは組織内の人々もとっくに気づいている。しかし状況を覆す何事も起こらない。こういう状況を「有害な惰性」と呼ぶ。有害な惰性の原因は、二つ。一つは「根本的な無関心」もう一つは「根本的な無能力」(今問題になっている三菱電機ヤスバル自動社など、ぴったり当てはまる)。
日本について言えば、無関心と無能力の結果である。
国家運営に関する管理者たる官僚の無能ぶりは80年代前半まで目立たずに来た。しかし、この転換期にもはや舵を取る能力がないのだ。日本の有害な惰性の第二の原因は、一般の人々が相変わらず「シカタガナイ」と言い続け、思い続けていることだ。無能な経営者に率いられた組織で、かつ構成員たちに無関心が幅広く広がっていれば、その組織の衰退と破滅の決定的要因になる。日本の有害な惰性は、詰まる所、特別に強く、根強い、社会の全域に広がった無関心の結果なのだ。
P245:民主主義と説明責任と情報、この3つは分かちがたく結びついている。日本では、偽りの情報が2つの媒体を通して伝えられている。一つは制度、他は思想だ。日本人がその存在理由を疑わない制度がある。そして、日々受け入れている思想がある。この二つの媒体にメスを入れないと信頼される国として生き残れるかどうかが問われる。

 確かに日本の問題点を的確に捉えている。これが注目を浴びないのは、日本の知識人が、彼の言うとおり、権力の側に着いているからか、あるいは弾かれると言う恐怖心からなのか。
 

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