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俳人

秋高し鳶舞い落ちる城の上(正岡子規の松山城を詠んだ句)

大根の葉の流れゆくはやさ哉(高濱虚子)

正岡子規、高濱虚子ら写生句が大好きだった。

松山城は小高い山頂にあり、秋の空が高い、鳶も高く舞う…その『高さ』が目に見える。

大根は冬の季語。狭い早瀬の上から大根の葉が流れゆく様を描いているのだが、

その上流で大根を採りおしゃべりしながら洗っている数人の農婦がいて、中には仲間外れされて寂しい人も。キンキンに冷えた水流で手を真っ赤にしながら…

俳句でうるさく言う【季語】はそう言う〈想像の翼〉を広げさせてくれる。

しゅうせんや夕陽に黙す重機群(しゅうせん・ブランコの謂)

かつて京都の某俳句結社に投句していた頃、大先輩から評を受けた句だ。

しゅうせん
ゆうひ
じゅうき
と韻を踏んだところも評価された。

八重よりも一重がすずし黄山吹。
(すずし、が秋の季語で山吹と季重ねで【ゆかし】に添削されて掲載された。

八重よりも一重がゆかし黄山吹、というわけだ。

私は短歌より断然俳句が好き。季語で、或いは五七五と【余白】【余韻】を残し読む者の想像力を掻き立てる。

短歌は最後の七で詠み切ってしまい、作品世界が完結してしまい読み手の想像の余地をなくしてしまう。

【季語の花】という写真集片手に桂川河川敷によく行った。図鑑に載ってる花を実際に見ることができるからだ。

なぜ俳句か。人生や発想、生き方にも【余白】【余韻】が必要だと思うからだ。

短歌のように完結した人生でなく未完結にして余白や余韻がなければ未来へ開いてゆく人生にならないと信じるからだ。

高濱虚子のは
大根の葉っぱがはやく流れてるな〜だけだが季語や【哉】と言う切れ字で凛とした冬の早瀬の冷たさを表している。

たかだか僅かばかりの人生だが短歌的でなく俳句的な生き方をしたいものだ。

学会員は何も御書や教学を学ぶだけじゃない。
さまざまなジャンルの芸術に触れ、私みたいに創作してみないと観心、文底、一往、再往等御書を読めないのじゃないかなとか思うわけで。

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