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日蓮正宗大石寺

歴史にifはタブーだが立正安国論提出時に日蓮大聖人が処刑されたなら大石寺も存在しなかっただろう。

もちろんその在家集団創価学会もあり得ない。そう大石寺ありきの創価学会である。

初代会長牧口先生が教育学の研究から日蓮正宗の信仰に出会い昭和5年創価教育学会を創設された。

そう創価学会が虚空から突如生まれたわけではないのだ。

日蓮大聖人、歴代御法主猊下がいらしたればこそ、その在家集団として創価学会は誕生したのだ。

『人間と仏法を語る』所蔵昭和63年の第4回全国婦人部幹部会でのスピーチに

日達上人は御法主日顕上人に血脈付法され一切を相承なされた。と明言されている。

拙文【恩寵】でも書いたが道徳倫理的に欠けがもしあったとしても日顕上人が法主詐称したわけじゃない。

学会員なら池田先生の言を信じているはずだ。

我らも道徳倫理的にはクソであろうが不可思議なる仏法にて即身成仏できるのだ。その身そのまま改める事なく。

故に妙法なのだ。

2/9聖教新聞紙上にて
白米一俵御書の御文
『白米は白米にあらずすなわち命なり』を読みながら納豆卵かけご飯を食べて、藤井風君のgraceを聴きながら鼻から涙流して号泣しながら食べました。

何気ない御文がこれほど恩寵に満ちた言葉であるかを身をもって知った。

さて創価の正義とか宣う人は相当数存在するが、日蓮正宗大石寺の正統性は御書自体が宣揚しているが、創価学会の正統性は一文一句しるされてはいない。

日興遺誡置文の
時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事…
の【之】は仏法に相違した己義にかかる用法で貫主にまでかからない。

でなければ後段の
集義たりと雖も仏法に相違有らば貫主之を摧くべき事
が成立しない。

日顕憎しといい故人であるにも関わらず茶化したり小馬鹿にするのは忘恩不知恩の輩じゃないか。

池田先生が日達上人から血脈付法され一切を相承なされた日顕上人ではないか。ならば師敵対だと思わないか。

日蓮正宗大石寺ありきの創価学会であるにもかかわらずだ。

創価学会があって日蓮正宗大石寺が誕生したなら別だが。

【恩寵】をキーワードにすればすべて腑に落ちると思うのだが。

創価学会僭越ではないか。総じて言えば三代会長が、別して言えば日蓮大聖人が我らの師匠ではないのか。

このnoteをTwitterにシェアすればTwitterの学会の友から総スカン喰らうだろ。

ぼくは文証あげた。
『文証無きは悉く是れ邪の謂い』(持妙法華問答抄)にある通り文証あげて反論があればコメントいただきたい。

感情論感傷論は無効だ。

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