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菅公、内裏に雷を落とすこと 壱の章

命の灯が消えようとしている男がいる。
名は菅原道真。
文章博士、そして右大臣となった男である。
しかし今は、暗くほこり臭いあばら家の片隅に薄い夜具を敷き身を委ね、浅く早い息使いをさせている。
痩せた身体に力は無く、華やかな都の殿上人だった頃を誰が思い出そうか。
無念、悔しさ。
そんな気持ちは当の昔に置いてきてしまった。
かさかさに乾いて土色になった唇を開いたまま、時々思い出したように暗い天井を道真は見上げた。
言葉が出てこない。
あれほど彼の人生を彩ってきた言葉も、今や彼を救うことはなかった。
そうしてどれほどの時が経っただろうか。

「なあ悔しいか」
「悔しいなあ。人の命というのはまことに短い。」
嘆きを抑えきれないというように、言葉は止まることなく続いている。
(誰かいたのか。)
道真は息を一つ吐いて、声の主を探した。
「口惜しいぞ。
道真殿の詩は天まで届き、調べが心地よい。
口ずさめばその素晴らしさがわかる。
いや、口惜しい。」
恨みがましい低い声は荒れ果てた家に響いた。

視線を巡らせてやっと自分の足元に、黒くわだかまった大きな塊が小刻みに震えているのを見つけた。
黒い塊はよく見ると手があり、足を組んでいる。
髪は逆立ち、大きな目玉は溢れそうなほど前に飛び出していた。
大きな鼻はヒクヒクと震え、大きな口の上下から犬歯が飛び出していた。
顔も身体も黒光りさせた、堂々とした体躯の鬼がいたのだ。
逆立った髪だけが暗闇で白く浮かび上がり、異形というのにふさわしかった。
「お、お、鬼!」
久方ぶりに声を発したことも忘れ、黒く大きな鬼から離れようと、道真は身をよじって逃げようとした。
「おお!まだ御身に力が残っていたとはな。」
黄色く硬い爪にひょいっと持ち上げられ、道長は夜具に戻された。
(地獄に連れていかれるのか、食われるのか。
ああ、家族と一門のため働いてきたというのに。)
道真は恐ろしさにぶるぶると体を震わせた。

「そう急かされるでない。我は鬼などではないぞ。」
ひと呼吸おいて、さも大切なことを伝えるように厳かに言った。
「我は黒鉄、雷の神の使いだ。」
「雷の神?」
「雷の神の使いよ。
道真殿の詩は天上にいるこの黒鉄の元まで届いているぞ。」
黒鉄と名乗った雷の神の使いはまじまじと道真の顔を覗き込んで、
「ほう、これは珍しい!道真殿が陰陽体になっておる。」
最後は独り言のようにつぶやいた。
「陰陽の姿ならば見せられるものがある。」
黒鉄はうむと頷くと、
「さあ、こうしてはおられぬぞ!
お主はこの続きを知る資格があるということだ。さあ、行こう。」
「地獄に連れて行かれるのですか。」
震える声で、道真は精一杯返した。
「地獄なぞ行かぬゆえ安心されよ。
今の都を見せてやろう。
もう起こり出している。
これから次々と起こるはずだ。」
「何が起きているのですか!」
ハッとして、道真は闇のように黒い雷神の使いの前に身を乗り出した。
まさか、家族に何かあったのだろうか。
「そう慌てるな。陰陽体になって体が元に戻ったように感じるかもしれぬが、まだまだ急に動けば陰体と魂が離れてしまう。」
「身体と魂が離れる?私は死んだのですか?」
「先ほど申したではないか。陰陽体よ。
生きてもおらず、死んでもおらずさ。
道真殿は生きている人に触れることができず、人は道真殿の姿は見ることはできない。
かといって陰陽体は死んでいるわけではないから、極楽浄土へ行くこともかなわぬ身じゃ。
この世の身体に戻れぬから、このまま置いていくしかあるまい。」
黒鉄は視線を夜具に落とすと、そこには力なく横たわった自分がいた。
驚きのあまり慌てて触れようとしたが手は空を切るばかりで何も触れることができない。しかし自分の手を見ても普段通りで何の違いもない。
力なく横たわったままの自分を起こそうとしたり、体に戻ろうと乗ってみようとしても触れる感覚がまったくない。
じたばたと悪戦苦闘する道真を黒鉄は静かに見ていたが、困り果てた道真と視線が合うと静かに話し始めた。
「人は陽体で暮らし命を全うする。
この後普通は極楽浄土へいくのだが、稀に陽体の後に陰体に変じて、この世で生きている時と同じように見たり、聞いたりすることはできるようになるのだ。
これはなかなか珍しい。
始皇帝がずっと願っていたのもこれなのじゃ。
我が知る限り空海殿は生前彼が達成した境地で陰陽体となり今なお瞑想を続けておられるが、ふたたび陰陽体の人間と出会うとは思わなんだ。」
痩せ細った自分の手を見ても、透けているわけではないし何がこの身に起きたのかまったくわからず道真は途方に暮れた。
横を見れば、粗末な夜具に血の気の失せた自分がいる。
「わ、私は…」
「元の身体はこの世限りの輿のようなもの。
陽体に戻らぬから、菅原道真はここで死んだといえよう。
だがこうして陰陽体になれたのだ。
道真殿は何が見たいか?何が知りたいか?
我は見せたいものがあるぞ。」
唐突にそのようなことを言われて、道真は今何をすべきなのかわからなかった。ただ、ここに独り残されても永遠に独りだということを理解した。
黒鉄はぴゅうっと器用に指笛を吹くとたちまち疾風が巻き起こって、狭いあばら家に土埃が舞い上がり何かが飛び込んできた。
それは見たこともないほど大きな黒狼だった。
黒鉄は爪が伸びた黒く光る手で、黒狼の背を撫でた。
「では行こうか。」
黒狼の背に跨った黒鉄は、片手でひょいっと道真を持ち上げて
自分の前に乗せた。
「目指すは都よ。黒丸頼んだぞ。」
黒丸は天まで届くような遠吠えをひとつすると、粗末な板戸を蹴破り、天に向かって一直線に走り出していった。


走り出した黒狼のあまりの速さに、振り落とされないように道真は必死で掴まるしかなかった。
空中を飛ぶように駆けていくので、身体を獣の背に埋め込むようにして全身でしがみついた。
そんな道真を黒鉄は笑ったが何も言わなかった。
しばらくして、振り落とされることはないとわかると、道真は恐る恐る眼下をのぞいた。
真夜中の闇は深かった。
天は無数の星が瞬き、薄い雲に隠された月は朧げに佇んでいる。
狼の背に跨りながら、思う存分道真は空気を吸い込んだ。
太宰府の地に赴任し、2年余り。
土地のもの達の好奇の目に晒された後は、無関心に放っておかれた。
わかってはいたか、赴任というより流罪であった。
都から運んだわずかな書を読むこと、詩を作ること道真にできるすべてだったといえよう。
消息も知り得ない家族への想いが溢れ出して仕方がなかったから、とにかく彼は没頭した。
この2年間、自分はこんなふうに深く呼吸をしていただろうか。
黒丸は相変わらず飛ぶように駆けて行くのに、月に近づいた様子はない。
何層もの薄い雲の衣を掛けられた月は、淡い輪郭を所々見せている。
衣の隙間から黄金の色が覗いていた。
その光は黒丸の背中乗った道真と黒鉄をしんしんと照らしている。
いつしか、道真は眠りに落ちていった。

月耀如晴雪  月の光は晴れた日の
       雪のように澄み渡り
梅花似照星  梅の花は輝く星のように見える
可憐金鏡轉  鏡のような月が移動するにつれて
庭上玉房馨  庭の梅の花が香ってくる

黒鉄は眠りについた道真にかまわず、大きな声で詩を朗誦した。
もう何回この詩を詠じただろうか。
黒鉄の身体に染み渡っているようだ。
「まるで梅の香りが漂うようだぞ、道真殿。」
黒鉄は眠っている道真に黒鉄は優しく声をかけていた。



都には明け方に着いた。
しかし、あの麗しかった都がこのように変わっていようとは道真は考えていなかった。
民は痩せ、暗い顔をして俯いて歩いている。
埃と砂が舞い上がり、枯れかけた木が道のところどころに見えた。
黒鉄とは黒丸は道真を置いて消えてしまった。
本当にこの神の使いには振り回されてばかりいる。
仕方なく道真はひとりで邸を目指し歩き始めた。
初めは人から見えるのではないかと、隠れて様子を伺っていた道真も誰にも気に留められないとわかると、やっと普通に都の大路を歩いて行った。
やはり家族のことが一番気がかりである。
たどり着いた邸は草木が茂り、人の手が行き渡らず寂しい様子に変わっていた。
家財道具も最低限の物しか残っていない。
生活のために売ってしたったのだろうか。
妻の宜来子の姿を探して邸に入っていくと、妻はひとり伏せっていた。
かろうじて残っていた古参の使用人と下女、下男が家のことや宣来子の面倒を見てくれていたらしい。
家族が散り散りになったこの邸で、ひとりで伏せっていたかと思うと涙が溢れてくる。
子が生まれ育ち、嬉しいことも悲しいこともこの邸で起きていたのに、息子たちの消息を伝えるものは何も残っていなかった。
(妻がこんな時に何も助けることができないとは。)
妻の目には映らないが、道真は妻の隣に座り寝顔を見守ったり手をそっとさすりながら過ごしていると、いつしか夜が更けていった。

邸の小さな池の対岸に、いつあらわれたのか黒鉄が座っていた。
足元には黒丸が丸まっている。
今朝別れた時は、都に着いた嬉しさと安堵で涙ぐんだ道真に
「また会おうぞ。」
といって黒丸とともに小さな竜巻を起こして消えていったのに。
「黒鉄殿は私の家族がどうなったのか、ご存知ですか。」
「………」
「教えてください。
私は家族の行方を知りたい一心で都に戻って来たのですよ。」
「北の方は実家に頼らず、ずっとこの邸を守られていた。
しかし2年も経つと心を弱くされてのう。
仕方もないことじゃ。
体調が良い時もあられるが、こうして臥せってしまわれる時もあるということだ。
道真殿の息子たちはそれぞれ地方に追いやられておるが、今すぐ命に関わることはないであろう。
娘がたも息災に過ごしておられる故、案じ召されるな。」
そこまで聞いて道真は重い息を吐いたが、彼の眼には涙が光っていた。
有りもしない謀反を政敵たちが帝に上奏し、まさか帝が信じてしまわれようとは道真は思ってもいなかった。
道真の娘は、先の帝の息子である親王に嫁いでおり、その親王を担ぎ出し、今上帝を退位させるなど彼は夢にも考えたことはない。
ひたすら自分の信じる正しい道を、帝であってもお伝えする姿勢を貫いてきた。人として、子の親として、少しでも平安な世に貢献したいと考えていたからだ。
しかし一方的に政敵と見なされて、どんなに誤解を解こうとしてもすでに糸は絡まり解決できない状態になりつつあった。
いや、相手も道真のことを本当に憎んでいたのかも怪しい。
相手には相手の言い分と、一族を背負う重圧があるのだ。
そんなことは十分すぎるほどわかりきっている。
思考は駆け巡り、しかし答えには辿り着けそうになかった。
涙は枯れることなく、道真の衣の袖を濡らし続けた。
黒鉄は黙ってその様子を見ている。
幸いなことに家族たちは生きている。
家族のために都に戻って来たのだから、自分にできることは何でもやろう。
思いを巡らせて道真は立ち尽くした。


陰陽の身体というものは、面白くもあり悲しくもあった。
人には見えないので寂しく感じるが、代わりに自由に動くことができる。
家族が気になり、娘たちの邸まで見に行った。
慎ましく人目を避けて暮らしていたことに胸が痛んだが、家族に大切なされている様子を確認して道真はひとまず安堵した。
道真自身はやましいところがないと主張しても、
口さがない言葉を浴びせられることもあるだろう。
想像していたとはいえ、一方的な仕打ちにあったであろう家族を思うと
道真のなかに暗い思いが渦巻いた。
怒りと悲しみが同時に存在し、ある時は家族を守れなかった自分に怒りが向いたり、ある時は悲しくふさぎ込んでしまう時もあった。
そうして月日が過ぎていった。


(これで完全に終わりじゃ。)
醍醐帝は思った。
父・宇多上皇が身罷られ、そして大宰府に左遷した菅原道真が亡くなったと
この遠い都まで早馬が知らせてきた。
齢十三歳で帝になった醍醐帝は父上皇、そして菅原道真と藤原時平に頼ってきた。まだ政務に不慣れな年齢であるから当然であろう。
しかし成人となってからも、さも当然のように父上皇は横槍を入れてきた。
頼り頼られた月日が長かったためか自然すぎて誰も不満にも思うものはいなかった、醍醐帝を除いては。
天子である自分の決裁後に父上皇が確認し、最終決裁を行うのである。
おかしいではないか。
誰も不思議に思わないのが、不思議である。
父上皇をご尊敬申し上げる気持ちと自分の力を誰を信じてくれない
心細さが混ざり合って、醍醐帝は体が震えるほど怒りが湧いてくる時があった。
今になってわかったことだが、藤原時平は不満に感じていた年若い醍醐帝の気持ちに気づいていたようだ。
醍醐帝が十七歳を迎えた時、時平はこう告げたのである。
「菅原道真は謀反を企てている様子がございます。」と。
道真は父上皇が一番の信頼を寄せていた臣下である。
遺言で道真の言をよくよく聞き入れるようにと残して言ったほどだ。
道真は醍醐帝と父君ほど年が離れているが若い自分を軽んじることはなかった。誰であろうと曲がった行いは正し、智慧をもって事をなそうとする人物だと常日頃感じていた。
そんな道真が自分の信頼に胡坐をかき、帝を排斥しようとしていることに
醍醐帝は怒りを抑えられなかった。
時平は醍醐帝が命を下しやすいように取り計らい、滞りなく道真は大宰府の地に赴任という名の左遷をさせることになった。
俸給なし、赴任地での仕事はなし、赴任の費用も朝廷からは出さなかった。
帝を排斥しようとした罪を負うのだから当然である。
醍醐帝は道真を左遷させてから、自分は道真に父君を重ねていたことに気が付いた。
父君と道真に愛してほしいと思い、自分を信頼して受け入れてほしいと願っていた。
しかし父君の信頼はいつも臣下である道真に寄せられていた。
そして、最終決裁を自分ではなく父君に仰ぐ道真を疎ましく思い始めていたのだ。目敏い時平は、醍醐の感情を敏感に感じ取って政治に利用したのである。

臣下を大宰府の地に送り、事あるごとに道真の様子を報告させていた。
都で殿上人、右大臣として活躍していた道真の晩年は本当に寂しく侘しい暮らしを強いられていたようだ。風が通るようなあばら家にひとり住み、灯りを灯す油にも困っていたという。
そこまでするつもりは醍醐帝にはなかったが、帝に対する謀反はそれなりの処罰でなくてはならないと藤原一族は息まいていた。
むしろ命を取られないだけ、感謝するべきだと言う者もいた。
そして道真左遷後は、藤原一門が朝廷を我がもの顔で仕切りだしたのであった。
何も変わることはない。
誰も醍醐帝に期待しているものはいなかったことが良く分かった。
帝は磨き抜かれた美しい清涼殿でひとりその麗しい顔を曇らせ、暗い孤独の深淵を覗きはじめていた。


黒鉄はいつでも道真の側にいたわけではなかった。
(極楽浄土にも行けない陰陽の身体になったのもきっと黒鉄というあの雷神の使いのせいであろう。何と勝手なものだ。)
ぶつぶつと独り言を言いながら、道真は内裏の大学寮に今日も通っていた。
腹は特に空かぬが夜は眠くなることと、普通の人間のように時の感覚はある。
普段は邸にいて妻を見守り、様子が落ち着いていれば大学寮に忍びこんで蔵書に熱中する。
それが最近の日課である。
大学寮まで行ってみるとさすがに道真の蔵書とは桁が違う。
内裏は人が集まれば何かと道真の怨霊だ、祟りだと騒いでいたので気は進まなかったが蔵書を読む楽しみには変え難かった。
殿上人たちは自分に何の関わりもないと思っているから、噂に有ること無いこと尾ひれをつけて際限がない。
続く疫病、天災に皆の心も疲れているのだろうが、
なんでも自分のせいにされるのは甚だ不本意だ、と道真は思った。
恨む心がなかったかと言えば正直ある。
弁明の機会も与えられず、家族と別れて大宰府に出発しなければならなかった日を忘れたことはない。
しかし今も人を呪うどころか、人には見えない身体となっているだけで
何ら普通の人間とできることに変わりはない。
だが人は真実であろうがなかろうが自分にとって信じたいものを信じる。
その事実は陰陽体の姿になった道真の心に深く刻みこまれた。

その夜、彼は急ぐでもなく慣れた足取りで内裏を歩いていた。
検非違使が内裏を見回る姿だけが見えた。
数日間の大雨が嘘のように晴れて、内裏にはひときわ大きく立派な月を眺めることができた。
生まれたてのように美しく艶やかな光で、あたりを柔らかく照らしている。
ふと見れば、紫宸殿の屋根に大きな黒い塊が見えた。
「黒鉄殿。」
小さくつぶやいたつもりだったのに、黒鉄は振り返って手を挙げた。
「良い月だな、道真殿。」
屋根の上から滑るように黒鉄は降りてきた。
この大きな巨体が音もなく降りてくるのが不思議である。
「明日じゃ。」
「明日?」
道真はそのまま返した。
「大宰府から道真殿を連れてきた時、見せたいものがあると言っただろう。
そろそろ始まるのさ。」
「何が始まるのですか?」
道真の問いに応えず黒鉄は言った。
「明日の朝、迎えをやろう。」
それだけ言うと黒鉄は内裏の闇へ消えていった。

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