見出し画像

靴を履く人

#私だけかもしれないレア体験
というタグを見かけたので、書いてみようと思う。
特に賞は欲しくなく、きっかけとして受け止めた。

私は中島みゆきの40年来のファンで、一回り上の彼女の
背中を見つめながら、共に歩んできた感がある。
大阪に行くには、京阪電車に乗る。一時間近い特急を、座席指定車で快適に過ごす。
その時にみゆきさんのアルバムを聴く。集中できる貴重な時間、
ほとんど一緒に(声を出さずに)歌っているが、
風景が沁みて、思いがけず涙することもあった。

ある日の朝、大阪に向かう。
指定座席、プレミアムカーの心地よさを味わい、ライブアルバムを聴く。
コロナが流行り出した頃、中止になってしまった「ラスト・ツアー」。
ちょうど、そのフェスティバルホール方面へ向かうところだった。

列車は途中で大きくカーブする。
「京阪カーブ式会社、っていいますねん」と、途中の駅
枚方(ひらかた)辺りに住まう方がおっしゃったのを思い出す。
カーブを抜け、川沿いの楠葉に停車する。
淀川が大きく開け、対岸の大山崎が見え、風が抜けて
人の気配が少ない駅だ。

その前に「誕生」という曲が始まっていた。すべての人に向けて、
生まれてくれたことを歓迎する、スケールの大きな曲。
ラスト・ツアーでの音源。明日から最後のライブツアーが中止、と
本人から発表があった、直後のテイクだ。
なんともいえない感慨が湧いて、私は思わず
両手の指先だけを合わせて合掌していた。

楠葉の駅に列車が入る。徐々に減速し、ぴたりと止まる。
ふっと目をあげると、ホームにいる人と目があった。
30代くらいだろうか、太ったような、大柄な。
私の手は合掌したままだった。

彼は静かに、脱いで横にそろえてあった靴を履いた。

私は「誕生」の感動と余韻のまま、彼をうけとめて、
そのまま列車は動き出した。

ふと思う。
靴を履いたよね。

私は以前にも、川に入ろうとしている人を間接的に助けたことがあった。

中国語の検定試験。私一人、先生一人、緊張の時間中。
ビルの上階の教室で、窓の外は、川向こうに中之島公会堂が見える、
よいロケーション。
先生はいつも、窓からパンを投げて鳩にやっていた。
たくさんの鳥が来る部屋だった。

ひとり。
窓の外の、堂島川べりに座って、膝から下を川につけている人がいる。
靴はそろえて横に置いてある。逡巡している様子。
最初は、そうした人もいるだろうと思っていた。大切な試験中でもあるし。
けれどだんだん、試験が手につかなくなってきた。

手を上げて、先生にそのことを伝えた。
先生は警察に伝えた。
しばらくすると、警官がやってきて、その人に話しかけた。
その人は靴を履いて、警官と一緒に立ち去った。
なぜわかったのかと尋ねたのだろう、警官が、こちらの窓を指差していた。

楠葉の人は、なぜ靴を履いたのだろう。
あたたかい気持ちに包まれた、中島みゆきの曲の力。
その曲の歌われた、タイミング。
駅に列車がついた、タイミング。停車位置。
それが合わさって、出会った人と私だった。

ひとりじゃないよ。
元気でいてほしい。心から。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?