初体験(仮)12
イヴサンローランの化粧ポーチに手を伸ばし最初のベースメイクを手早く済ませると、いよいよ私の男を覆い隠すメイクの肝に入る。頬骨のラインを丸く優しいラインに見えるように女性とは違ったチークの入れ方をしていく。そして次にハイライト…1990年後半当時は女性がハイライトを入れるのは今ほどメジャーなテクニックでは無かったが、一部のドラァグクイーンやゲイの中には既に使いこなしている層もいた。上手に使えば肌に透明感が出て、目鼻立ちがハッキリして本物の女性さながらの顔を作り出せた。失敗すると、私の場合、清水アキラが研ナオコのモノマネをしている時の顔になってしまうので慎重に練習通りにパウダーを落としていく。鼻筋、頬の一部、そして目元…小声でアッコちゃんになーれー!アッコちゃんになーれー!と唱えながら真剣に集中して進めていく…。
何とか山場を終えて、ふぅー…と息を吐いた。メイクが終わるとトランクの中に余計な物は全てしまいベッドサイドにペペローションを置いた。あとはいつケイタが来ても良い。部屋番号は伝えてあるので直接部屋まで来るだろう…。
心臓の鼓動がまた耳にまで届くようになった。
スリッパだと歩きやすくて部屋をウロウロとしてしまうので少し早いがベッドに座りルブタンの白のハイヒールに足を通した。ソールの赤は間接照明の明かりで艶めかしく光っている。試しに立ってみると、完全な爪先立ちで足の裏がつりそうになった。靴単体として眺めている分にはただ美しいが履くのは思った以上に苦しい。爪先も美しく見せるために横幅も先端のRも極限まで絞り込んであって靴擦れになりうるポイント全てが当たっている。これはもう脱ぎたいと思ったが、全身が映る鏡の前まで頑張って歩いていき後ろを向くと、ほっそりとした真っ白な後ろ姿に、かかとの赤がアクセントで効いてオトナのオンナの雰囲気が存分に出ていて、まるで痛みに耐えるだけの価値を私に対して猛アピールしているようだった。
痛いのも忘れて軽くステップを踏んでいるとホテルの内線電話が鳴った。23:20…ついに来た。ウキウキと電話に出るとレセプションの声のトーンは固かった。お連れ様がいらっしゃっていますが、失礼ですがどういったご関係でしょうか?と丁寧だが有無を言わさぬ雰囲気が受話器越しに伝わってきている。ゆ、友人です。とだけ返すと、ではご記載頂いているご友人様のご住所なのですが、借主が株式会社グロコス様の事務所の住所でして…いらっしゃっているサイトウケイタ様に身分証のご提示をお願い申し上げたのですが、そういった物は一切持っていないとおっしゃって今エレベーターで下に降りて行かれてしまったので取り急ぎご連絡させて頂いた次第でござい………
耳の中がキーン!という耳鳴りで満たされて受話器の音が遠ざかっていった。私がチェックインする時には何もいっていなかったのに何故急に住所が調べられたのだろう。株式会社グロコスという遠回しな言い方をしていたが、あの口調はどういった借り主なのか恐らく調べはついているのだろう…。ここまで入念に準備したのに…何故大事なところで、こんな寸前で…悲しみと怒りに性欲が乗り、受話器を電話に強かに叩きつけて通話を切った。
セットした髪をグシャグシャと掻きむしっていると耳鳴りが治まってきて絨毯の上でケータイがバイブレーションで震えている。番号は例の店の電話番号だ。同時にホテルの内線電話もけたたましく鳴り響く。とりあえずケータイの通話ボタンを押して受話器を右耳に押し当て、左手で左耳を思いきり押さえた。
藍渕さま。ケイタから事情を今聞きました。ホテルの場所を変えて頂くか、このままキャンセルするか今ここでお決めください。なお、キャンセルですとお客さま都合によるキャンセルとなるので、事前に頂いている前金と残りの半金も1週間以内にお支払い頂く事となります。
そんな!私はホテルが入れないと言わなければ準備万端なんですよ!あなた方で何とかするのが筋でしょう?と必死に食い下がる。内線は相変わらずけたたましく鳴り響いている。
利用規約にご同意頂いているので、この場合は第四条の3”お客さまの都合、もしくはこちらの落ち度以外の不測の事態で場所が確保できない場合はお客さま都合のキャンセルとする。”が適用される案件となります。
向こうはこんな事は日常茶飯事なのだろう…全く動じる気配もなく淡々としている。
とにかく、今この場でご意志をお決めください。うちの店子も永遠には待機させてはおけませんので。
やっと内線が鳴り止んだ。涙で両頬には黒い線が通っている。なんで私にはいつもいつも邪魔立てが入るのよ!ケータイの送話口に叫ぶが返事はない。選択の余地は残されていなかった。…ここまで準備してきた衝動をぶちまけられなかったら気が変になってしまう……どこか、別のホテルを紹介してください。あと、ひと目で良いから1度ケイタさんと移動する前に会わせて。語尾の方は涙声でかすれた声になっていた。……少し間があったが、かしこまりました。ではケイタは銀座線の三越前駅の改札口で待機させてありますので、まずはそこにお向かいください。合流次第で追ってどちらに行って頂くかはお知らせさせて頂きます。失礼いたします。と言って3秒後に電話が切れた。まずは地下鉄の三越前に急がねばならない。涙で黒い線の入ったピエロのような顔にドレスにハイヒールに黒のおっさんショルダーバッグ…10分前の艶かしいオトナのオンナの雰囲気は見る影もなく消えていた。ベッドサイドのペペローションを鞄に突っ込んで、ケイタの待つ三越前駅に向かって走り出した。
冷蔵庫の中ではフルーツデザートが仲良く2つ並んでいる。
#小説 #大人向け #セクシャルマイノリティ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?