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Mysteries of the Macabre ~狂気と愛の音楽〜

音楽家にとって、もはや「コロナ」という言葉も聞きたくないような状況になってしまった。演奏会は軒並み中止、演奏会の企画をしても実現するのかわからない。コーラスの練習もできない。状況は学校の現場も似ている。特に実技を中心に進めていた音楽の授業は、生徒たちが登校できず、顔を合わせられず、もし登校できるようになったとしても、不安があるなかでは歌うこともできない、楽器演奏や人と人との距離が近いグループワークもできない。正直気が滅入る。

ようやく気持ちを切り替え、オンライン授業に向けて動画撮影に挑むこの頃だけど、滅入ってた数日はおかしいことに、さらに滅入りそうな音楽を聴き、深夜に滅入りそうな海外ドラマを観ていた。

そこでふと思う。私はもともと現代音楽をよく聴くので、一般的には「気が滅入りそう」な音楽をよく聴いているのかもしれない。しかし、ここのところの鬱屈したような状況はおそらく世界中どこも同じで、もしかしたら今なら現代音楽もいつもより共鳴されたりして?!

手元に「死の舞踏集」という2005年にドイツのナクソスから出た2枚組のCD集がある。CDのジャケットには骸骨があしらわれ、おどろおどろしいフォントで「Macabre Masterpieces」(しかも赤字)と書かれている。内容は管弦楽集で、意外なことにかなりロマンティックだ。タイトル通りリストの「死の舞踏」やサン=サーンスの「死の舞踏」はもちろんのこと、ベルリオーズの「断頭台への行進」、ドヴォルザークの「真昼の魔女」、フランクの「呪われた狩人」、リャードフの「キキモラ」など、悪魔や死、魔女や魔物、幽霊など、太古から人間が恐れていた「目に見えない何か」をテーマにした作品が集められている。聞いてみると思った以上に美しくて、正直なところ私には刺激が少し足りない。しかし興味深いには、19世紀になぜこれほどまでに「死者」や「悪魔」的なものがモチーフとして用いられたのかである。当時音楽に強く影響を与えたゲーテの文学も、「悪魔」の存在感が非常に強い。

例えば、美術における「死の舞踏」はそもそも14~15世紀にヨーロッパで流布した寓話をもとにしており、その成立の背景には14 世紀中頃、ヨーロッパで大流行したペストがあったという。ヨーロッパのほぼ全土で流行し、当時の3割から5割の人が命を落としたとされる。ペストはその後何度も世界で流行を見せるが、19世紀にヨーロッパの人々に襲いかかったのはコレラという別の悪魔だった。コレラは19世紀に4度も世界的パンデミーをみた。犠牲者は一説には5000万とも言われる。朝元気だった人が夜に突然亡くなるような状況は、まさに人々を戦慄させ、悪魔に取り憑かれたとしか思えなかったのかもしれない。文学や芸術、音楽の題材にしきりに取り上げられるのも肯ける。

さて、私が大好きな作曲家ジェルジ・リゲティ に昨年より向き合う機会が増えている。オルガン作品の演奏をきっかけに、リゲティに関する書物を読んだりと、少しずつ距離が近くなる感覚をおぼえるのだけど、これがなかなか他の人と共有するのが容易でない。 何故だろうと思った時に、ふと、リゲティの音楽がしばしば人々を畏怖させていた「目に見えない何か」的な音を生み出しているからなような気がしてくる。キューブリックの映画でのリゲティ の音楽の使用例はまさにそれを具体化したような感じだ。ただし、リゲティ は単純に「悪魔的」と片づけられるものではなく、もっと人間的な、つまりぞっとするものの数々の中でも「一番怖いのは人間」なんだ、みたいな感じがある。そして、リゲティ 自身そこに恐怖ではなく愛を見出しているように思える。

最近リゲティ のある作品をYouTubeで見て圧倒された。「Mysteries of the Macabre」はリゲティ のオペラ「Le Grand Macabre」(大いなる死神)の抜粋である。作品の持つパワーもさることながら、バーバラ・ハニンガンの歌唱とパフォーマンスが素晴らしすぎる。サイモン・ラトルと共演しているバージョンもあるが、ハニンガン自身の指揮はパフォーマンスと一体になっていて、ハニンガンとオケとの距離がさらに近くてこっちの方が断然いい。指揮者が別に存在すると、次元の異なる人物がそこに介在してしまうように思う。


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