終わりなき旅のはじまり15

レコーディングスタジオの仕事も人並みにこなせるようになった頃、ふとした事が切っ掛けで気にとめてくださった方がいた。

GOさんという、絶対音感を持つプロデューサーの方で、2ヶ月に1回はGOさんプロデュースの制作が入るほど当時人気のあるプロデューサーだった。

スタジオにいた3年間、ほんとに色々な事を教わった。

ある日、GOさんから、このキーボードを使って、この音源と同じ音を作ってみろと言われた。

キーボードのマニュアルも何もない。

あーでもないこーでもないと、キーボードをいじり倒す事3時間、その間、まだ終わらないのか?と笑いながら何も口を出さず、僕が答えを見つけるのを、GOさんはただただ目の前で待っていてくれた。

出来ました!とGOさんに伝えると、おー、出来たか、次は今の3時間で見つけた答えをマニュアル化して今度見せろよ、と言って笑いながら帰っていった。

小さな頃からあまり父親というものを知らない僕にとっては、その場所場所で出会う方々に色々教えてもらったり育ててもらったりする事が何よりも新鮮で嬉しかったのを覚えてる。

この頃、日韓の文化を音楽を通して伝えていた三女の姉は「私の越境レッスン」に続き「日韓音楽ノート」という本を書き始めていた。

そんな三女の姉から仕事を頼まれたのは、1997年の夏頃だったと思う。

ある韓国のアーティストのコンサートマネージャーをして欲しいという仕事だった。

そのある韓国のアーティストとは「ハン デス」という人だった。1974年に「遥なき遠き道」というアルバムを韓国で発表し人気を博すも、60年代の日本同様、学生運動や民主主義運動などのメッセージ、影響力ある曲が故、政府から監視され、自由を求めてニューヨークへ渡った人だった。

韓国のアーティストとしては、初めてニューヨークのCBGBでライブをやったことでも有名である。

コンサートは福岡での開催だったが、僕は東京のリハーサルから同伴した。

リハーサル当日にやってきたのがRCサクセション、カルメンマキで知られる春日博文さんだった。

春日博文さんプロデュース、東京ビビンバクラブのメンバーがバックバンドとしてつく、何とも贅沢なコンサートだった。

ちゃんとやらなあかんなと気を張ってた僕に、春日さんが笑いながら「気楽にその場ののりでいいよ笑」と言ってくれて少し楽しめるようになったのを覚えてる。

そしてハン デス。

姉が送った1通の手紙で日本公演を決めたのだが、言われ聞いた伝説とは想像してたよりも気さくで大きなハートを持ってた方で、素晴らしいコンサートを企画してくれてありがとうと、大はしゃぎだった。

1997年9月、福岡天神IMSホールにて、ハンデスのコンサートが行われた。

満員大盛況で僕もまたその達成感に感動した。

三女の姉はこの時の事も書いた「日韓音楽ノート」をのちに出版、ハンデスは再び韓国での活動を始めた。

これを切っ掛けに、三女の姉とは何度か一緒に仕事をするようになる。

そして23歳になった僕は、仕事から学んだ事を少しづつ活かそうと、CD製作を始めるようになる。

終わりなき旅のはじまり15。終わり。

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